Witnessing a Lingusitic Turn: The Case of Frege's Grundlagen

目次

 

お知らせ

前回述べたように、今回ブログを更新できるかどうか不安でしたが、何とか更新できました。

しかし、今後は更新が不定期になるかもしれません。あるいはそもそも更新できないかもしれません。

この6月から今までと生活がまったく変わり、従来とはひどく違ったパターンで暮らしています。

そのため、もしかしたら何かのきっかけで長期的に更新が止まるかもしれません。

できるだけ今までどおり更新していきたいと思っていますが、急に更新のペースが乱れるかもしれません。

とにかく状況が落ち着いていないことをお伝えしておきます。よろしくお願い申し上げます。

お知らせ終わり

 

はじめに

前回は分析哲学において言語論的転回が生じた瞬間を、Ludwig Wittgenstein の Tractatus Logico-Philosophicus に見たのでした。

言語論的転回は、次の二つの条件のうち、その一つ、またはその両方が満たされた時、生じるとされています *1

  (1) 哲学の問題は、言語を誤解した結果、生み出される擬似問題にすぎないと認めること、

  (2) 哲学の問題を解決するためには、言語の働きを理解する必要があるということ。

Wittgenstein の Tractatus においては、これら (1), (2) の条件が満たされていたと考えられます。

また、この他に言語論的転回が生じたとされる文献には、Gottlob Frege の Die Grundlagen der Arithmetik と Bertrand Russell の ''On Denoting'' があるのでした *2

そこで今回は、Frege の Grundlagen で言語論的転回が生じた瞬間を、ドイツ語原文で味わってみたいと思います *3

 

Frege において言語論的転回が生じた瞬間とは、次の本の

・ Gottlob Frege  Die Grundlagen der Arithmetik, hg., Ch. Thiel, Felix Meiner, Philosophische Bibliothek, 366, 1884/1988,

§62 だとされています *4

そこでそのセクションを以下にすべて引用して読んでみますが、その前に、そのセクションへと至る話の流れをごく簡単にまとめてみます。そのあとでドイツ語の原文と、私と同じくドイツ語を修業しておられるかたのために文法事項を記し、そして私訳である直訳、逐語訳、既刊の邦訳、英訳を並べ、次に仏訳と、やはりフランス語を私と同様修行中のかたのために文法事項を添え、それから私訳の直訳と逐語訳を載せることにします。その後、そのセクションの内容を軽く振り返り、付録をつけて終わりにします。

つまり、話は次の順序を取ります。(1) §62 までの流れを解説、(2) §62 ドイツ語原文、(3) ドイツ語文法事項説明、(4) 直訳、(5) 逐語訳、(6) 既刊邦訳、(7) 英訳、(8) 仏訳、(9) フランス語文法事項説明、(10) 直訳、(11) 逐語訳、(12) §62 再検、(13) 付録。

ちなみに私訳を意訳にせず、直訳や逐語訳にしているのは、意訳がいけないからではなく、ドイツ語原文を子細に味わってみたいがためです。「直訳こそが意訳に優る正真正銘の訳だ」と主張したいがためではありません。また、きちんとした既刊の邦訳がもうあるので、それとの違いを付けるためでもあります。

なお、私はドイツ語もフランス語も得意ではないので、誤訳している可能性があります。訳出の際、まずは自力でドイツ語、フランス語から和訳したあと、既刊邦訳と突き合わせ、誤訳がないかチェックしました。チェック後、諸先生方の訳と私訳には大きな齟齬はないように見えましたので、自力で訳した私訳は何ら修正を加えず、以下ではそのまま掲載しています。とはいえそれでも私の訳に誤訳や悪訳が残っているかもしれません。そのようでしたら大変すみません。

最後に一言。Frege は Grundlagen を書いていた段階では有名な Sinn と Bedeutung の区別をまだしていませんでしたから、以下の私訳中にたとえ「意義」や「意味」や「指示」、「意味する」や「指示する」、「表現する」、「表わす」などの訳語が出てきたとしても、それらを厳密に区別して訳しているわけではありません。どうかご理解ください。

 

§62の背景

このあと引用する §62 の文の前に、Frege は何を言っているのか、その点をごくごく簡単に私見を若干交えつつ述べておきます。

Frege は Grundlagen の始めから、0, 1, 2, ..., などの自然数はどのようなものなのかを問うています。

たとえば「花子には、太郎という彼氏がいる」という文があります。少し奇妙な話なのですが、この文のなかの表現「太郎という」は「彼氏」を形容しているので、太郎はここで言及されている彼氏の特徴、性質を表わしている、と主張する人が、もしかしてもしかするといるかもしれません。つまりここでの太郎は、「大きい」とか「赤色をしている」などと同様に、性質の一種なのだ、主張する人がひょっとしてひょっとするといるかもしれません。

しかしこのような奇妙な主張に対しては、私たちは一つの対抗策として次のように反論することができるでしょう。つまり「花子には、太郎という彼氏がいる」という文は「花子の彼氏は太郎だ」と言い換えることができ、この言い換えられた文では、「太郎」は「彼氏」を形容しておらず、単独の名詞として振る舞っているので、「太郎」は性質を表わしているのではなく、こう言ってよければ何らかのもの、対象を表わしているのだ、と。

