Russell's Basic Principle of his Philosophy: Abstraction Principle

本年12月18日の日記の続き。

しばらく前から私はFregeのSortal Concepts/Sortal Predicatesについて調べてきた。そしてFregeのSortal Concepts/Sortal Predicatesは彼のHume's Principleと深いつながりがあるらしいとわかった。このHume's PrincipleはAbstraction Principleの一事例なのだが、これらHume's PrincipleやAbstraction PrincipleはQuineの‘No Entity without Identity’とも深い関係があるとの指摘から、Quineのこのdictumを調べたりしているうちに、RussellもAbstraction Principleについて語っているということを知るに至り、ではFregeによるAbstraction Principleの理解に対し、RussellはそのPrincipleをどのように理解しているのだろうかと興味を覚え、調べてみた。
すると、RussellはFregeとは反対に、少なくともRussellの意図の上では、抽象的対象を排除・削減するために、Abstraction Principleを利用しているらしいことがわかった。
実際にそのことをRussell自身で述べている文が、彼の書いたもののいくつかに見ることができる。
そのような文の一つを先日読んでみると、個人的に驚いたことに、意外にもAbstraction PrincipleはRussellの初期の哲学のうちで、あるいは恐らく彼の生涯に渡る全哲学の流れのなかで、基礎的部分を占めているらしいということがわかった。
Abstraction Principleは、それ自体ではtechnicalな事柄であり、初歩的なこと、ないしは枝葉に属すると感じさせるところもないではない。
そのようなPrincipleが、Russellの哲学の基本・根幹に属しているらしいことを知った時には、少々意外な感に打たれた*1

以下は、Russellにとって、Abstraction Principleが、彼の哲学の基本的な部分に関わっていること、及びそのPrincipleの役割が、不確かなものを排除し、確かなものによって置き換える、あるいは確かなものを見出して確保するということにあることを述べている文章である。
なお、ここではその不確かなものが抽象的対象であると、はっきりと明言されている訳ではないようである。そのようないみで、ここでのRussellの文は、Fregeにとっての抽象的対象の導入を果たすAbstraction Principleとは、正反対の役割を持ったPrincipleが語られているということにはならないと思われる。

まず、実際に引用文を掲示する前に、その概略を記しておく。Key wordsは、引用符を省いて述べると、Ockham's Razor, Logical Construction, Abstraction Principle, Logical Atomism, Analysis, Incomplete Symbols, Contextual Definition, No-Class Theory(No-Classes Theory), Theory of Descriptions, Substitutional Theoryである(順不同)*2。この概略は私の個人的な解釈が入っている。Skipされて、直接Russellの言葉に耳を傾けた方がよいかもしれない。

話の流れから、Abstraction Principleを中心に述べると概略は次のようになるだろう。
以下に引用するRussellの文の直前の段落を読むならば、そこではRussellは真である論理学から数学が演繹されるので、数学は真なのだ、というのではなく、例え論理学から数学が演繹されるとしても、論理学が真で、そこから真理保存的に数学が演繹されるから、数学は真なのだ、ということにはならないと述べている。どうやらRussellは昔から数学が実際に真であるということを確かめたがっているようなのだが、通常の論理主義のプログラムのように、真である論理学から厳密に数学は演繹されるので、数学は真なのだ、という流れにはならないらしい。彼の中では通常の論理主義のプログラムでは、数学が真であることを確かめることはできないと考えているようである。
そして数学が実際に真であることを確かめるには、別の方策が必要なのだと述べたすぐ後に、以下の引用文のAbstraction Principleの話が出てくる。どうやらこのAbstraction Principleを使った方策が、数学が真であることを確かめる方法であるかのような書きぶりである。恐らくRussellにとって何かが真であるとは、それが絶対確実であり、あるいは/かつ、絶対確実であることが知られうる、ということのようである。もしもそうであるとするのなら、絶対確実であるものは何であり、それはどうやったら絶対確実に知ることができるのだろうか、ということが、喫緊の問題となる。そしてそのような絶対確実なもの/絶対確実な認識をもたらすものが、どうもAbstraction Principleらしいというように読まれるのではないかと感じられる。
Abstraction Principleによるならば、どのようにして絶対確実なものにたどり着けるのだろうか。そのためにはRussellの考えでは、何よりも不確実なものを削除してゆけばよいのである。不確かであろうと疑われるものを削除して、確かなものを残してゆけば、最終的に確かなものだけが残ると思われる。
Abstraction Principleは現在ではある集合に同値関係を入れて同値類を取ることと見なされている。あるいは同じことだが、ある集合を直和分割してやることであると見なされているであろう。どちらも同じことだが、以下のRussellの文では、同値関係を前提として、同値類を取ることとするのではなく、ある集合を直和分割してやれば差し当たり同値関係を想定してやる必要はないという話になっていると思われる。つまりこの場合、同値関係なるものを想定せず削除してしまい、直和分割後にできる集合こそが、Russellにとり確かだ、と考えられている訳である。RussellにとってAbstraction PrincipleはOckham's Razorであり、analysisによって不要なものを削除し、このプロセスを押し進めて絶対確実なlogical atomへと到達し、この作業を始める前の所与をlogical atomsのみによってあらためてconstructし直すこと、このようにして得られたものが絶対確実なものなのであろう。
ところで数学においてこの作業を遂行すると、その過程で集合が得られる。例えば自然数をAbstraction Principleによって分析するならば、各自然数は何らかの集合の集合だ、という形で集合が得られる。Russellの引用文によれば、このような集合も削除してやることができる。そしてまた削除してやらねばならないものとして扱われている。そこにはparadoxが生じるからである。その削除のやり方としては、the definite descriptionにthe theory of descriptionsを施してやるように、集合の記号にもthe theory of descriptionsを施してやるのである。すなわち集合を表す記号はincomplete symbolだとして、文脈的に定義し直される訳である。このような方向で集合をもなしで済ませていこうとするのがNo-Class Theoryである。そしてこの理論が発展・解消されて、どうやらSubstitutional Theoryになるようである*3

