From Kant to Frege?: On Frege's Concept of Being

FregeがKantから影響を受けていたことは知られているが、存在が第2階の概念であるというFregeの有名な見解が、Kantに影響を受けてのものらしい、あるいはそこまで言わずともKantに触発されてのものらしいということを次の論文から知る。

  • Leila Haaparanta  “On Frege's Concept of Being”, in: S. Knuuttila and J. Hintikka ed., The Logic of Being, D. Reidel, Synthese Histrical Library, vol. 28, 1986

Kant自身、存在が第2階の概念であるかのような、あるいはそのようなことを髣髴とさせるような発言を行なっており、それがFregeのいう意味での第2階の概念であるかどうかはともかく、そのようなことを思い出させる存在の特徴づけを行なっていることは、Kant学者さんの多くによく知られているようである。実際に『純粋理性批判』の一節を和訳から引いてみよう。以下はイマヌエル・カント純粋理性批判 中』、原佑訳、渡邊二郎補訂、平凡社ライブラリー 539、平凡社、2005年の412ページから。これは『純理』のいわゆる第2版の626から627ページの部分。

何かがあるという存在は、明らかに、事象内容を示す(レアールな)述語ではまったくない。言いかえれば、それは、物の概念に付け加わりうるようななんらかの或るものについての概念ではない。それは、たんに物の積極的定立、あるいは或る種の諸規定自体そのものの積極的定立にほかならない。論理的使用においてはそれはもっぱら判断の連語(コプラ)である。

引用文中の太字は、邦訳では傍点が打たれている。


次にあまり評判はよくありませんが岩波訳も引いてみる。こちらはすごくシンプルに訳しているので主旨がかえって捉えやすい感じがする。

存在(Sein)は、明らかに実在的述語ではない、換言すれば、物の概念に付け加わるような何か或る物の概念ではない。存在は物の設定或は物の或る規定の設定にほかならない。論理的使用においては、『ある(sein)』は判断の繋辞(Kopula)にすぎない。

やはり引用文中の太字は、邦訳で傍点が打たれている。


さらにKantの『神の現存在の論証の唯一可能な証明根拠(Der einzige mogliche Beweisgrund der Demonstration des Daseins Gottes)』からの一節を、邦訳が手元にないので上記Haaparantaさんの英訳で掲げてみる。

Existence, which occurs in everyday speech as a predicate, is not a predicate of a thing itself but rather a predicate of the thought which we have of the thing*1

弘文堂のカント事典であちこちページを繰って、Kantが存在についてどう考えていたかを調べてみると、上で引用したような主旨のことがそこここに見られることからすると、Kant学者さんにはよく知られている話のようである。
確かにKantの発言は、存在が第2階の概念であるというFregeの見解を思い起こさせるものがあってちょっと驚きである。しかし本当にFregeはKantのこれらの発言を読んで自らの見解を提起するに至ったのか、よくよく調査してみる必要がある。

PS.

  • 藤村龍雄  『現代における哲学の存在意味 −論理・言語・認識−』、北樹出版、2006

について2月19日に次のように記した。

さてcafeで読書。昨日の藤村さんの本を拾い読む。「フレーゲの『日記』問題」というセクションを見ると、あの曰く付きの日記にまつわるトラブルが描かれている。Nachgelassene Schriftenの編者のお一人がどうも不誠実な態度を藤村先生に取られたようで、先生は不快感を抱かれたようである。件の編者は三人おられますが、そのうちのお一人はこの問題の編者でないことはすぐわかりましたが、後のお二人のうちのどちらなんでしょう? まぁ哲学の本質にかかわるような問題ではないので、どちらのお方であっても私としてはよいのですが…。

どうやらここで問題とされている編者が、多分ですが判明した。Frege生誕150周年記念のカンファレンスに出席されていない編者が、その問題の編者さんなのですが、3人の編者のうち、1人のお方はこのカンファレンスのスピーカーに名を連ねていらっしゃるのでこの方は除外される。残る2人のうち、1人の方は出席しようにもできない方であったことを今日知る。その方はこのカンファレンスが開かれる数年前に他界されていた。だからこの方も除外される。すると残りはお一人である…。実際私の推測していた方であった。まぁどうでもいいことですけど。ただし以上の推測が間違っていなければですが…。

*1:Kant's Gesammelte Schriften, Band II, G. Reimer, 1905, p. 72.