‘Neukantianer’

上記大橋先生の論考内に、こうある*1。‘Neukantianer’の初出。

同年[1862年]11月29日にはベルリンの哲学会でツェラー[Eduard Zeller]のこの講演[「認識論の意義と課題(Uber Bedeutung und Aufgabe der Erkenntnistheorie)」]が検討されたが、その席上、同じヘーゲル学派[中央派]でアリストテレス倫理学に関する著書をもつカール・ミヒェレット[K. L. Michelet](1801-93)は、同学派からの離反に対する揶揄を込めてツェラーを「ノイカンティアーナー」(Neukantianer)と呼んだ。ケーンケ[K. C. Kohnke]やジーク[U. Sieg]などの研究家によれば、これが「新カント学派」という名称が最初に使われた事例である。

これは知らなかった。
新カント学派登場の前史として、ヘーゲル学派の右派・中央派・左派の動向を一通りながら理解しておかねばならないかもしれない。
ちなみにヘーゲル学派の登場と解体は、恐らく1835年登場(Das Leben Jesu)、1848年解体(三月革命)ということになるものと思われる。
つまり、恐らくだが、1848年頃までがヘーゲル学派の盛んな時期で、以降解体期に入り、模索の状況が続いて1862年頃(‘Neukantianer’)から新カント学派の胎動が始まり、1865年に「カントに還れ」で覚醒し、70-80年代に例の二つの学派が生み出される、というstoryだろうか? そしてこれら二つの学派が生まれる頃に、Fregeの学的成果も生み出され始めたわけだ。まぁ、大まか過ぎる話だが…。

*1:大橋、396ページ。原文の漢数字は引用文中で算用数字に直した。