それでは以下に問題のRussellの文を引用する。最初は和訳、次が原文である。


 ホワイトヘッド博士と私が、経験から、数学的論理学において用いることができることを見出し、かつその後、種々のその他の分野において用いて来たところの、一つの非常に重要なそして人々に新しい展望を与える原理がある。それは、オッカムのかみそりの一種である。ある一組の問題になっているものがはっきりした論理的特性を有するとき、ほとんどすべての場合、そのものは、そのようなはっきりした特性を有していないものによって作られた純粋に論理的な構成体によって、置き換えることができる、ということがわかるのである。この場合、その問題になっているものについての命題であると信じられていた一群の命題を解釈するさい、われわれは、その一群の命題のいかなる細部をも変更することなく、〔その問題になっているものを〕論理的な構成体によって置き換えることができるのである。このことは経済的なことである。なぜなら、はっきりした特性を有している〔その問題になっている〕ものは常に推測の結果として考えられるのであるが、もしそのようなものについて言及している命題〔であると信じられている命題〕がこの推測なしに解釈できるとすれば、この推測をする根拠が失われ、その結果、われわれの有する一群の命題は〔その問題になっているものを推測するという〕疑わしい一過程を必要としなくなるのであるから。この原理は、「可能な場合はどこででも、知られざるものを推測する代りに、知られているものによって構成体を作れ」という様にのべてもよい。
 この原理の用途は非常に広い。しかし、数学的論理学を知らない人には、この原理の用途の詳細を理解することはできない。〔この原理の用途の〕一例として私が最初に出会ったものは、私が「抽象化の原理」あるいは「抽象化無用の原理」と呼んだところのものであった。この原理は、等号の関係のような対称的で推移的な関係には、いつでも適用できる。われわれは、そのような関係はある共通な性質を持っていることから生ずる、と思いがちである。実際、そうであるかもしれないし、そうではないかもしれない。たぶん、ある場合にはそうであり、またある場合にはそうでないであろう。しかし、〔あるものが〕ある共通な性質〔を持っているということ〕の形式的な目的のすべては、〔そのものが〕そのものに対して当の関係を有するものの集まりの一員であるということによって、みたすことができるのである。たとえば、大きさ、をとろう。〔そして〕すべての長さが等しい棒の集まりがあるとしよう。〔その場合〕それらの棒すべてが共有するところの、それらの長さ、といわれるある性質がある、と考えることはたやすい。しかし、その性質について言及しているすべての命題は、「〔棒 x が〕棒 x の長さ〔といわれる性質を持っているということ〕」のかわりに「〔棒 x が〕棒 x と等しい長さを有するすべての棒の集まりの一員であるということ」を置き換えても、その真理値に変化をきたさないのである。多くの特殊な場合には、 −たとえば実数の定義の場合には− 〔置き換えるべきものを〕より簡単に構成することが可能である。
 この原理の非常に重要な一例は、与えられた一組のものの基数を、その一組に対して「同等」であるすべての組の集まり、として定義するフレーゲの定義である。ここに、2つの組が「同等」であるとは、その2つの組の間に一方を定義域とし他方を値域とした一対一の関係が存在する、ということである。かくして、〔ある与えられた集合の〕基数とは、その集合に対して同等であるすべての集合の集合、なのである。この定義は、基数について言及しているすべての命題の真理値に変化をきたさず、しかも、「基数」と呼ばれるものの一揃いを予想しなくともよくするのである。かくして、そのようなものは、算術をわかりやすくする目的以外にはまったく必要ではなかったのだが、いまやその目的に対しても必要ではないのである。
 おそらくなお一層重要なことは、同様な方法を用いれば、集合それ自身をなしにする、ということができるという事実である。数学は、集合とか集まりは、ある意味では、当然一個のものである、ということを要請しているかにみえる命題にみちみちている。たとえば、「n個のものから一時に任意個とり出す場合の〔可能な〕組み合わせの個数は[2のn乗]である」という命題はその一例である。〔ところが〕[2のn乗]はつねにnより大きいので、もし集合が〔それ自身一個のものとして〕認められるとすれば、この命題は困難をひき起してしまうのである。なぜなら、〔この命題にしたがえば〕宇宙内のものの集合の個数は宇宙内のものの個数より大きいことになるが、このことは、もし集合が〔宇宙内の〕ものの一部であるとすれば、奇妙なことであるから。〔しかし〕幸いにして、集合〔というもの〕について言及しているかにみえるすべての命題は、集合〔というもの〕の存在を予想することなしに、解釈できるのである。このことがたぶん、われわれの原理〔抽象化の原理〕の応用のすべての中で、最も重要なるものである。
 〔知られざるものを予想する代りに、知られているものによって構成体を作れ、という原理の〕他の重要な実例は、私が「確定記述」と呼ぶところのもの、すなわち「偶数の素数」、「現在のイギリス国王」、「現在のフランス国王」といった語句、に関するものである。「現在のフランス国王は存在しない」といった命題の解釈には、つねにある困難が存在していた。その困難は、「現在のフランス国王」がこの命題の主語である、と考えることから生じたものである。そう考えることは、現在のフランス国王は、たとえ存在はしなくとも存立はする、と考えることを必要とする。しかし、「円い四角」とか「2より大きな偶数の素数」の場合には、存立するということすら困難なのである。実際、「円い四角は存立しない」ということは、「現在のフランス国王は存在しない」ということとまったく同様に、真理なのである。かくして、存在と存立の区別は、われわれの助けにはならないのである。事実は次のようなのである −ある命題の中に「かくかくのもの」という語句が入っている場合でも、〔そのものに〕対応した命題の一構成要素があるわけではないのである、そして、その命題が十分に分析されると、「かくかくのもの」という語句は消え失せてしまうのである。このような記述の理論の重要な帰結の一つは、「A」が「かくかくのもの」という形の語句である(あるいはそのような形の語句を表わす)のでない限り、「A は存在する」と言うことは無意味である、ということである。もしかくかくのものが存在し、かつ、x がそのかくかくのものである場合には、「x は存在する」と言うことは無意味なのである。かくして存在は、それが一個のものについていわれる場合には、基本的なるもののリストから、まったく除外されるのである。存在論的な議論とそれを論駁する大部分の議論は、〔日常言語の〕悪しき文法によりかかった議論であることがわかるのである。
 純粋数学の中には、〔知られざるものを〕推測する代りに、〔知られているものによって〕構成体を作る多くの他の実例がある。たとえば、系列、順序数、実数などはその実例である。しかし私は、物理学の実例に移ろうと思う。*4