ところで「花子には、太郎という彼氏がいる」という文と似た文に「木星は四つの衛星を持っている」という文があります。この木星に関する文に出ている「四つの」は「衛星」を形容しているので、四つという自然数は衛星の特徴、性質を表わしている、と主張する人がいるかもしれません。しかしこの主張に対しては、先ほどと同じような反論が考えられます。つまり「木星は四つの衛星を持っている」という文は「木星の衛星の数は四つである」と言い換えることができ、この言い換えられた文では、「四つ」は「衛星」を形容しておらず、単独の名詞として振る舞っているので、「四つ」は性質を表わしているのではなく、何らかのもの、対象を表わしているのだ、と。

実際 Frege はこのような主張を展開し、4 などの自然数は何かの性質なのではなく、一つのもの、他のものとは区別され、他のものにいわば寄生することもなければ依存もせず、それ単独で存在している対象なのだ、と考えています。このような対象を彼は「自存的対象」と呼び、個々の自然数は、この意味での対象なのだ、としています。

そうやって今度はこのような対象がどのようにあるのかを Frege は問うています。たとえば、それらの自然数は私たちの外側に、特定の時間や空間を占めながら存在している物体のようなものなのだろうかと問うています。そしてこの問いに対しては、そうではないと答えています。

またそれら自然数は私たち個々人の心のなかにある、何かイメージのようなのものなのかと Frege は問うています。そしてこの問いに対しても、そうではないと答えています。

では、私たちの外にもなかにも自然数がないとするならば、自然数はそもそも存在しないのだろうか、との問いに対し、Frege は「物理的、生理的に、私たちの外にもなかにもないとしても、客観的なものとしてそれはあるのだ」という趣旨の発言をしています *5

しかし、個々の自然数は、私たちの外にもなかにもないにもかかわらず、それでも客観的にあるなどと、どうして言えるのだろうか、どうやってそれを知ることができるのだろうか、どんなふうにして数字の「四」は客観的な対象としての四を指していると保証できるのか、という問いが思い浮かびます。

この種の問いに対し、Frege は以下の §62 で返答を与えています。それではそのセクション原文を読んでみましょう。ちなみに引用文中に出てくる 'Vorstellung oder Anschauung' は、私たちが今述べてきた心のなかのイメージを、おおよそのところ、表わしている言葉です。

 

ドイツ語原文

 § 62. Wie soll uns denn eine Zahl gegeben sein, wenn wir keine Vorstellung oder Anschauung von ihr haben können? Nur im Zusammenhange eines Satzes bedeuten die Wörter etwas. Es wird also darauf ankommen, den Sinn eines Satzes zu erklären, in dem ein Zahlwort vorkommt. Das giebt zunächst noch viel der Willkühr anheim. Aber wir haben schon festgestellt, dass unter den Zahlwörtern selbständige Gegenstände zu verstehen sind. Damit ist uns eine Gattung von Sätzen gegeben, die einen Sinn haben müssen, der Sätze, welche ein Wiedererkennen ausdrücken. Wenn uns das Zeichen a einen Gegenstand bezeichnen soll, so müssen wir ein Kennzeichen haben, welches überall entscheidet, ob b dasselbe sei wie a, wenn es auch nicht immer in unserer Macht steht, dies Kennzeichen anzuwenden. In unserm Falle müssen wir den Sinn des Satzes

»die Zahl, welche dem Begriffe F zukommt, ist dieselbe, welche dem Begriffe G zukommt«

erklären; d. h. wir müssen den Inhalt dieses Satzes in anderer Weise wiedergeben, ohne den Ausdruck

»die Anzahl, welche dem Begriffe F zukommt«

zu gebrauchen. Damit geben wir ein allgemeines Kennzeichen für die Gleichheit von Zahlen an. Nachdem wir so ein Mittel erlangt haben, eine bestimmte Zahl zu fassen und als dieselbe wiederzuerkennen, können wir ihr ein Zahlwort zum Eigennamen geben.

 

文法事項

Wie soll: この sollen はいわゆる「自問の sollen」で、「一体全体~なのか?」。

Es wird: werden は未来を表わすこともありますが、しばしば推測 (~だろう) を表わします。というよりも、そもそも werden は推測を表わし、それがしばしば未来を表わすことに転用されると言った方がよいかもしれません。関口存男、『ドイツ文法 接続法の詳細』、三修社、2000年、339-340ページ。ここで関口先生は「未来の werden は推測の werden が転用されたものだ」とは断言されておられませんが、未来の werden が元々未来を表わしていたとすることは疑わしいと考えておられます。いずれにせよ、ここでは werden は推測を表わしています。

Es wird also darauf ankommen: 熟語 es kommt auf etwas4 an (etwas が重要である、etwas 次第である) の派生形。es は形式主語。darauf の da- は後続の zu 不定詞 den Sinn ... zu erklären を指しています。

in dem: dem は関係代名詞で、先行詞は前方の Satzes.

