目次
はじめに
ここ数年、私はひどい逆境に置かれています。そのため、書物に心の支えを求めることがあるのですが、そのような書物の一つに Epictetus によるものがあり、この Epictetus の文章 (要録/提要) が Carl Hilty のいわゆる『幸福論』に見られますので、この『幸福論』を紐解くことがあります。
そこで今日は、Hilty によるギリシャ語からの独訳を読んでみて、それを私が直訳し、その直訳を岩波文庫『幸福論』の和訳と比べてみることにしましょう。
以下では Hilty による独訳とされているものを引用し、直訳と岩波訳を掲げます。ついでに仏訳の一つも掲げて私による訳も付けてみましょう。また、独訳、仏訳には、これも私による文法説明も記しておきます。
なお、私はドイツ語、フランス語の専門家ではなく、それらの言語を苦手としておりますので、誤訳や悪訳がありましたらすみません。文法の説明にも間違いがありましたらごめんなさい。そのようなことがないように努めましたが、残っておりましたら謝ります。
そして今日の話の最後に、今回の Epictetus の文章について、私がどのように思っているのか、簡単な感想を述べて終わりにします。
ドイツ語原文
Hilty による「要録/提要 (Encheiridion)」の独訳とされているものが Project Gutenberg にありますので *1 、便宜上、それを引用します。
なお、これが本当に Hilty によるものなのか、私は調査しておりません。
ドイツ語文法事項
andere hingegen nicht: この文は多々省略されているところがあります。すべて書き出すならば、次のようになります。andere Dinge hingegen stehen nicht in unserer Macht.
mit einem Wort: 一言で言えば。
alles das: alles と das は同格です。小学館の『独和大辞典』の83ページ、項目 'all2', 2, a), 「関係する語と同格で」の例文を参照ください。
alles was: alles は 不定関係代名詞 was の先行詞です。
seiner Natur gemäß: 3格 + gemäß で「(3格) にしたがって」。
anderen zu: anderen のあとに Menschen が略されているものと思われます。
Deshalb bedenke: bedenke は命令法。接続法第一式ではありません。後者ならば、bedenkest になっているはずです。
das von Natur Dienstbare: いわゆる冠飾句。das から Dienstbare まででひとまとまりをなしています。Dienstbare は dienstbar が中性名詞化したもの。dienstbar は相良先生の『大独和辞典』で当該項目を引いてみると、「勤務の義務のある、貢納の義務のある、卑屈な」などなどの意味が出ていますので、これが名詞化すると、通常は「義務」とでも訳しておけばよいと思われますが、ここでは文脈上、「隷属的なもの、他人のもの」と訳すとよいようです。
von Natur: 本来。
das ... Dienstbare für frei ... ansiehst: 4格 für 4格/形容詞 + ansehen で「(4格) を (4格/形容詞) と見なす」。続く das Fremde für dein eigen ansiehst も同じです。
eigen: eigen は形容詞で、すべて小文字で書かれていますが、意味は名詞的に「所有物」となることがあります。
Hältst du: 倒置しているので wenn 文の代わりになっています。
Eigentum nur, was: nur のうしろはコンマで切れていますので、nur はうしろではなく前の Eigentum にかかっているように見えますが、実際はうしろの was 文にかかっていると考えられます。このコンマはその前後で意味を区切るために入れているのではなく、単に was 文などの副文の前では構文上、コンマを打つというルールがあるから打たれているということです。よく見かける nur, wenn 文 (〜の場合にだけ) を思い出してください。
betrachtest das Fremde als fremd: betrachtest のあとで du か省略されており、倒置されているので、wenn 文の代わりになっています。4格 als 4格/形容詞 + betrachten で「(4格) を (4格/形容詞) と見なす」。
nicht das geringste: 極わずかなものさえ〜ない、一つも〜ない。
mit Widerwillen: 嫌々ながら。