 One very important heuristic maxim which Dr. Whitehead and I found, by experience, to be applicable in mathematical logic, and have since applied in various other fields, is a form of Ockham's razor. When some set of supposed entities has neat logical properties, it turns out, in a great many instances, that the supposed entities can be replaced by purely logical structures composed of entities which have not such neat properties. In that case, in interpreting a body of propositions hitherto believed to be about the supposed entities, we can substitute the logical structures without altering any of the detail of the body of propositions in question. This is an economy, because entities with neat logical properties are always inferred, and if the propositions in which they occur can be interpreted without making this inference, the ground for the inference fails, and our body of propositions is secured against the need of a doubtful step. The principle may be stated in the form: ‘Wherever possible, substitute constructions out of known entities for inferences to unknown entities.’
 The uses of this principle are very various, but are not intelligible in detail to those who do not know mathematical logic. The first instance I came across was what I have called ‘the pirnciple of abstraction’, or ‘the principle which dispenses with abstraction.’ This principle is applicable in the case of any symmetrical and transitive relation, such as equality. We are apt to infer that such relations arise from possession of some common quality. This may or may not be true; probably it is true in some cases and not in others. But all the formal purposes of a common quality can be served by membership of the group of terms having the said relation to a given term. Take magnitude, for example. Let us suppose that we have a group of rods, all equally long. It is easy to suppose that there is a certain quality, called their length, which they all share. But all propositions in which this supposed quality occurs will retain their truth-value unchanged if, instead of ‘length of the rod x’ we take ‘membership of the group of all those rods which are as long as x’. In various special cases −e.g. the definition of real numbers− a simpler construction is possible.
 A very important example of the principle is Frege's definition of the cardinal number of a given set of terms as the class of all sets that are ‘similar’ to the given set −where two sets are ‘similar’ when there is a one-one relation whose domain is the one set and whose converse domain is the other. Thus a cardinal number is the class of all those classes which are similar to a given class. This definition leaves unchanged the truth-values of all propositions in which cardinal numbers occur, and avoids the inference to a set of entities called ‘cardinal numbers’, which were never needed except for the purpose of making arithmetic intelligible, and are now no longer needed fot that purpose.
 Perhaps even more important is the fact that classes themselves can be dispensed with by similar methods. Mathematics is full of propositions which seem to require that a class or an aggregate should be in some sense a single entity −e.g. the proposition ‘the number of combinations of n things any number at a time is [the nth power of 2]’. Since [the nth power of 2] is always greater than n, this proposition leads to difficulties if classes are admitted because the number of classes of entities in the universe is greater than the number of entities in the universe, which would be odd if classes were some among entities. Fortunately, all the propositions in which classes appear to be mentioned can be interpreted without supposing that there are classes. This is perhaps the most important of all the applications of our principle.
 Another important example concerns what I call ‘definite descriptions’, i.e. such phrases as ‘the even prime’, ‘the present King of England’, ‘the present King of France’. There has always been a difficulty in interpreting such propositions as ‘the present King of France does not exist’. The difficulty arose through supposing that ‘the present King of France’ is the subject of this proposition, which made it necessary to suppose that he subsists although he does not exist. But it is difficult to attribute even subsistence to ‘the round square’ or ‘the even prime greater than 2’. In fact, ‘the round square does not subsist’ is just as true as ‘the present King of France does not exist’. Thus the distinction between existence and subsistence does not help us. The fact is that, when the words ‘the so-and-so’ occur in a proposition, there is no corresponding single constituent of the proposition, and when the proposition is fully analysed the words ‘the so-and-so’ have disappeared. An important consequence of the theory of descriptions is that it is meaningless to say ‘A exists’ unless ‘A’ is (or stands for) a phrase of the form ‘the so-and-so’. If the so-and-so exists, and x is the so-and-so, to say ‘x exists’ is nonsense. Existence, in the sense in which it is ascribed to single entities, is thus removed altogether from the list of fundamentals. The ontological argument and most of its refutations are found to depend upon bad grammar.
 There are many other examples of the subsitution of constructions for inferences in pure mathematics, for example, series, ordinal numbers, and real numbers. But I will pass on to the examples in physics. *5