zunächst noch: さしあたりまだ。

viel: これは形容詞の viel が名詞化したものです。

unter den Zahlwörtern selbständige Gegenstände zu verstehen sind: unter 3格 + 4格 verstehen で、「3格を4格と理解する」。ただし、ここでは selbständige Gegenstände は4格ではなく1格で、sind の主語になっています。

zu verstehen sind: zu 不定詞 sein で、受動的可能 (されうる) または受動的必然 (されるべきである) であり、ここでは後者。

der Sätze: この複数2格は、文法上、前方の遠くにある eine Gattung にかかっているとも、あるいは前方の近くにある einen Sinn にかかっているとも考えられますが、einen Sinn にかかっているとすると、そこで述べられている意味内容はごたごたしたものとなるのに対して、eine Gattung にかかっているとすると、ごたごたせずすっきりとしたものとなるので、der Sätze は eine Gattung にかかっていると考えられます。このあと引用する仏訳では、der Sätze がどちらにかかっていると解釈しているのか、はっきりしません。文法上、どちらにも解釈できる形で仏訳されています。しかし J. L. Austin の英訳では、der Sätze が eine Gattung にかかっていると判断して英訳されています *6

Wenn uns das Zeichen a einen Gegenstand bezeichnen soll: この soll ですが、これが正確には何を意味するのか、正直に言って私には確信が持てません。これが sollte なら、それはいわゆる「万一の sollen」(万一~するようなことがあれば) に当たると考えられますが、ここでは接続法第2式の sollte ではなく、直説法の soll になっていますので、「万一の sollen」ではないように思われます。そこで基本に戻って考え直してみると、そもそも sollen は、この助動詞を持った主語に対する主語以外からの要求、命令を根本的に表わします *7 。そのため、ここでの副文は武骨に訳すと「我々としては、記号 a が対象を指示するよう求めるならば」となります。もう少しこなれた訳にすると「記号 a が対象を指示するよう我々が求めるならば」となります。これが正しい訳だとすると、この副文の soll は主語以外のものからの、特に我々からの、主語に対する要求を表わしていることになります。ただし、この soll は要求というよりも、仮定や取り決めを表わしているとも考えられるかもしれません。つまり「記号 a が対象を指示するよう我々が仮定するならば/取り決めるならば」です。または、この soll はいわゆる「用向きの sollen」(~するためのものである) なのかもしれません。その場合には「我々にとり、記号 a は対象を指示するためのものであるならば」となります。結局、要求なのか、取り決めなのか、用向きなのか、私は確信が持てないのですが、たぶん普通に要求を表わしているのではないかと推測しています。ちなみにこのあとに引用する仏訳では、この soll を無視して訳しています (Si le signe a désigne un objet)。それに対し、英訳では 'If we are to use the symbol a to signify an object' となっています *8 。一般に「S is to 不定詞」は基本的に予定 (~することになっている) を、とりわけ条件節中「if S is to 不定詞」では意図を含む予定 (~するつもりである) を意味しますが *9 、そうするとこの英訳では予定「もしも我々は対象を指示するよう記号 a を使うことになっているならば」、または意図「もしも我々が対象を指示するために記号 a を使うつもりであるならば」となって、soll は要求、取り決め、用向きのいずれにも取れる意味で訳されていると考えられます。

b dasselbe sei wie a: sei は間接文のために接続法第1式になっています。直説法の主文で表わすと、b ist dasselbe wie a で、「b は a と同じである」。dasselbe は derselbe が中性名詞化して、抽象的なものを指すために中性の das- となっているか、または名詞化しておらず、dasselbe のあとに Ding が省略されているために中性となっていると考えられます。

wenn es auch: wenn ... auch で認容文「たとえ~だとしても」。es は後続の zu 不定詞 dies Kennzeichen anzuwenden を指します。

in unserer Macht steht: 「(主語) は我々の力のおよぶ範囲内にある、(主語) をすることが我々にはできる」。

die Zahl, ..., ist dieselbe: dieselbe は derselbe の女性1格で、die Zahl を指す指示代名詞か、または dieselbe のあとに Zahl が省略されている指示冠詞と解されます。

d. h. : das heißt の略。「つまり」。

... zu fassen und ... wiederzuerkennen: これらの zu 不定詞は、前方の ein Mittel に形容詞的にかかっています。

als dieselbe: dieselbe は derselbe が名詞化して前の Zahl を指しているか、または名詞化しておらず、そのうしろで Zahl が省略されているものと考えられます。

zum Eigennamen: この zu は「~として (als)」の zu です。「~として」の意味の zu が出てくるよく知られた熟語には 「zum Beispiel (たとえば)」があります。この熟語は文字どおりに逐語訳すると「例として」となります。「~として」の zu については、たとえば相良守峯監修、『独和中辞典』、研究社、1996年、項目 zu をごらんください。そこの前置詞の用法の 7, (b), <<指定>> 「... として」の欄を参照願います。

 

直訳

§ 62. そうすると、我々が数について表象または直観を持ち得ないとするならば、一体いかにして数は我々に与えられるのだろうか? 文という脈絡においてのみ、語は何か意味するのである。それ故、数詞が現れる文の意義を説明することが重要だろう。それだと、まださしあたりは、多くのものが任意に任されたままである。しかし数詞ということで自存的対象が理解されねばならないことを、我々は既に確認していた。そのため、ある意義を必ず持っている文の一種が、[つまり] 再認を表わしている文の一種が、我々には与えられているのである。記号 a が対象を指示するよう我々が求めるならば、b が a と同じであるかどうかをいたるところで決定する指標を、たとえこの指標を適用することがいつでも我々の力のおよぶ範囲内にあるとは限らないとしても、我々は [そのような指標を] 持っていなければならない。我々の場合では