nichts, was: nichts は 不定関係代名詞 was の先行詞です。
könnte: 接続法第二式。こうなっているのは推測を表わすため。「君にとって不利になるかもしれないこと」。
Willst du: 倒置しているので wenn 文の代わり。
nun aber: さてしかし。
nach ... Dingen trachten: nach 3格 trachten で「(3格) を得ようと努める」。
nicht bloß ..., sondern: 単に〜だけでなく、むしろ—も。
diese letzteren Güter: あとに出てくる den ersteren (前者) と対になって「後者の大切なものたち」の意味。なお、diese ... Güter につづりが似ている das Gut, das Gute, die Güte は、それぞれ主に「財産、善、親切」の意味。そしてここでの Güter は das Gut の複数形で「財産たち」、これが転じると「大切なものたち、ありがたいものたち」になります。
nur um so: その分だけ。so その um 分 nur だけ。um は差を表わす um です。
nach den ersteren begehrst: nach 3格 begehren で「(3格) を欲する」。
Ganz sicher aber wirst du: 直訳すれば「しかし君はまったく確かに〜するだろう」。意訳すれば「しかしまったく確かなことは、君が〜するだろうということである」。
dasjenige: 後出の関係文 woraus (= was + aus) の先行詞。
allein: これは前の woraus にかかっています。
Bemühe ..., 〜 zu begegnen: Bemühe は命令法。接続法第一式なら Bemühest になっているはず。zu 不定詞 + bemühen で「〜しようと努める」。
damit: damit の da- は、このあとの daß 文を指します。
du sagst: »Du bist: ここの du と Du は、ともに「君は」という意味なので、同じ人なりものなりを指しているように見えますが、それぞれ違うものを指しています。ここでの du は読者、Du は Gedanke のこと。
nicht ..., sondern: 〜ではなく、むしろ—。
das, was: das は 不定関係代名詞 was の先行詞。
etwas Reelles: etwas と Reelles は同格で、ともに1格。「何か現実的なもの」。
Als dann: そしてそれから。
prüfe: 命令法。接続法第一式なら prüfest になっているはず。prüfen は他動詞で、このあとの ob 文を従えています。
den von dir angenommenen Grundregeln: いわゆる冠飾句。
der ersten: このあとに Grundregel が略されています。
zu 〜 gehöre: zu 〜 gehören で「〜に属する」。gehöre のように接続法第一式になっているのは ob 文という間接文内にあるため。
den in unserer Macht stehenden Dingen: いわゆる冠飾句。stehenden は現在分詞。
Gehört es: 倒置しているので wenn 文の代わり。
den nicht in unserer Macht stehenden: これもまたいわゆる冠飾句。stehenden のうしろで Dingen が省略されています。
halte dies Wort bereit: bereithalten (用意しておく) の命令法。接続法第一式なら、halte が haltest になっているはず。
直訳
私訳/試訳である直訳を掲げます。日本語の読みやすさは二の次にして訳しています。語学に資するため、ドイツ語の原文が「透けて」見えるような訳を心がけています。
岩波訳
・ヒルティ 『幸福論 第一部』、草間平作訳、岩波文庫、岩波書店、1935年、43-46ページ。
邦訳には一部の漢字に振り仮名が振られていますが、一つを除き、どれも常識的に読めるものばかりですので、その一つ以外の振り仮名はいずれも引用致しません。その一つは丸かっこに括って引用します。
そして漢字の一部を新字体のものに変えている場合があります。
また、Hilty による註釈も省きます。
直訳と岩波訳との相違点など
直訳と岩波訳の主な相違点や、岩波訳で追加されている表現、欠落している表現などなどを記してみましょう。
なお、岩波訳は今回引用したドイツ語文を底本としていない可能性もありますので、以下の記述は必ずしも正確なものとは限らないことを、くれぐれも銘記しておいてください。
岩波訳、「世には」の段落
