Quine's famous dictum: Philosophy of science is philosophy enough.

昨日次の文を読んだ。

「茶目っ気のある優しいおじいちゃん」としてのQuineさんのお姿が描かれていてほほえましいです。

この文を読んで思いましたことを一つ、記します。


私はQuine先生をお見かけしたことはあるのですが、直接お話しさせていただいたことはありませんので、実際のお人柄はよく存じ上げておりません。
ただ先生の二、三の文章や先生に関する文章をいくつか読み散らかした経験からして、Quine先生は、文章から間接的に察するに、結構こわい先生なのではなかろうか、と思ってきました。かなり頑固一徹なような気がするのです。ですから上記の冨田先生が伝えて下さるQuine先生の印象と、自分が感じる印象との間にギャップがあってちょっと戸惑います。


例えば吉田夏彦先生はQuineさんとお話した際、神は存在するかという議論になって、吉田先生はいるともいないとも証明できないので、信仰心を持った人々には寛容であるべきではないでしょうか、との主旨を述べたのに対し、Quineさんは

いつになくこわい顔をして、「そういうことで神の存在を許すのは、この部屋が壁にかこまれていて、中庭がみえないからといって、中庭には存在しないことを二人とも知っているはずの塔が中庭にあるかも知れないことをみとめるのと同じことで、まじめな人間のすることではない」とおっしゃった。ふだんの話し方は、紳士的におちついていて、声を荒げることなどはなさらなかったので、「無神論の信仰があつい方なのだなあ」という印象を得た。*1

ということだそうである。ちょっとこわい感じがする。引用文の通りにQuine先生が言ったとすると、先生にはめずらしく、随分論証の弱い抗弁だと感じます。というのも上記の引用文だと、いないことがわかっていることを前提として、それをいないと言っていることになるのではないでしょうか? つまり論点先取を犯している感じがします。


それはさておき、最近出たある翻訳書を見るとそこにもQuine先生のお姿が描かれています。あるときQuine先生は

ある著名な哲学者(名前を挙げるのは差し控えよう)の講演を聞いた。後からその講演の感想を尋ねられたクワインは、例の優雅で洗練された語り口で穏やかに「あの人は大まかなタッチで絵を描きますね」と言ってから、わずかに間をおいて、やや辛辣な口調でこうつけ加えた。「考えるときもあの調子なのでしょうな。」*2

こわい。

どうもQuine先生は、明晰に語り得ないことについては容赦なさらないかのようである。


また例えばQuine先生は1996年に来日された際、「思想の明晰な簡素化」という講演を行っておられますが、この講演の後、新聞のインタビューを受けていらっしゃいます。その新聞記事を読むとご自分の哲学的興味の在りかを披露されています。先生曰く*3

二十世紀前半には、実存主義などの人間の生き方を問う思想が流行したが、私自身はこうした哲学に興味をもったことはありません。私がやってきたのは[…]人間の生き方や価値観にかかわる哲学とは、随分ちがうものです。

また曰く、

さまざまな学問分野の特定の領域で、あるいは一般の人々の間で、あたり前のようにして使われる基本的な用語や概念、論理などの意味を、深く掘り下げた上で、あくまでも精密に明確化しようとする。いわば科学に対する科学、サイエンスのサイエンスが、哲学の役割だと考えます。

そしてあるところでQuine先生はこうもおっしゃっています。

Philosophy of science is philosophy enough

これは先生の“Mr. Strawson on Logical Theory”の中に出てくる有名な言葉ですが*4、しかし言いますね、ここまで言いますか先生。
この言葉のいみは、一般には恐らく次のように解されているのではないかと思われます。つまり、あからさまに言うと「科学哲学だけで、哲学は十分である。それ以外に哲学はない。」そしてこの言葉が実際に出てくる文脈でも、おおよそそんな感じに近いいみで使われているように思われます。


しかしどうなんでしょう? う〜む、口を真一文字に結んで腕を組んでしまう。これらのようなQuine先生のお姿を拝見していると、唐突だが、アメリカにしばらく住んでおられた村上春樹さんの次のような言葉を思い出してしまいます*5

思うのだけれど、アメリカという国では「概念」というものが一度確立されると、それがどんどん大きく強くなっていって、理想主義(and / or)、排他的になる傾向があるようだ。よく「自然が芸術を模倣する」と言われるが、ここでは「人間が概念を模倣する」ケースが多いみたいな気がする。この概念をイエス・ノオ、イエス・ノオでどこまでも熱心にシリアスに追求していくと、たとえば動物愛護を唱える人が食肉工場を襲撃して営業妨害をしたり、堕胎反対論者が堕胎手術をする医者を銃で撃ったりするような、まともな頭で考えるとちょっと信じられないようなファナティックなことがおこる。本人は至極真面目なんだろうけれど。

哲学という営みは、たとえ非常識と言われようと、どこまでもどこまでもlogicalにprincipleを追究していくべきものである。たとえファナティックと言われようともである。しかしそのような追究の営みの中で、自分をcoolに見詰めていることも、また必要である。「これはlogicalには正しいが、何かがおかしいのではなかろうか?」と。バランス感覚を失ったとき、そこではfanaticismが大きな口を開けて待っている。

*1:吉田夏彦、「クワインさんのこと」、『月報 第19号 現代思想冒険者たち 第19巻(第一九回配本) クワイン』、1997年12月10日、講談社、3ページ。

*2:ヒラリー・パトナム、『存在論抜きの倫理』、関口浩喜他訳、叢書ウニベルシタス 865、法政大学出版局、2007年、17ページ。

*3:以下の引用は二つとも次に見られる。「インタビュー 第12回京都賞受賞 米のクワイン博士 正確に明晰に簡素に証拠を重ねて真理追究 論理学、集合論に手腕」、井上英司記者記、『読売新聞』、1996年11月21日夕刊、第11面。

*4:W.V. Quine, The Ways of Paradox and Other Essays, revised and enlarged ed., Harvard University Press, 1976, p. 151.

*5:村上春樹、「元気な女の人たちについての考察」、『やがて哀しき外国語』、講談社文庫、講談社、1997年、164-165ページ。