「概念 F に帰属する数は、概念 G に帰属する数と同じである」

という文の意義を我々は説明しなければならない。つまりこの文の内容を、表現

「概念 F に帰属する数」

を使わずに、別の仕方で我々は再現しなければならないのである。これにより、我々は数の同一性に対し、一般的な指標を提示するのである。こうしてある特定の数 *10 を把握し、かつ [改めてその数に出会った場合にそれを先ほどのものと] 同じ数として再認する手段を我々が手に入れたあとで、その数に対し固有名としての数詞を我々は与えることができるのである。

 

逐語訳

§ 62. denn そうすると wir 我々が von ihr それ [数] について Vorstellung oder Anschauung 表象または直観を haben 持ち können 得 keine ない wenn ならば Wie いかにして soll 一体 uns 我々に eine Zahl 数は gegeben sein 与えられる ? のか。 eines Satzes 文という im Zusammenhange 脈絡において Nur のみ die Wörter 語は etwas 何かを bedeuten 意味する。 also それ故 ein Zahlwort 数詞が vorkommt 現れる in dem ところの eines Satzes 文の den Sinn 意義を zu erklären 説明すること darauf それが Es ... ankommen 重要である wird だろう。 Das それは zunächst noch さしあたりまだ viel 多くのものを der Willkühr 任意に giebt ... anheim 任せている。 Aber しかし unter den Zahlwörtern 数詞で selbständige Gegenstände 独立した対象が zu verstehen sind 理解されねばならない dass ことを wir 我々は schon 既に haben ... festgestellt 確かめていた。 Damit そのため müssen 必ず einen Sinn ある意義を haben 持っている die ところの von Sätzen 文の eine Gattung 一つの種類が、 [つまり] ein Wiedererkennen 再認を ausdrücken 表現している welche ところの der Sätze 文の [eine Gattung 一つの種類が] uns 我々に ist ... gegeben 与えられているのである。uns 我々としては das Zeichen a 記号 a が einen Gegenstand 対象を bezeichnen 指示する soll よう求める Wenn ならば、 so その場合 b b が wie a a と dasselbe 同じで sei ある ob かどうか überall いたるところで entscheidet 決定する welches ところの ein Kennzeichen 印を wir 我々は haben 持って müssen いなければならない、 wenn ... auch たとえ dies Kennzeichen この印を anzuwenden 適用すること es それが immer いつでも in unserer Macht 我々の力のおよぶ範囲内に steht あるという nicht わけではないとしても。 In unserm Falle 我々の場合では dem Begriffe F 「概念 F に zukommt 当てはまる welche ところの die Zahl 数は dem Begriffe G 概念 G に zukommt 当てはまる welche ところの dieselbe それと同じ ist である」という des Satzes 文の den Sinn 意義を wir 我々は erklären 説明し müssen なければならない。 d. h. つまり dieses Satzes この文の den Inhalt 内容を den Ausdruck 表現 dem Begriffe F 「概念 F に zukommt 当てはまる welche ところの die Anzahl 数」を gebrauchen 使う ohne ~ zu ことなく in anderer Weise 別の仕方で wir 我々は wiedergeben 再現し müssen なければならない。 Damit それにより wir 我々は von Zahlen 数の für die Gleichheit 同一性に対し ein allgemeines Kennzeichen 一般的な指標を geben ... an 述べるのである。 so こうして eine bestimmte Zahl ある特定の数を zu fassen 把握し und かつ als dieselbe 同じそれ [数] として wiederzuerkennen 再び認める ein Mittel 手段を wir 我々は erlangt haben 獲得した Nachdem あとで ihr それ [数] に zum Eigennamen 固有名としての ein Zahlwort 数詞を wir 我々は geben 与えることが können できるのである。

 

 

既刊邦訳

・ G. Frege  『算術の基礎』、三平正明、土屋俊、野本和幸訳、勁草書房、2001年、121-122ページ。

冒頭の「[我々は ... 必要とする。]」は引用者によるものではなく、邦訳原文にあるものです。

第62節 [我々は数の相等性に対する規準を必要とする。]

 我々が数について表象や直観を何も持ちえないのだとすれば、一体どのようにして数は我々に与えられるのか? 命題という連関でのみ、語は何かを意味する。したがって、問題となるのは、数詞が現れる命題の意義を説明することだろう。これだけでは、差し当たりまだ多くが任意に委ねられている。しかし、我々はすでに、数詞によって自存的対象を解さなければならないことを確立した。それによって我々には、ある範囲の、意義を持つべき諸命題が与えられている。すなわち、それは再認を表現する命題である。記号 a が我々に一つの対象を表示すべきだとしたら、我々は、b が a と同一かどうかを至る所で決定する規準を持たなければならない。たとえこの規準を適用するのは我々の力では必ずしもできないのだとしても。目下の場合では、我々は命題

「概念 F に帰属する数は概念 G に帰属する数と同一である」

の意義を説明しなければならない。つまり、我々はこの命題の内容を、

   「概念 F に帰属する基数」

という表現を使わずに、別の仕方で再現しなければならない。それによって我々は、数の相等性に対する一般的な規準を提供することになる。このように、一つの特定の数を把握して、同一のものと再認する手段を獲得したときに初めて、我々はその数に数詞を固有名として与えうるのである。

 

 

英訳

・ G. Frege  The Foundations of Arithmetic, Second Revised ed., tr. by J. L. Austin, Basil Blackwell, 1953, p. 73.

