『思想』最新号に掲載されている講演の記録。


大まかに言うと、1980年代以降のChomskyの生成文法と『探究』のWittgensteinとを合わせてこそ、言語というものの正体は明らかになるとのお話。
その二つをどのように合わせるのかを語っておられます。
個人的にはその合わせ方よりも、なぜそもそも生成文法+『探究』でなければならないのか、という先生のお話の前提の根拠・必然性の方に、ずっと興味を感じます。


なぜ生成文法+『探究』なのでしょうか? それ以外は駄目なのでしょうか? 駄目だとするなら、なぜ、どれが、どれだけ駄目なのでしょうか?
そのへんがうまく飲み込めないと、先生のお話に「なるほど、そうか!」と合点がいかないような感じがしました。
講演の記録で論証の記録ではないので、そのへんの疑問を先生の講演に求めてもせん無いでしょうし、第一じっくり熟読しておりませんので見当違いな疑問でしたらすみません。Chomskyを勉強してみたくなりました。


おやすみなさい。