の解説を、Godelの不完全性定理論文が現われるところまで読む。そこで「意外だな、知らなかったな」と感じた文を以下に引用する。コメントは最小限にする。
1922年に[発表されたヒルベルトの論文「数学の新基礎」において]ヒルベルト計画が完全にその姿を現したわけではない。実はその「全貌」が本当に判ったのは、1934年に出版されたヒルベルトとベルナイスの大著「数学の基礎」(Grundlagen der Mathematik)以後のことだと考えるのが妥当である。つまり、ゲーデル[の不完全性定理論文出版]以後なのである。この逆説的事態の理由は「有限の立場」の概念の不明瞭さにあった*1。
ヒルベルトのプログラムが不完全性定理論文以後にその全貌を現すというのは意外である。有限の立場というものがわかりにくいもので、論者によりそれをどう規定するか、まちまちであり、天下り的に有限の立場が何であるかは初めから決まっているものではないし、有限の立場をどう取るかでGodelの不完全性定理の意義が大きく異なってくるとは知っていた。有限の立場の定式化が第二次大戦以後になっても行われていたことも知っていたが、それにしてもそれなりにヒルベルトのプログラムはGodel以前に成熟していたと何となく思っていた。どうやら私が感じているほどには成熟していなかったらしい。
ヒルベルトは、チューリッヒで「公理的思惟」の講演を行った頃に、チューリッヒにいたベルナイスと、後に児童の心理発達の数学理論で有名になるピアジェとを助手候補とし、最終的に、ベルナイスを選んだ。その理由はベルナイスが哲学の専門的訓練を受けたことがあったからだという*2。
へぇ〜、そうなんだ、知らなかったな。
彼[Brouwer]は1928年にはウィーン大学でも連続講演を行った。この時の聴衆の一人が哲学者ヴィトゲンシュタインであり、長く哲学を離れていた彼が、この講演に刺激されて哲学に戻ったという話が広く喧伝されている。また、ゲーデルが、この講演に刺激を受けて、彼の数学の哲学の一つである数学の無尽性を考えついた、と言われている*3。
この引用文に付された註にはこうある*4。
ゲーデルは講演を直接聴いたのではなく、後に講義録を読んだだけの可能性も高いようだ。
Godelは、直接講演を聴いたのではないかもしれないというのは知らなかった。直接聴いていたらしく、Wittgensteinと当日講演会場ですれ違っていたかもしれない、という話はどこかで読んでいたし、そうかもしれないなと思っていたが、そもそもGodelは講演に行っていなかったかもしれないというのは知らなかった。
さて、明日以降は解説の「6 不完全性定理のその後」から、また読み進めていくことにしよう。
なお本日は以下も拾い読む。
- 小坂国継 『善人がなぜ苦しむのか 倫理と宗教』、勁草書房、1999年
この本の「第4章 生きることはどのように肯定されるべきか ―ニーチェの哲学から―」を拾い読み、ニーチェの運命愛と超人の概念について学ぶ。とても参考になった。
PS. 先日の飲み会で、自分自身をそれぞれもっと変えていこうということで、何か新しいことにチャレンジしようという話を女の子に語った。一生懸命その子は話を聴いてくれた。そこで僕は簡単な料理でお弁当を初めて作ってみると女の子に宣言した。それで早速フライパンやら材料を買ってきたので、この日記を書いた後、明日の朝の下ごしらえをしてから寝ることにします。おやすみなさい。