 § 62. How, then, are numbers to be given to us, if we cannot have any ideas or intuitions of them? Since it is only in the context of a proposition that words have any meaning, our problem becomes this: To define the sense of a proposition in which a number word occurs. That, obviously, leaves us still a very wide choice. But we have already settled that number words are to be understood as standing for self-subsistent objects. And that is enough to give us a class of propositions which must have a sense, namely those which express our recognition of a number as the same again. If we are to use the symbol a to signify an object, we must have a criterion for deciding in all cases whether b is the same as a, even if it is not always in our power to apply this criterion. In our present case, we have to define the sense of the proposition

''the number which belongs to the concept F is the same as that which belongs to the concept G'';

that is to say, we must reproduce the content of this proposition in other terms, avoiding the use of the expression

''the Number which belongs to the concept F''.

In doing this, we shall be giving a general criterion for the identity of numbers. When we have thus acquired a means of arriving at a determinate number and of recognizing it again as the same, we can assign it a number word as its proper name.

 

 

仏訳

・ G. Frege  Les fondements de l'arithmétique, tr. par Claude Imbert, Seuil, 1969, p. 188.

 62. Si nous n'avons aucune représentation ni intuition d'un nombre, comment peut-il jamais nous être donné? Les mots n'ont de signification qu'au sein d'une proposition; il s'agira donc de définir le sens d'une proposition où figure un terme numérique. Cette prescription laisse encore s'exercer notre libre choix. Mais nous avons précédemment établi que, sous les termes numériques, il convient d'entendre des objets indépendants. Ainsi, nous disposons d'un genre de propositions qui doivent avoir un sens, celui des propositions traduisant le fait qu'on reconnaît un objet. Si le signe a désigne un objet, nous devons avoir un critère qui permette de décider si b est le même que a, même si nous n'avons pas toujours le pouvoir d'utiliser ce critère. Dans le cas présent nous devons définir le sens de la proposition : « le nombre qui appartient au concept F est le même que celui qui appartient au concept G »;

c'est-à-dire que nous devons énoncer le contenu de cette proposition d'une autre manière, sans employer l'expression :

« le nombre qui appartient au concept F ».

 Par là même, nous donnerons un critère général pour juger de l'identité des nombres. Et quand nous aurons le moyen de saisir un nombre déterminé et de reconnaître son identité, nous pourrons lui donner un terme numérique pour nom propre.

 

 

文法事項

n'avons aucune représentation ni intuition: ne ... aucun (ni) A ni B で、「A も B も何ら ... でない」。

comment peut-il jamais: jamais は肯定的な文脈では、基本的に「(過去のある時について) かつて」、「(未来のある時について) いつか」を意味します。しかしそうだとすると、「かつて」にしろ「いつか」にしろ、ここの文「それ (数) はいかにして我々に与えられうるのか」の意味にはそぐわないと考えられます。なぜなら「かつてどのようにそれは与えられたのか」とか「今後どのようにそれは与えられるのか」という話をしているわけではないからです。それに対し、ここで jamais の意味として一番ぴったりくるのは、ドイツ語の sollen の意味をくんだ「一体いかにして~なのか」というものです。したがってこの jamais は、過去や未来のことではなく、疑問の強調を表わしているはずなのですが、肯定的文脈の jamais の意味としては、『ロベール仏和大辞典』 (小学館) も『仏和大辞典』 (白水社) も、基本的に「かつて」と「いつか」の二つの意味しか辞書に記載していません。そこには「一体~なのか」の意味は載っていません。そこで少しこじつけっぽいのですが、肯定的な文脈の jamais は英語では ever を意味し、疑問文で ever を使えば「一体~なのか」を意味しますので、ever の意味の jamais は肯定的文脈の疑問文では「一体~なのか」をも意味すると、ここでは説明しておきます。

n'ont de signification: ここの de は不定冠詞が de に代わったもの。否定文中の直接目的語に付いた不定冠詞、部分冠詞は、通常 de に代わるという原則があるため。なお、否定文中の直接目的語に付いた不定冠詞、部分冠詞は、いつでも必ず de になるというわけではありません。ならないケースが少なくとも四つあります。[1] 数詞 un (一つの) を否定している場合。Il n'y a pas un chat. (猫一匹いない、人っ子一人いない)。[2] おうむ返しで否定する場合。― Tu fais un drame de rien. (君はささいなことを大げさなものにしている) ― Je ne fais pas un drame. (私は大げさになんかしていない)。[3] 目的語の存在が期待されている場合。Il n'y a pas un médcin ici? (こちらに医者はいませんか?)。[4] 目的語以外が否定されている場合。La police n'exclut pas un attentat. (警察はテロの可能性を排除していない。← exclure の否定)。以上 [1] ~ [4] については、小田涼、『中級フランス語 冠詞の謎を解く』、白水社、2019年、100-107ページをご覧ください。

n'ont de signification qu'au: ne ... que ~ で、「~ しか ... でない」。

au sein d'une proposition: au sein de ~ で、「~ の内部で」。

il s'agira donc de définir: il s'agit de 不定詞で、「~することが重要である」。原文はこの言い回しの単純未来形。ただし、ここでは未来の話をしているわけではないので、この単純未来形は未来を表わしているのではなく、語気緩和として使われていると考えられます。