世には: これに当たるドイツ語の語句はドイツ語原文にはありません。
それとは反対に: ドイツ語原文には hingegen (それとは反対に) がありますが、岩波訳にはこのドイツ語が訳出されていません。
改行: 岩波訳では「及ばないものとがある。」のあとで改行されていますが、ドイツ語原文では改行されていません。
「われわれの」の段落
嫌悪など: 「など」に当たる語はドイツ語原文にはありません。このあとに出てくる「官職など」の「など」も同様です。
禁止される: kann が訳出されていません。それを訳出すれば「禁止され得る、禁止することができる」となるでしょう。このあとの「妨害される」についても同様に kann の意味合いが訳出されていません。
無力で: この語に当たるドイツ語は原文に見られません。
「それゆえ、きみが」の段落
隷属的なもの: Dienstbare の訳。直訳では「義務」と訳しましたが、これはストレートにすぎ、ここでの文脈を考慮していないので、はっきり言って誤訳といえるかもしれません。岩波訳の「隷属的なもの」はいい訳、ちゃんとした訳ですね。
自分の所有するものを: 「自分の所有するものだけを」の「だけ (nur)」が訳出されていません。
だれもきみを: この前後で「今後 (jemals)」が訳出されていません。
必要はない: 「必要」に当たるドイツ語の語句は原文にはありません。
害せず: kann が訳出されていません。訳出すれば「害することができず」。
きみの不利となることは: 接続法第二式 könnte が訳出されていません。訳出すれば「きみの不利となるかもしれないことは」。
「さてしかし」の段落
このような高遠な境地: これはいい訳、うまい訳ですね。so großartigen Dingen の訳です。直訳では「あのすばらしい物事」としています。直訳だからある程度仕方がないとはいえ、ちょっとこれでは直訳すぎて何のことだかわかりにくいですね。
だけでは足らず: nicht bloß ..., sondern の nicht bloß の訳。この岩波訳はいいですね。nicht bloß ..., sondern 〜 は、機械的に訳を当てはめると「... だけでなく、〜も」となりますが、ここでの意味合いは、まさに「... だけでは足らず、... だけでは済まず、... どころではなく、〜も」といったところですから、岩波訳は当を得ています。それに対して直訳は的を少し外していますね。
この後者の宝にも: この前後に「その分だけ (nur um so)」を入れるべきでしょうが、岩波訳ではこの表現が入っていません。
きみは同時に: 「きみは正に同時に」のように、「正に (eben)」を入れるべきだと思われますが、岩波訳ではこの表現が入っていません。
「それゆえきみは」の段落
こういってやるがよい: 3格 + begegnen で「(3格) に接する」であり、これを岩波訳では意訳しているのでしょうが、このドイツ語の動詞を邦訳で明示的に表わせば、「こういって接してやるがよい」となるでしょう。
以上を振り返ると、総じて岩波訳には大きな瑕疵はないと思われます。ところどころ小さな抜けはあるようですが、それはどれも致命的なものではないようです。むしろ「このような高遠な境地」などは岩波訳のいいところですね。(とはいえ、やっぱり接続法第ニ式はちゃんと訳出しておいた方がいいとは思うけれど ... 。)
いずれにせよ、これとは別に私の感じるところでは、今回上げたドイツ語はたぶん岩波訳の底本としたものではないように思われます。少なくともこのドイツ語とまったく同じものが岩波訳で底本として使われた、とは個人的には感じられません。細部がちょっと異なるものが使われたのではないかと思われます。これはただの想像ですが ... 。
フランス語訳
フランス語訳も念のため付け加えておきましょう。そのフランス語訳は、Wikisource France の、
・Manuel d'Épictèt, traduit par Jean-Marie Guyau, 1875, *2
から引きます。他にも internet で容易に入手可能な仏訳があるようですが、便宜上、上の仏訳を引用しておきます。これを選んだことに関し、深い意味はありません。
また、仏訳に付された見出しと訳註は引用致しません。
フランス語文法事項
les unes ... les autres: 一方は〜、他方は—。いくつかのものは〜である一方で、他方のいくつかは—である。
dépendent de nous: dépendre de + 名詞で、「(名詞) に依存する、(名詞) 次第である」。
n’en dépendent pas: en は de nous のこと。
