読書メモ: Fregeの‘Bedeutung’を「指示・指示対象」と訳さない理由について

  • マイケル・ダメット  「真理と意味」、ジュリアン・バジー二、ジェレミー・スタンルーム編、『哲学者は何を考えているのか』、松本俊吉訳、丹治信春監修、シリーズ「現代哲学への招待」、春秋社、2006年

上記ダメットさんの文を読んでいて、ふと思ったことを以下に記す。


Fregeの‘Bedeutung’を日本語で「指示・指示対象」と訳さない理由は少なくとも三つあると、個人的に思っている。それは極簡単に箇条書きすると、かつ根拠も述べずに記すと次のようになる。

    1. 述語との関係から: Fregeによると、述語のBedeutungは対象ではないので「指示対象」とは訳すべきではない。
    2. 文脈原理との関係から: Fregeによると、文の真理値を決定するものが言語表現のBedeutungである。それは対象とは限らない。よって「指示対象」と一律に訳すべきではない。
    3. Sinnとの関係から: Fregeによると、任意の言語表現に対し、SinnとBedeutungは相伴う。今、‘Bedeutung’の訳を「指示対象」とする。すると例えば虚構の名前「シャーロック・ホームズ」のように、Sinnはあると思われるが指示対象を欠いた言語表現を考えることができる。これは任意の言語表現にSinnとBedeutungは相伴うという前提に反する。したがって‘Bedeutung’を「指示対象」と訳すことには問題がある。

これらに加えて次も、Fregeの‘Bedeutung’を日本語で「指示・指示対象」と訳さない理由に付け足してもよいように思われる。

4. Syntactic Priority Thesisとの関係から: Fregeによると、統辞論的カテゴリーは存在論的カテゴリーに優先する。よって言語表現のBedeutungも、存在論的カテゴリーよりも統辞論的カテゴリーが優先されるという理解のもとで考えられねばならない。ところで‘Bedeutung’を「指示・指示対象」と訳すならば、「指示・指示対象」とは、恐らくまず先に存在論的カテゴリーを前提した中で、何ものかを指し示すことであり、あるいはそうやって指し示される対象のことであると理解されているものと思われる。これは統辞論的カテゴリーが存在論的カテゴリーに優先するというテーゼに反する。したがってSyntactic Priority Thesisに反する印象を与える「指示・指示対象」という言葉を‘Bedeutung’の訳語に採用すべきではない。

4.は上記2.と密接な関係があると思われる。どちらかをどちらかに還元できるかもしれない。そうすると‘Bedeutung’を「指示・指示対象」と訳すべきでない理由は、相変わらず少なくとも三つのままだろう*1。そしてこの4.こそがFregeの‘Bedeutung’を「指示・指示対象」と訳さない理由として、最も重要なものであるような気がする。しかしそうだとすると、私は今までFregeのBedeutungについて何を理解してきたのだろうかと、途方に暮れてしまう。やれやれ…。

ちなみに今日読んだダメットさんの文を読んで4.のことを思ったが、今日のダメットさんの文には何もSyntactic Priority Thesisについては、(少なくとも直接には)述べられていません。

*1:大体、Fregeの‘Bedeutung’を「指示・指示対象」と訳さない理由が四つもあるというのは、我ながら驚きである。いささかあり過ぎという感を受けなくもない。でも実際がそうならば、それはそうと認めなければならないのだろうが…。