où figure un terme numérique: この関係副詞節中では、un terme numérique が主語で figure が動詞であり、倒置しています。しばしば関係節中では、関係代名詞が節中の主語でなく、また節中の主語が on, ce, 人称代名詞ではない場合、倒置が生じます。ただし、倒置しなくても構いません。

laisse encore s'exercer notre libre choix: laisser が従えている目的語と不定詞について、その不定詞が自動詞か代名動詞の場合、目的語と不定詞の語順は任意です。原文では目的語 notre libre choix が代名動詞の不定詞 s'exercer に対し、倒置しています。この目的語は目的語とは言うものの、不定詞に対する意味上の主語になっています。なお、「laisser + 不定詞 + 目的語」と類似の構文を取る「faire + 不定詞 + 目的語」の場合は、疑問文や否定文、命令文の場合を除き、「faire + 目的語 + 不定詞」のように、faire と不定詞のあいだに語句をはさむことは通常できません。

il convient d'entendre: il convient de 不定詞で、「~するのが適当である、~すべきである」。il は非人称の主語。

nous disposons d'un genre : disposer de 名詞で、「(名詞) を自由に扱う、(名詞を自由にできるものとして) 持っている」。

celui des propositions: この celui は、文法上、前方の男性単数名詞 un genre を指しているとも、un sens を指しているとも、どちらとも取れますが、意味の上からは、un genre を指していると解するのがよいと思います。

un critère qui permette de décider: この関係節内の permette は permettre の接続法ですが、なぜ接続法になっているのでしょうか。おそらく次の二つの理由のうちのどちらかによるものだと思われます。一つ目。まずここでは「~することを決定できる基準」が必要とされており、望まれています。そして何か望まれているものを先行詞とする関係節内では接続法が使われる、とされています。故にここの関係節内では接続法が使われているのだと思われます。二つ目。「~することを決定できる基準」が必要とされ、望まれているのですが、原文内のこのあとの記述からわかるのは、この基準がいつでも適用可能だとは限らないということです。本来いつでも適用されるべき基準がいつでも適用可能なわけではないということで、この基準は理想的なものであり、常に現実的なものだということではなく、その存在はあやうく、仮定的で疑わしく、否定的な色合いを帯びています。そして否定的で疑惑を持たれ、仮定的なものを先行詞とする関係節内では接続法が使われますので、ここでは接続法が使われているのだと考えられます。次の文献からこれら一つ目と二つ目に該当する例文を引用しておきます。朝倉季雄著、木下光一校閲、『新フランス文法事典』、白水社、2002年、項目「subjonctif (mode) 接続法」、II. 用法、B. 従属節、第2番 形容詞節 (関係節)、まる1 目的・希望を表わす、まる3 否定・疑惑・疑問・条件を表わす節、508ページ。まず一つ目。「Il cherche un camarade qui parte avec lui. ([彼は] いっしょにでかけられる友だちを探している)」。二つ目。「Il y a peu d'hommes qui sachent véritablement aimer. (真に愛することを知る者は少ない)」。

décider si: ~かどうかを決める。

b est le même que a: A est le même que B で、「A は B と同じである」。

même si: 譲歩節を表わし、「たとえ~でも」。

n'avons pas toujours le pouvoir d'utiliser: avoir le povoir de 不定詞で、「~する力がある」。

le nombre ... est le même que celui: A est le même que B で、「A は B と同じものである」。celui は le nombre の代わりです。

c'est-à-dire que: c'est-à-dire que + 直説法で、「つまり~である」。

Par là même: それによってこそ、まさにそれにより。

juger de : juger de + 名詞で、間接他動詞として、「(名詞) を判断する」。

 

直訳

62. 我々が何ら数の表象も直観も持たないとするならば、一体いかにしてそれは我々に与えられうるのだろうか。語は命題のなかでしか意味を持たない。それ故数詞の現れる命題の意義を明らかにすることが重要だろう。このような指図だけでは、まだ我々は自由に選択する余地が残されたままである。しかし数詞でもって自存的対象を理解すべきであると、以前に我々は立証していた。それ故、ある意義を持っている必要のある命題の種類を一つ、[つまり] 対象が再認されていることを表わしている命題の種類を一つ、我々は持っている。もしも記号 a が対象を指示するならば、ba と同じであるかどうかを決定することのできる基準を我々は持っていなければならない、たとえこの基準を使用する力を我々がいつでも持っているとは限らないとしても。今の場合、我々は命題「概念 F に属する数は、概念 G に属する数と同じものである」の意味を明らかにしなければならない。つまりこの命題の内容を、表現

「概念 F に属する数」

を使わずに、別の仕方で我々は述べねばならないのである。

 まさにそれにより、我々は数の同一性を判断するための一般的な基準を与えることになろう。そうして我々は、ある特定の数を把握し、かつその同一性を再認する手段を手に入れることになるならば、我々はその数に固有名としての数詞を与えることができるようになるだろう。

 