Celles qui: Celles は choses を指します。このあとに、この段落で出てくる Celles も同様です。
c’est l’opinion: ce は前方の Celles qui dépendent de nous を指します。このあとに、この段落で出てくる c’est le corps の ce も前方の Celles qui ne dépendent pas de nous を指します。
en un mot: 一言で言えば。
par nature: 元々。
les empêcher: les は les choses を指します。次に出てくる les entraver の les も同様です。
mais celles: celles は choses を指します。
sujettes à empêchement: sujet à + 名詞で、「(名詞) に陥りやすい」。
étrangères à nous: étrangèr à + 名詞で、「(名詞) には関係がない」。
Souviens-toi donc que: se souvenir que 〜, 「〜であることを覚えている」の命令法。
crois libres ces choses: croire + 目的語 + 属詞で、「(目的語) を (属詞) と思う」。
de leur nature: その本性上。
propres à toi celles: propres à toi は「君に固有の」、celles は choses を指し、前者の語句は croire + 目的語 + 属詞の属詞に当たり、後者の celles はその目的語に当たります。
tu seras entravé: この文は前方の si による条件節に対する帰結節を成していますが、ここで単純未来が使われているのは、このような帰結が出てくる可能性が高いと著者が考えているためです。反対に、このような帰結が出てくる可能性が低いと考えているならば条件法が使われます。このあと、この段落中では si による条件節の帰結節に単純未来が使われている例が他にもたびたび出てきますが、同様の理由で単純未来が使われています。
en effet: 実際に。
ne ... jamais: 決して〜ない。
te forcera ... à faire: forcer 人 à + 不定詞で、「人に〜することを強いる」。
t’en empêchera: この en は一見したところ、empêcher 人 de + 不定詞 (人が〜するのを妨げる) の de + 不定詞を代理しているように見えます。つまりこの en はここでは前にある de faire une chose を代理しているように見えます。しかし en が動詞 + de + 不定詞の de + 不定詞を代理するためには、その動詞が補語として de + 名詞を取ることができなければなりません。けれども、empêcher という動詞は名詞単独の直接目的語を取ることはできても de + 名詞を取ることはできなかったと思います。したがってここの en は de faire une chose の代わりをしているのではなく、faire の不定な直接目的語 une chose の代わりをしていることになります。これはささいなことと感じられるかもしれません。和訳すればどちらにせよほとんど差は出てこないかもしれません。それでも文法上、正確に説明するならば、以上の通りだと思います。今説明したことについては、たとえば、東郷雄二、『フランス文法総まとめ』、白水社、2019年、106ページを参照ください。
te plaindras de: se plaindre de 〜 で「〜について不平を言う」。
tu n’en auras point: ここの en は前方の d’ennemi の代わり。その時、tu n’auras point d'ennemi となりますが、この時の de は、否定文の直接目的語の不定冠詞は de に変わるという規則により、de になっているものと思われます。
rien de nuisible: rien を形容詞で修飾する時は、de を介して男性単数形で修飾します。
Aspirant donc à: aspirer à 〜 で「〜を望む」。ここでは現在分詞形をしており、英語のいわゆる分詞構文になっています。意味は「もし〜ならば」。
de si grandes choses: de は des の変形したもの。複数形容詞 + 複数名詞の前の複数不定冠詞 des は通常、de に変わります。
ce n’est pas avec uneardeur médiocre qu’: 強調構文。
y appliquer: appliquer à 〜 で「〜に専念する」。
pour jamais: 永遠に。
