Memo: Natural Kind Terms

以下の文献の初めの部分を参考に、若干敷衍しつつmemoをつづる。

  • Steven Gross  “Natural Kind Terms”, 2nd draft, January 7, 2005, forthcoming in Encyclopedia of Language and Linguistics, Elsevier


Natural Kind TermsはNatural Kindsを指示する名辞である。あるいはそうするものとされている名辞である。
この名辞は、physical, chemical, and biological kindsを指示する。
Natural Kind Termsには、natural kind termsだとわかるsyntacticalな、あるいはmorphologicalな特徴はない。
つまり形からはわからないということである。
Natural kind termsが、natural kind termsだとわかるのは、それがnatural kindsを指示しようとしているということのみからである。
つまりsemanticalな観点からしかnatural kind termsを特定できないということである。
ある名辞が、natural kindsを指示しようとしているのならば、それはnatural kind termsである。
ではnatural kindsとは何か?
これには意見の相違がある。Kindsの候補としては、set, properties, complex individuals, or something sui generis などがある。
そしてnatural kindsとは、いずれの候補がkindsであるとしても、自然の中に実在する区別(real distinctions)によってkindとkindとが区分されるもののことである。
この、Kindとkindを区別するのがessenceである。あるessenceが、あるkindを成し、別のessenceが、別のkindを成す。
Essence α がkind Aを成すとする。
この時、もし個体aがαを持つならば、aは必然的にAに含まれる。あるいはAに属する。あるいは一員である。…
こうしてこのように、natural kindsは、何かmodalなものだとわかる。


Natural kindsは任意のgroupingではない。例えばPlatoの左耳を成しているkindだとか、任意に選び出された自然数だとか、現今の国家元首が所有している靴などは、natural kindsではない。
Natural kindsは人が定めた規約によるgroupingではない。例えばPennsylvaniaに居住している市民や、植物人間などは、natural kindsではない。
Natural kindsは、何らかの機能を持つようにと、人が意図して作ってできた物のgroupingではない。つまり、人工物はnatural kindsではない。例えばテーブルや鍵などは、natural kindsではない。


Natural kind termsは、一般には名詞もしくは名詞語句であると考えられている。‘red’などの例外はあるものの、多くの場合、形容詞はnatural kind termsから除外される傾向にある。
人間というkind N が持つessence α が一つ定まるならば、個体xがαを持つとすると、xは必然的にNに含まれる。Nに含まれ、かつ含まれないということはない。このため、natural kindsは境界例を許さないと、一般にではあるが、考えられている。そうすると恐らく、natural kind termsのlogicは、通常は、二値原理しか許さない。
「水」は、一般にはnatural kind termだとされている。そしてこの語の表わすessenceとされるものはH2Oである。H2Oというessenceが、水というkindを成している。このkindにはH2Oのみが含まれていて、それ以外は含まれていない。ところで「水」がこのようなH2Oのみからなるkindを指しているとしても、「水」をそのようなもののみを指すものとして使うことは、頻繁にはない。「川の水」という言葉を普段使うが、川の水はH2Oのみからなるのではない。それ以外の諸々のものも数多く含んでいる。にもかかわらず、H2Oばかりでもないのに「川の水」という言葉を当り前のように使っている。「水」がnatural kind termだとすると、この語はH2Oのみを指すものとして使われるはずだが、実際のところはそうはなっていない。ここからnatural kind termsの典型例とほとんどの人が考える「水」を、natural kind termではないと主張する人もいる。いずれにせよ、natural kind termsは、しばしば本来その語が指示するはずとされているものと、実際に指示しているものとがたびたび乖離するという傾向を示す。


総評:
Natural kind termsをsyntactical or morphologicalには特定できないとは、何かひどく人を不安にさせる。
Natural kind termsを特定するのは、その指示しているものによってであるとして、それによって指示されているのはnaturalなkindだとされているが、
natural kindとは何であるかははっきりしていないようである。
それはessenceだとされるが、このmodalな何かを持ち出してきたとしても、解決にはなっていない。逆にますます困惑を引き起こしているように感じられる。
Natural kind termsがあるということは、自明なことではない。
このcategoryをなしにして済ますこともできるかもしれないし、
もっと重要な既存のcategoryがあって、そちらを分析する方が有益かもしれない。
あるいはもっと重要な未知のcategoryがあって、そちらを見つけ出す方が有益な結果をもたらすかもしれない。


以上の総評は、さして根拠のない、単なる感想に過ぎない。文字通りの、単なる感想である。
(今日のmemoも読み返していないので誤字脱字があるかもしれない。)