逐語訳

62. nous 我々が d'un nombre 数の représentation 表象 ni も intuition 直観 [ni] も aucune 何ら n'avons 持たない Si ならば、 jamais 一体 comment いかにして il それ (数) は nous 我々に être donné 与えられ peut うる ? のか。 Les mots 語は une proposition 命題の au sein d' なかで qu' しか de signification 意味を n'ont 持たない。 donc それ故 un terme numérique 数詞が figure 現れる où ところの le sens d'une proposition 命題の意義を de définir 明らかにすることが il s'agira 重要だろう。 encore まだ Cette prescription この指図では notre libre choix 我々の自由な選択が s'exercer 行われる laisse に任されたままである。 Mais しかし sous les termes numériques 数詞のもとに des objets indépendants 独立した対象を d'entendre 理解することが il convient 適切であると que いうことを nous 我々は précédemment 以前に avons ... établi 立証していた。Ainsi それ故 un sens ある意義を avoir 持っている doivent 必要のある qui ところの de propositions 命題の un genre 一つの種類、[つまり] un objet 対象を on reconnaît 再認している qu' ところの le fait 事実を traduisant 表わしている des propositions 命題の celui それ [一つの種類] を nous 我々は disposons d' 持っている。 le signe a 記号 a が un objet 対象を désigne 指示する Si ならば b b が que a a と est le même 同じである si かどうかを décider 決定する permette de ことのできる qui ところの un critère 基準を nous 我々は devons avoir 持っていなければならない、 même si たとえ ce critère この基準を utiliser 使用する le pouvoir 力を nous 我々が n'avons pas toujours いつでも持っているとは限らないとしても。 Dans le cas présent 今の場合では appartient au concept F 「概念 F に属する qui ところの le nombre 数は appartient au concept G 概念 G に属する qui ところの celui それ [数] est le même que と同じものである」 de la proposition という命題の le sens 意味を nous 我々は définir 明らかに devons しなければならない。 c'est-à-dire que つまり de cette proposition この命題の le contenu 内容を appartient au concept F 「概念 F に属する qui ところの le nombre 数」 l'expression という表現を sans employer 使わずに d'une autre manière 別の仕方で nous 我々は énoncer 述べ devons ねばならないのである。 Par là même まさにそれにより nous 我々は des nombres 数の l'identité 同一性を pour juger de 判断するための un critère général 一般的な基準を donnerons 与えることになろう。 Et そうして un nombre déterminé ある特定の数を saisir 把握し et かつ son identité その同一性を reconnaître 再び認める  le moyen de 手段を  nous aurons 我々は持つことになる quand 時、 lui それ [数] に pour nom propre 固有名としての un terme numérique 数詞を nous 我々は donner 与えることが pourrons できるようになるだろう。

 

 

§62 再検

さて、語学に関する話が非常に長くなりましたが、最後に §62 を振り返り、そこで言語論的転回が生じていたといういわれを確認してみましょう。

 

「はじめに」でも述べましたように、言語論的転回が生じるのは、次の二つの条件の、おそらく少なくとも一つが満たされた時なのでした。

  (1) 哲学の問題は、言語を誤解した結果、生み出される擬似問題にすぎないと認めること、

  (2) 哲学の問題を解決するためには、言語の働きを理解する必要があるということ。

Frege の Grundlagen, §62 では、これら (1), (2) について、どのようなことが言えるでしょうか。

まず明らかに、(1) についてはそのセクションで何もはっきりしたことは述べられていませんし、(1) を思わせるようなことを何ら暗示されてもいないということがわかります。したがって (1) を理由として §62 で言語論的転回が生じたのではないと言えます。

一方、そのセクションでは、(2) が述べるごとく、言語の働きを理解することを通して哲学上の問題を解決しようとしているらしいことは見て取れます。

なぜならば、自然数が時空間中に位置を占める物でもなく、個人の心のなかにあるものでもなく、それでいて客観的に存在しているものだと言うならば、どうしてそのような自然数があると言えるのか、どうしてそれが知れると言えるのか、この種の哲学的問題に Frege は、言葉の意味がいかなる働きを取っているのかを明らかにすることで答えようとしていると思われるからです。

特に、同一性を表わしている 4 = 2 + 2 のような数詞を含んだ式または文は、左辺を右辺として、あるいは右辺を左辺として再認している文ですが、このような再認文の意味がどのように働いているのかを理解し、説明するなかで、今の式が成り立っている場合 (真である場合)、各辺が名前として振る舞っていると解されるならば、それら数詞である各辺は何かを指していると言えるのであり、この時、指されているその何かとは他ならぬ自然数であると Frege は考えているものと思われます。

言い換えますと §62 では、まず最初に各々の自然数があるとして、それからそれら自然数に私たちがいかに関わるのか、という話の流れになっているのではなく、逆に、まず最初は言葉の意味の働きを説明し、その説明からするならば、問題となっている文が真である場合、各々の自然数が確かに客観的にあると言ってよいと結論できるのだと、Frege は主張しているものと思われます。つまり「初めに自然数ありき。しかるのち、言葉が生まれた」のではなく、「はじめに言葉ありき。しかるがゆえに、自然数ありき」というわけです。

念のために強調しておきますが、言葉があるだけでは自然数があるとは言えず、言葉があり、かつその言葉を含んだ文が真であるならば、その場合、その言葉が何らかの名前の機能を持っていると解されるとすると、その言葉の指している自然数もあるはずだ、ということです。このことをもう少しちゃんと説明している金子洋之先生の文がありますので、このあと付録として、その文を掲げておきましょう。

 