dire adieu aux: dire adieu à 〜 で「〜にさよならする」。
aux uns, ... les autres: les uns, ... les autres で「あるもの ... 他のもの」。
pour le présent: 今のところ。
en même temps: 同時に。
tu veux avoir ... et les vrais biens et les dignités: S V et A et B, 「S は A と B を V する」における一つ目の et は不要で冗長に見えますが、この et は A と B を強調するために入っています。
peut-être: おそらく。この語が文頭にあると、主語と動詞が倒置することがあります。そのため、ここではこの語の直後が倒置しています。
à coup sûr: 確かに、間違いなく。
seuls: 前方の les biens と同格の形容詞。「唯一大切なもの」。
exerce-toi à dire: s'exercer à + 不定詞で「〜する訓練をする」。 ここではこれが命令法に置かれています。
exerce-toi à dire : Tu: toi と tu はともに「お前」の意味ですが、実際には別々のものを指しています。前者は聞き手、読み手のこと、後者は imagination pénible のこと。
sonde-la, et juge-la: sonde と juge は命令法。二つの la は imagination を指します。ちなみに、ここだけではなく、この引用文中のあちこちに見られることですが、肯定命令文で、動詞に続く代名詞は、その動詞と代名詞を trait d'union で結びます。
la première et la principale: première と principale のあとでは règle が省略されていると考えられます。
c’est devoir: ce は前方の la première et la principale を指します。devoir はいわゆる純粋不定詞。またこの語のあとでは juger が省略されているものと思われます。そしてそのあとの si 節は juger の間接疑問節を成しています。つまり意味としては全体として「その第一の主要な規則とは、〜かどうかを評価せねばならないというものである」。
il s’agit des choses: il s’agit de 〜 には主として四つの意味があります。(1) 〜が問題・話題である、(2) 〜が重要である、(3) 〜が必要である、(4) それは〜である。ここでは (4) が適当だと思われます。そしてその「それ」とは imagination pénible のことです。
n’en dépendent pas: en は de nous の代わり。
S’agit-il de ces dernières: 二つ前の註に記した il s’agit de 〜 の (4) の倒置形。倒置しているのは si 文 (もし〜ならば) の代わり。直説法の動詞を倒置させて仮定・条件を表わすことがあります。伊吹武彦編、『フランス語解釈法』、白水社、1957/2006年、123-124ページ、朝倉季雄、『フランス文法事典』、白水社、1955年、項目 'sujet [主語]', III, B, 60, (1), 352ページを参照ください。
sois prêt à dire: être prêt à + 不定詞で「〜する用意ができている」。ここではこれが命令法に置かれています。
moi: me を強調するために moi が追記されています。
直訳
第一節の内容に対する感想
私は Epictetus の専門家ではないので、彼の文章について、詳しいことは何も述べられません。以下は一個人による単なる思い付きです。読まれる場合はそのつもりでお願いします。
さて、Reinhold Niebuhr が作った、いわゆる the Serenity Prayer という祈りの言葉があります *3 。
その最初の段落の内容は、極めて大まかに述べ直せば、次のような感じになるでしょう。
私は Epictetus の Encheiridion の第一節を読むと、この Niebuhr の祈りのことを連想します。
と言うよりも、私はそもそも最初に Niebuhr の祈りの言葉を知り、そのあとに Encheiridion を読んで、「Encheiridion は Niebuhr の祈りの言葉に何か通じるものがあるな」と感じたのです。Niebuhr の祈りの言葉を知っていると、その後、Encheiridion の第一節を読んだとしても、割とすんなりその話が心に入ってきます。
