ユダヤ人哲学者レヴィナスを手がかりに,神の不在と逆説が切実な問いとなった現代の信仰についてその意味を探る.明快な叙述のうちに,「顔」に対する「応答」について語るレヴィナスの独特で難解な議論が読みとかれ,倫理的責任の引き受けに結晶する究極の神信仰が取りだされる.倫理と信仰の基底をめぐり重ねられてきた思索の到達点.
カフェで拾い読みする。感じ入る言葉ばかりだ。
この一人から他の一人へと向かう[日々のちょっとした]小さな善意は証人のいない善意である、ということをも心得ておかなければならない … *1
そう、証人のいない善意こそ、まったき善意となるであろう。
レヴィナスは「神の最初の、そして最後の現れは、約束なしに存在することであるだろう」と言っている。それは、約束の有無にかかわらず、他者のために自己を滅してしまった者のうちに、神の栄光が現われる、という意味である。*2
付け加えるべき言葉が見当たらない。その通りだと思う。
報酬に無関心な奉仕ということが、無限の栄光なのである。*3
こうありたい、愛する人に対してはこうありたい。
また次の本も読み続ける。肝に銘ずべき言葉をいくつか上げておく。
そこで、他者との関わり方はそういうことですけれども、レヴィナスは[他者に対するあるべき関わり方として]極端なことを言います。忘恩です。忘恩は、私たちの善意が本物かどうかの試金石だと言うのです。忘恩とは、ふつう、人間に対するいちばん悪い非難です。しかし、忘恩を蒙って怒っているようではだめだ、とレヴィナスは言います。「忘恩を蒙る」ことは「極限の寛大さを表す」機会なのです。*4
善い行ないは、それが本当に善い行ないであることを試す試金石として、この忘恩という試練を経なければならない … *5
まったくその通りである。愛が応報主義を超えたところでしか成り立たないのならば、そこで時として忘恩を蒙ることは当然のことであり、その愛が本物であるならば、その忘恩を人は甘受せねばならない。人は忘恩に生きねばならないのである。言うは易いが行うは難い。しかしそれでもなんとか甘受せねばならないのである。それができた時、その人は本物であり、古い言葉で言うことが許されるならば、男のなかの男となるのである。高貴な人となるのであり、偉大な達成となるのである。
しかし愛が報われない時は、本当にきついですね。でも、泣いたり言い訳したり、文句言ったり自棄になったりせず、それでも相手の人のために声をかけ一生懸命行動してあげることが必要です。それ以外に選択肢がないと思う。そうする以外にないではないか。それ以外の選択肢はすべてお互いを駄目にする。