さて、こうして Frege は、各自然数が客観的に存在し、私たちに関わることができる理由を、言葉の意味の働きを調べることで答えようとしています。自然数の存在と認識に関する哲学的問題に対し、彼は言葉の働きに着目すれば答えられると考えていたようです。この点で、Frege の Grundlagen, §62 において言語論的転回の端緒が切り開かれたのだと言えるかもしれません。

しかしながら、§62 における Frege の話が本当に正しいのかどうかはまた別問題です。そこでは Nur im Zusammenhange eines Satzes bedeuten die Wörter etwas (文という脈絡においてのみ、語は何か意味する) という、いわゆる文脈原理が掲げられていますが、実際いつでもこの原理の言うとおりなのかどうか、私としては確信が持てません。Frege としても、この文脈原理に対し十分な正当化を与えずに、それを無条件で正しいものと仮定しているように見えます。そこで、この原理に半畳を入れることも可能だと思われます。とはいえ、私にはそのような力は今のところありませんので、この辺りで私の無駄話を終えることとしましょう。

 

付録

Grundlagen, §62 に関し、私が今しがた述べたことについて、金子洋之先生がもっとちゃんとした説明をされているので、先生の文を参考までに引用しておきます。

次の文献の該当ページで、

・ 金子洋之  「フレーゲ」、飯田隆編、『哲学の歴史 11 論理・数学・言語』、中央公論新社、2007年、158-159ページ、

§62 に関し、金子先生は以下のように説明されています。

 また、ここにフレーゲの文脈原理が顔をのぞかせていることにも注意しよう。フレーゲの戦略は、名前が導入されれば、それにともなって無条件にその名前が指示する対象が導入されたことになるというかたちをとっているわけではない。「その名前を含むあらゆる言明の真理値が確定できるならば」という条件が付いている。つまり、その名前が言明の中に登場するとき、その名前がなんらかの対象を指示しているということを前提せずに、その言明の真理値が確定するならば、その名前は、名前としての機能を果たし、言明全体の真理値の確定に関与しているはずである。とすれば、その名前が名前としての機能を果たしている以上、それが指示するものがなくてはならない。こうして、言語を媒介にして、言い換えれば、文脈原理と当の名前が登場する文の真理値の確定手段を通して、抽象的な対象 [= 自然数] に到達する、というのがフレーゲの描く筋道である。

 そのさいに、フレーゲは真理値を確定すべき言明として、とくに再認言明と呼ばれるタイプの言明に注目する。あるものが対象であるかどうかは、それが目に見えるかどうか、それが触れ [られ] るかどうかにあるのではなく、それを同じものとして再認したり、異なるものとして区別できるかどうかにかかっている。そうした再認を言明の中に現れるあるタイプの表現についてつねに行うことができるとすれば、その表現は対象を指示していると考えるしかない。

 

参考になりましたでしょうか。

今日はこれで終わります。いつものとおり、私は本日の話のどこかで、誤解や無理解、勘違いやひどい思い違いにおよんでいるかもしれません。誤訳や悪訳もあちこちに見られるかもしれません。今、私はとても厳しい状況に置かれており、こころもからだも衰弱が甚だしいので、気が付かないうちに間違いを犯している可能性が非常に高いです。注意して書いたつもりですが、心身ともにぼろぼろなため、本当に間違いがありましたらすみません。改めて気を付けるように致します。どうかお許しください。

 

*1:飯田隆、「分析哲学から見たウィトゲンシュタイン」、『分析哲学 これからとこれまで』、勁草書房、2020年、160ページ。

*2:飯田、「分析哲学から見たウィトゲンシュタイン」、161ページ。

*3:Russell の 'On Denoting' において言語論的転回が生じた場面を原文で見ることは、それが多くの人が親しんでいる英語で書かれていることから、今後ともやめておきます。

*4:M. ダメット、『分析哲学の起源』、野本和幸他訳、勁草書房、1998年、6ページ。

*5:ここまでの私による説明は、Frege, Grundlagen, §§57-61 を参考にしています。

*6:G. Frege, The Foundations of Arithmetic, 2nd revised ed., tr. by J. L. Austin, Basil Blackwell, 1953, p. 73.

*7:sollen の根本的な意味が要求、命令であることは、次を参照ください。関口、『接続法の詳細』、157ページ。

*8:Frege, The Foundations, p. 73.

*9:綿貫陽、マーク・ピーターセン、『表現のための実践ロイヤル英文法』、旺文社、2011年、140, 145ページ。

*10:eine bestimmte Zahl をここではこのように「ある特定の数」と私は訳しました。数学書ではしばしばまったく不特定である数を表わすのに x, y, ..., などを使い、一方任意ではあるが、そのうちのこれ、またはあれを指すのに a, b, ..., などを使うことがありますが、この a, b, ..., などとして、私は eine bestimmte Zahl の eine を普通の不定冠詞と理解し、「ある特定の数」と訳しました。これに対し、のちに掲げる既刊邦訳では、この名詞句を「一つの特定の数」と訳しておられます。私は eine を普通の不定冠詞と解したのに対し、既刊邦訳の訳者の先生方はそれを数詞と解されているのかもしれません。文法的にはどちらとも解することができます。先生方と同様にこの eine を数詞「一つの」と訳してもよいと思いますが、私訳は修正せず、一応私の解したまま訳し、記しておきます。