Encheiridion の第一節と Niebuhr の祈りの言葉には、内容上、何か関係があるのでしょうか? あるとしても、どのような関係があるのか、私にはよくわかりませんが、ちょっとそれら二つを眺めてみると、祈りの言葉の方は、変えられるものと変えられないものとが世の中にはあると述べ、ただしそれらが具体的には何であるのかは語られていません。
これに対し、Encheiridion の第一節ではそれらが具体的に語られていると考えられます。つまり自分の意志の産物は変えられるが、それ以外は変えられない、ということです。とはいえ、祈りの言葉において、変えられるとされるものが意志の産物であり、それ以外は変えられないものであるとされているのか、それはわかりません。Niebuhr がどう考えていたのか、私は知りません。けれども、たぶん Niebuhr も Encheiridion と同様な方向性を持って考えていたのではないかと私は (特に根拠もなく) 推測しています。
このことを少し角度を変えて述べるならば、Niebuhr の祈りは、どうにかなるものと、どうにもならないものとの形式的な区別に言及しているのに対し、Encheiridion の第一節はその内容にまで踏み込んで述べている、と思われます。
さらに両者の違いについて言うと、Niebuhr の祈りでは変えられるものと変えられないものとを区別するに際し、それらを識別する力を神から授かりたいとお願いを申し出ているのに対し、Encheiridion の第一節ではそれらを識別する力を神から授かるのではなく、自らを訓練することによってその識別力を獲得するよう説かれています。
こうして両者は、一方がその形式的側面に力点が置かれ、他方が内容的側面に力点が置かれている傾向があるという意味で、互いに相補的な関係にあると解し得ます。Epictetus の言葉に導かれながら、自らを訓練することで幸せと自由との獲得を目指し、そのことに倦み疲れたならば、時に神に対し、Niebuhr の祈りの言葉を口にして、一時の休みを取りつつ、新たに生きる力が湧き上がってくるの静かに待つ、これが両者の実践的観点から見た関係であるかもしれません。
しかしそうは言っても、Epictetus の言葉のとおり、自らを訓練し、「高遠な境地」に達することは並大抵のことでは無理だと思います。私はひどい逆境に置かれているので、Epictetus の言葉を信じてその言葉どおりのことを実行しようと努めたことがありますが、はっきり言って、「そんなの不可能だ」とたびたび感じました。どうにもならないものを、がんばればどうにかなるものだと考える癖が子供の頃から付いてしまっているためだと思います。(Epictetus の言う意味で) 人のものを反射的に自分のものだと考える癖が染み付いてしまっているのです。Epictetus の言葉を頼りに苦しい逆境から抜け出そうとしながら、その言葉をうまく実行できず、また新たな逆境に陥って苦しんでしまうという悪循環にはまり込んでいます。これでは元も子もないないですね。
Epictetus の言葉については他にも色々思うところがあります。また機会があればそれを述べてみたいと考えていますが、今日はこれまでとしましょう。
例により、私による誤解や勘違い、無理解や無知蒙昧なところがありましたらすみません。誤訳や悪訳にもお詫びいたします。誤字や脱字の類いにも深謝せねばなりません。何卒お許しください。
PS
本日は Encheiridion の Hilty による独訳を和訳して、感想を少しばかり付けてみたのですが、同種の試みが既になされており、次の文献に Hilty の独訳原文とその和訳、および解説・批評が載っています。
・清水研 「『エピクテトスの提要』 (Enchiridion Epicteti)、その対訳及び「解説と批評」 (1) ~ (5)」、『梅花女子大学文学部紀要 (人文・社会・自然科学編)』、第26~30号、1991, 92, 93, 95, 96年。
今回、私は精神的にも肉体的にもまったく余裕がなく、清水先生のお仕事を参照することは少しもできませんでした。もしも余力のある方がいらしましたら、先生のお仕事を参照してみてください。
*1:https://www.projekt-gutenberg.org/epiktet/moral/moral.html. 2022年5月閲覧。
*2:https://fr.m.wikisource.org/wiki/Manuel_d’Épictète_(trad._Guyau)/Manuel . 2022年5月閲覧。
*3:この祈りを最初に作ったのは Niebuhr だったのか否かについては長年に渡り議論があったようです。次をご覧ください。エリザベス・シフトン、『平静の祈り ラインホールド・ニーバーとその時代』、穐田信子訳、新教出版社、2020年、第7章。