読書メモ: レヴィナス哲学における「苦しみ」の意味 1

以前以下の本を読んだことがある。

レヴィナスへのインタヴューから成り、入門によい本だと思って読んだのだが、それでも難しかった。法政大学出版局から出ている『時間と他者』なんかも薄いので読んでみたが、全く歯がたたなかった。最後まで読み切れたか、今となってはよく覚えていない。
そのようなわけで、また加えて分析系の哲学を勉強してもいることから、レヴィナスさんの哲学は私には理解できないものと思っていた。しかし今日入手した上記文献を読むと、レヴィナスさんの言わんとしていることが、ものすごくよくわかる。こんなに簡単にわかっていいのかな、と思うぐらいである。何だか日ごろ自分が考えているのとそっくりなことをレヴィナスさんも考えている。そのまま代弁してくれているようである。レヴィナスさんほどの方と自分とが「似たことを考えている」などと言うことは、不遜極まりないことに感じられる。しかしレヴィナスさんにお会いして、私の思っていることをお伝えするならば、きっとわかっていただけるものと思う。もちろん何から何まで同じであるとか似ているとか言うつもりはない。ただ基本的なところでかなり共感できるものがある。
以下に上記論文を読みながら「そう、まさにその通りだ、全くその通りだ」と激しく共感した文章を引用してみる。なお原文に挿入されているフランス語は引用に際して省く。

苦しみは、それ自体としては、無益であり、無意味である。苦しむために苦しむ、などということはありえない。では、苦しみはまったく無意味なのか。苦しみ自体としては無意味だが、他者への呼びかけとしては有意味だ、というのがレヴィナスの最後の答えである*1

その通りだ、他者への呼びかけとして意味を持ちうるはずだ。

私の無意味な苦しみは、他者への苦しみへの気遣いとなることによって、換言すれば、他者の苦しみを(私が代わりに)苦しむための苦しみとなることによって、意味をうる、というのである*2

まったくその通りだ。まさにその通りだ。

すなわち、私の苦しみは、つねに、他者の苦しみを代わりに苦しむ代理受難となることによって、意味のある苦しみとなるのである。旧約聖書の中に、「他者のために苦しむ義人の贖罪の苦しみ」という思想があるが、レヴィナス哲学においては、苦しみのこの意味づけが、単に義人の苦しみにとどまらず、すべての「私」の苦しみの意味づけの構造になるのである*3

そうそう、代理贖罪である。第二イザヤだ。このような代理贖罪は、苦しみであるとともに、愛でもある。愛と苦しみは表裏一体だ。なぜならそれは代理贖罪であるからだ*4

二○世紀から二一世紀にかけて行われた、そして、今も行われつづけている[アウシュヴィッツに見られるような]残酷さにも拘わらず、あるいは、むしろ、この恐るべき残酷さの故に、以上に論じた、「他者の苦しみのために、私が苦しむ」が倫理の最高原則にならなければならない、とレヴィナスは言う。人々に、一人一人の私に、かくも直接的に逃げようもなく迫ってくる「他者の苦しみへの気遣いと行動」を全能の神から期待するということは、われわれが人間を失格することなしには可能ではないだろう、と*5

倫理の最高原則「他者の苦しみへの気遣いと行動」とは、私にとっては愛そのものである。この最高原則は、愛するということの核心をも表している。

さて、[アウシュヴィッツに見られるような]これほどの苦しみに直面するとき、苦しみを苦しんだ人(死んだ人)の罪によって説明しようとするあらゆる思考を厭わしいもの、破廉恥なものとするであろう。前世紀から今世紀にかけての度外れの苦難の前に避けられなくなった弁神論の終焉は、「他者の苦しみはいかにしても正当化できない」という事実を明白にした。隣人の苦しみを正当化することが、あらゆる不道徳の根源であり、スキャンダルである。/ だが、アウシュヴィッツアウシュヴィッツにおいても沈黙していた神とはなんであるかを逆説的に啓示しているのではあるまいか。なぜなら、もしも絶滅収容所で神が不在であったのなら、明らかに悪魔がそこで跳梁していたのだからである。それ故、不在の神を否認することは、悪魔の共犯者になることであるだろう。人間性は、かつてなかったほどの困難な状況の中で、弁神論という甘い慰めのない現実の中で、なにか新しい信仰の様態を要請されているのではなかろうか。それは他者の苦しみに直面して、その無意味な苦しみを、われわれ自身が自分の苦しみとして担うことにより意味ある苦しみとすること、すなわち、そのとき、もしもそういうことが起こりうるとすれば、そこに現われてくる人間と人間との連帯としての愛が「神の息吹」であるというような、そういう新しい信仰へと呼ばれているのではなかろうか*6

そうだ、他の人の苦しみや苦悩を我がこととして引き受け生き抜いていくことが、その人を愛するということである。そしてレヴィナス=岩田先生はそこに神が見えるというのだ。それはすごい。しかし愛あるところに神があるというのは、私にも理解できる気がする。


続く…。

*1:42ページ。

*2:43ページ。

*3:43ページ。

*4:ただしレヴィナス自身は贖罪思想に対して否定的であるという見解もある。犠牲者は代理贖罪によって救われていると、加害者がぬけぬけと言い抜ける余地を作ってしまうからである。関根清三 『倫理の探索 聖書からのアプローチ』、中公新書1663、中央公論新社、2002年、49-50ページ参照。

*5:43ページ。

*6:45ページ。