The Progenitor of Linguistic Turn: Immanuel Kant?

先日Kantの判断観について、弘文堂の『カント事典』を引いてみると、興味深い記述を見かけた。それはあたかもKantが言語論的転回を惹起した人物であるかのような、あるいはそこまで言わずとも、言語論的転回の先駆者であるかのような話である。参考までに以下に記しておく。項目「判断」から。執筆は藤澤賢一郎先生。

(2)判断の位置づけ  カント以前の近世の哲学者たちは、判断へともたらされる以前の「観念」(表象)がそれだけで認識価値をもつと考えて、それに準拠して哲学的問題を考察した。これに対しカントは、理論哲学の課題を「いかにしてアプリオリな綜合判断は可能か」という問いに集約したことからもわかるとおり、判断を第一次的なものとみなす。この転回は、存在論的に言えば、世界は物の集まりではなく、事実の集まりであるということであり、語は文中でのみ意味をもつという現代の分析哲学の考え方にも通じる。カントにとって思惟は本質的に判断作用である。

賢明にも、Kantは哲学を言語論的に転轍せしめた人物だ、とまでは断言されていない。しかしここで述べられていることは、WittgensteinやFregeがやったことを、判断論の場面からKantはやって見せたとおっしゃっているかのようである。
ちなみに先日購入した本の中の次の文章を読んでみると、

飯田先生のお考えでは、言語論的転回以後の哲学の特徴として、以下の2つのうちの少なくとも1つが見られるとされています。

    1. 哲学的問題の発生そのものに、言語が深く関わっていることの認識。
    2. 哲学的問題の解決において、言語にかかわる問題の考察を経由することの不可欠性の認識。

さてそうすると上記のKantはこれらの特徴のいずれか、あるいは両方に関わっているのだろうか? それとも無関係なのか? それとも飯田先生の特徴づけを再検討すべきなのだろうか?