読書: Goran Sundholm “A Century of Inference: 1837-1936”

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  • Goran Sundholm “A Century of Inference: 1837-1936”, in: P. Gärdenfors, J. Wolenski, K. Kijania-Placek eds., In the Scope of Logic, Methodology and Philosophy of Science, Volume Two of the 11th International Congress of Logic, Methodology and Philosophy of Science, Cracow, August 1999, Springer, Synthese Library, vol. 316, 2003

最後の辺りが今ひとつピンとこない。だいたい言わんとしていることはわかるが、充分にストンと落ちない感じ。しかし面白く示唆的な論文であった。
ところでこの論文の著者によると、Fregeは命題の論理的真理には関心をほとんど持っておらず、わずかな例外が彼の「複合思想」論文に見られるとし、そのことを註の24で以下のように述べている。ちなみに今述べた「命題の論理的真理」とは、その内容が無内容だともされるトートロジーのようなものが想定されているようである。

As far as I know, logical truth occurs only in (1923[‘Gedankegefuge’], p. 50), the very latest of Frege's articles, and then only as a result of Frege's struggles with Wittgenstein's Tractatus.

この註を読んで、今さらながらふと気が付いたことがあります。しばしばWittgensteinがFregeの影響を大きく受けているとは言われますが、この逆に、FregeがWittgensteinから影響を受けていたということはないのでしょうか? Frege → Wittgen ばかりですっかり忘れていましたが、Wittgen → Frege だってありえないわけではまったくないはずです。Fregeは『論考』の草稿を読んでいたはずですし。RussellほどではないとしてもWittgenから教えられたことというのはないのだろうか? あるいはそれは色々あって、私が知らないだけなのかもしれない。Wittgensteinの伝記類などもあまり読んだことのない私ですので…。しかしWittgen → Frege という事例があればよくよく知ってみたいな。
上の註では「複合思想」の原書50ページに参照を求めているが、勁草書房の訳書の該当箇所を見ると、トートロジーというには若干無理がありそうな記述は確かにあるようだ。まったく当たっていないというわけではないが、完全に当たっているというのでもないような書き方がなされているように私には思われる。これはFregeがWittgenから影響を受けた痕跡だろうか? う〜む。


上記論文の他に、次のFregeに関する判断論の部分を拾い読む。

  • 藤村龍雄  「『概念記法』の言語思想」、『現代における哲学の存在意味 −論理・言語・認識−』、北樹出版、2006年