読書のまとめ: Bedeutung, Value and Truth-Value

昨日以下を横になりつつ読み返す。

  • Gottfried Gabriel  “Fregean connection: Bedeutung, Value and Truth-Value”, in C. Wright, ed., Frege: Tradition & Influence, Basil Blackwell, 1984

するとよくわかる。中々面白い。これは分量的にも論文というほどのものではなく、著者の主張を事細かに裏付ける論証を展開しているわけでもないので、そのまま鵜呑みにはできないが、思わず色々と著者の主張の結果から空想してしまった。
このGabrielさんの文章で取り上げられている論題とは、なぜFregeは文のBedeutungを真理値Wahrheitswertとしたのか、ということである。そもそもこのような問いを発するのは、通常私たちにとって文のBedeutungを真理値とすることに違和感を感じるからだと思われる。しかしGabrielさんの報告によると、Fregeにとってはそれほどでもなかったのかもしれないようである。‘Bedeutung’のドイツ語のいみと、Fregeの受けた哲学教育(新カント派系統のドイツ哲学の学習)を考慮してみると、Fregeが文のBedeutungを真理値と結びつけた行いに、ある種の筋道を付けることができるかもしれないとのことである。
Gabrielさんによると、そもそもドイツ語の‘Bedeutung’にはimportanceといういみがあるとの指摘がTugendhatさんによってなされており、この含みをFregeの‘Bedeutung’の訳語に反映させるべきだとTugendhatさんが提案されたとのことですが*1、文の部分表現のBedeutungへのこの提案は納得がいくものの、文自身のBedeutungに対しては、Tugendhatさんの提案による説明はうまくいかないと、Gabrielさんは反論しています。その理由は、文の部分表現のBedeutungはその部分表現が含まれる文の真理値への寄与として説明されますが、その文自身のBedeutungは、何に対する寄与として説明されるか、それがわからない、というものです。
ところでGabrielさんによると、Fregeの‘Bedeutung’のいみには、technicalなものとnon-technicalなものがあるそうです。前者は私たちが普通思い浮かべるものです。例えば「我々の関数[=概念]の値は真理値である」というように、数学の関数になぞらえて理解しているものです。
これに対し、non-technicalなものは例えば「思想の一部分のBedeutungが失われると我々が解するや否や、自分たちにとり、思想は価値を失う」とか「真理を目指そうとすることこそが、我々をして意義からBedeutungへと向かわしめるのである」という時に理解しているBedeutungがnon-technicalなそれのようです。

Gabrielさんによるならば、‘Bedeutung’のいみのうち、non-technicalないみの方がtechnicalないみよりも基本であるかのようである。そしてこのnon-technicalないみの‘Bedeutung’には、ドイツ語として、importanceといういみとvalue(価値・Wert)といういみが含まれていて、‘≒’を同義を表す関係の記号とすると、引用符を省いて書き出せば、

    • Bedeutung ≒ importance ≒ value ≒ Wert

という関係が成り立つみたいである。ここからすると、文がBedeutungを持つ時は、importance/Wertを持っているということになる。つまり文に意味がある時、その文は重要性/価値を持つということである。しかしそれは何にとって/何との関連で、重要性/価値を持つのか?
Gabrielさんの調査によると、Fregeが問題にしている文は学問上の文であるから、文が重要性/価値を持つものとして関連の場に置かれるのは学問である。すなわちこの際文の重要性/価値が問われるのは学問の場に関連してである。では学問上の文が重要性/価値を持つのはいかなる場合か? それはその文の真偽を問い得る場合である。逆に文の真偽を問い得る場合、その文は<Bedeutung ≒ importance ≒ value ≒ Wert>を持ちうる。こうして次のように言える。

    • 文が<Bedeutung ≒ importance ≒ value ≒ Wert>を持つ。 ⇔ その文の真偽(das Wahre/das Falsche)を問い得る。

これは次のようにも言い換えることができるであろう。つまり、文が意味を持つのは、その文がその真理を問い得る価値を持つ場合であり、その文がその真理を問い得る価値を持つ場合には、その文は意味を持っている。つづめれば、

    • 文が意味(Bedeutung)を持つ。 ⇔ 文が真理の価値(Wahrheitswert = truth-value)を持つ。

ちなみにGabrielさんによると、FregeはLotzeのもとで価値論を勉強していたとのことで、今まで述べてきたWert/valueは、この価値論の影響の文脈で捉えられるとの話のようである。以上からドイツ語の‘Bedeutung’のいみとFregeが受けた新カント派系統の価値論の影響を考えると、

    • Bedeutung = Wahrheitswert

とすることに、一定の筋道ができたと言えるかもしれない。

ここまではGabrielさんの文章の大雑把なまとめである。
今度は以下に私の空想を付け加える、としたいところだが、眠い。実は今日は少しお酒を飲んで帰ってきたので、眠い。頭もよく回っていない。上にまとめた自分の文章も充分な体裁をなしていないかもしれない。頭にパワーが出ない…。もしかすると後日書き直すかもしれない。とりあえずGabrielさんの見解に付け加えようと思っている空想の断片を記すと、数量ではなく質、真理表における真理値の表記、カントの判断表における判断の質、などである。この点、明日以降縷説するかも。

例によってざっくとまとめているだけなので、詳細・正確にはGabrielさんの文章を参照しなければならない。おやすみなさい。

*1:このTugendhatさんの論考は雑誌『理想』、第639号、1988年にその邦訳が掲載されている。