Memo: Quineのsortalsについて

Quineさんのsortalsが出てくるのは、彼の『ことばと対象(Word and Object)』の第3章 「指示対象の発生学」、section 19 「分割された指示対象」においてである。


そこで以下でQuineさんのsortalsがどのように出てくるかを邦訳を通して引用したい。


しかしその前に、まず、このsortalsが出てくる『ことばと対象』が、全体として、何をやろうとしているのかを記しておく。次に、sortalsが出てくるsectionとその前後でQuineさんは何をやろうとしているのかを、簡単にまとめておく。そして最後に、Quineさんのsortalsを引用する。


『ことばと対象』は、全体として何をやろうとしているのか?
この点について以下に述べるが、前もって正直に話しておくと、私は『ことばと対象』を原書では読んだことがない。邦訳でも通読したことはない。したがって『ことばと対象』が、その全体で何をしようとしているのかを述べることのできる資格を、私は持っていない。さしあたり、邦訳をあちこち拾い読みして感じた印象を記すのみである。暫定的で、漠然とした感想を述べるだけである。「どうやらこの本は、全体としてはこういうことをやろうとしているのではなかろうか?」という、仮想的な、今後の進路を検討するための、自分の中における里程標として、あるいは自分のためのたたき台として、『ことばと対象』の全体的目標を、それが何であるか、掲げておく。詳細・正確には件の本を通読されることをお勧め致します。


それではもう一度、『ことばと対象』は、全体として何をやろうとしているのか?
天下り的にそのことを述べる。詳細な説明はしない。そうすると話がどんどん脱線していくし、たいして詳しい話も勉強不足でできない。


暫定的ながら、それは次のようなことをやろうとしているように私には感じられる*1

人はいかにして、わずかな資源をもとに、科学に基付く世界理解を入手しうるのか、この疑問に答えるための見通しを、科学的知見を大いに利用しつつ、ことばがいかに世界の対象と関わるかという観点から、思考実験を多用することで、再構成してみせる。そしてこの考察の中で、どこまでが人間に対する与件で、どこからが人間による、いわば積極的な世界理解における貢献なのか、この範囲を、できるだけ明晰かつ簡素な形で、明らかにすること。

以上は推測に過ぎない。そしてこの推測にさらに推測を重ねると、『ことばと対象』がやろうとしていることは、もしかしてもしかすると、RussellのOur Knowledge of the External Worldとか、CarnapのDer logische Aufbau der Weltの系統に連なるような何かをやろうとしていたのではなかろうか? などと想像してみたくなる。なお、今のCarnapの本はまったく読んだことがない。英訳であっても一行たりとも読んだことがない。二、三の解説を目にしただけである。だからまったくの想像である。この想像の熱を冷ますためにも、さらなる勉強を続けなければならない。


話が長くなるので、このあたりでとりあえず、『ことばと対象』がその総体として何をやろうとしているのかの、極私的な感想を書くのはやめておこう。次に、問題のsortalsが出てくるのはこの本の第3章 「指示対象の発生学」 なので、今度はこの章全体が何をやろうとしているのかを簡単に記しておく。


以下、多分、続く…。

*1:以下の文中でなぜ一部が太字になっているのかの説明は略す。説明しようにも、今の私には簡潔に解説できないと思われる。ただ「ことば」と「対象」とが太字になっているのは、この本のtitleを意識してのことである。つまり私の個人的な印象では、件のtitleはこのようなことからきているのではあるまいか、と感じている。