Tractatus: Resoluteな読解 2

昨日の日記でC. DiamondさんたちのTractatusの読解法について簡単に記しました。それにちょっとだけ付加しておきます。
Tractatusの本文を本気でナンセンスと解するのが彼女たちの立場のようです。そうするとすぐに思いつくのが、次のような心配だと思います。
つまり本文が全部文字通りナンセンスだとすると、WittgensteinのTractatusにおけるPicture Theoryとか、世界はものからなるのではないというような存在論とか、真理関数の理論とかは、どれも文字通りナンセンス、無意味、いみのない戯言、本気で考察したり主張したり擁護したりするに値しないもの、言語や世界や論理について何も教えないし何も参考にならないもの、そのようなまったく無意味なものだ、ということになるのだろうか。以上のような心配・疑問が沸き起こってくると思います。
たぶんDiamondさんたちは、Wittgensteinが言語と世界について、metaphysicalな空論から人が自由になれるよう、Tractatusにおいて実践を通して導いてみせてくれているのだと考えているみたいなので、本文がナンセンスで何が悪い、ナンセンスでいいのだ、それがWittgensteinのやろうとしたことなのだし、その試みが正しいのならば、彼が導いてくれるように本文をナンセンスと捉えればいいのだ、ということになるのでしょうか?
いずれにせよDiamondさんたちの読解法には色々と反論が寄せられているみたいです。私には、不勉強なもので、よく知りません。


PS.

これは著者の「ウィトゲンシュタインにおける言語・論理・世界―『論考』の哲学 その生成から崩壊まで」(博士論文、2000年)を土台としてなった本のようです。
で、この新刊を買おうか買うまいか悩む。とても面白そう。でもFregeをまずは何よりもやらなければならないのに、あまりよそ見していたらいけないので自重してしまう。でも読み応えありそうで買ってしまうかもしれない。けどやっぱりわからない。『論考』はあまりにも、あまりにも手に負えない。自分にはやるだけ無駄だと思えて読む前から気がなえる。読みたいけど、読みたくない。複雑に屈折してしまう。どうしようかな…。
ちなみにこの新刊ではどうやらDiamondさんたちの解釈は検討されていないように見えます。