研究会

今日は哲学の研究会に行ってくる。午後からのシンポジウムを覗く。哲学教育の意義についての発表と質疑応答。後ろの方で席に着くとかつて指導していただいた先生がすぐ後ろの席に座っておられたのでびっくりする。ごあいさつ。
皆さん大変熱心に発表・質問・検討されておられ、とてもよい印象を持ちました。ほんと皆さんがんばっていらっしゃる。私もがんばらねば…。
哲学教育の問題を一言で言ってしまうと、それは哲学の重要性を大学教育現場で、ほとんどの場合哲学にまったく興味のない学生たちにいかにして伝えていくか、ということになりそうです。この他に哲学教育の重要性を大学当局、文科省官僚、一般市民にいかに伝えるかも大切であろうかと思います。
私自身の感想を記しますと、学生であれ誰であれ、哲学の先生や哲学を進んで学んでいる方々は、哲学をしていることに自信を持ってほしいと思います。哲学の先生や院生の中にはかなり真顔で「哲学なんて何の役にも立たない(哲学は無力だ)」と沈んだ顔で語る方がいらっしゃいますが、これだと誰も哲学に魅力を感じません。哲学の魅力を語るのも重要ですが、もっと重要なのは哲学を語っている方が魅力的であることです。新入生の前でとうとうと哲学の魅力を理屈ばって語っても誰も振り向きません。それよりもそう語っている本人が魅力的であることが何よりも重要です。はっきり言って本人に魅力さえあれば学生の中から「それは面白そうだ」、「自分もそれをしてみよう」と感じる者が出てくると思います。
ではどうしたら魅力的となれるのでしょうか。これはとても一般的な問いです。魅力ある人間とはどのような人か、と問うのに近いと思います。としますとこれは正に哲学教師に限った魅力を問うているのではなく、人としての魅力を問うていることになります。私としては魅力ある人間とは、とにかく前向きに明るくがんばっている人間です。こちらを、たとえ意図せずとも、温かい気持ちにさせ元気づけてくれる人です。哲学教師に即して言うと、哲学を熱く語る教師です。熱く真剣に明るく前向きに哲学を語ってくれる教師ならば、その気持ちに共感してくれる学生が現れるはずです。人間とはそのようなものだと私は経験的に信じています。
哲学を学び教育する者の前途は多難です。とりわけ若い学生・研究者にとってはover doctorの問題は深刻だと思われます。このような悲惨な現実を前にして明るく元気に前向きに哲学なんかやれるわけがない、という声が上がったとしても不思議ではありません。しかし少し風呂敷を広げて申しますと、これは人生と同じことです。悲惨な人生がそこらじゅうに転がっているのを前にして、明るく元気に前向きに人生なんか送れるわけがない、という声は今までにいくらでも上がってきたことでしょう。しかしではあなたは悲痛な顔をして沈鬱に人生を送りたいですか、と問われたならば、もちろんNoです。悲惨な人生に悲惨だと絶望することも可能でしょう。だが一方で悲惨な人生に対し、「それにもかかわらず(dennoch)」明るく前向きに生きることは可能だと思います。私自身の経験からしてそれは有無を言わさぬ選択の問題です。理由なき選択の問題です。悲惨な人生、悲惨な世界を前にして、沈鬱な人生を選ぶか、前向きな人生を選ぶかだけです。するかしないか、泣こうがわめこうがただそれだけの問題です。そして私としましては前向きな人生を理由もなく一生懸命になってただただ選び続けるだけです。こうして選び続けるならば事態は間違いなくよくなっていくでしょう。これが私の経験したことでした。これからもそうすると思います。

政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく、 −はなはだ素朴な意味での− 英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べ、現実の世の中が −自分の立場からみて− どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!(dennoch)」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職 (Beruf)」を持つ。 マックス・ヴェーバー 『職業としての政治』 脇圭平訳 岩波文庫 105〜106ページ

この引用文における「政治」という言葉を「人生」という言葉に置き換えても、あるいは人生の一部をなす「学問」と置き換えても、ことは妥当するだろうと思います。実にこうありたいものだと思います。