*1:我ながら実に不勉強なことこの上ない。先生が知ったら怒るのを通り越してあきれられるだろう。何を聞いていたのか、何を勉強していたのか、と。という訳でこのことは内緒にしておこうかな。

*2:これらに加え、Neutral Monism, Logical Proper Names, Propositional Functions, Sense-Data, Sensibilia, Knowledge by Acquaintance and Knowledge by Descriptionと、さらにPrincipiaの論理学用語を合わせてRussellの哲学を説明するならば、その場合、そうする者は大略Russellの哲学を理解していると認められることになるものと思われる。残念ながらまだ私にはそのような説明はできない。勉強途上である。

*3:今私はOckham's Razor, Logical Construction, Abstraction Principle, Logical Atomism, Analysis, Incomplete Symbols, Contextual Definition, No-Class Theory, Theory of Descriptions, Substitutional Theoryなどのkey wordsを使ってRussellの考えをまとめてみた。それらはいずれも今までに聞いたことのある言葉であり、どれもRussellに強く結びついた言葉であって、そのうちのいくつかは、幾ばくか詳しく説明することもできたであろうし、他のいくつかは詳しくは説明できなかったであろう。さらにそれぞれの言葉がどのように有機的に関係しているのかについては、これらの言葉の一部を除いて、充分系統的に説明できなかったことである。しかし今回今さらながら初めて今取り上げた各用語がどのように結び付き合っているのかを理解できたと思う。まだまだ浅い理解ではあろうけれど。なお、No-Class TheoryがSubstitutional Theoryへと変貌して行く様は、例えば戸田山先生の「ラッセル」、飯田隆編、『哲学の歴史 第11巻 論理・数学・言語 【20世紀】』、中央公論新社、2007年、255ページから論文最後の276ページまでを参照。

*4:バートランド・ラッセル、「論理的原子論」、黒崎宏訳、『論理思想の革命 −理性の分析』、石本新編、東海大学出版会、1972年、118-121ページ。訳文中で‘entities’が「もの」と訳され、太字になっているが、本日の日記に英語原文も掲示しているのでplainなままに引用した。また訳者の黒崎先生によって一部英語の原語が訳文に明示されている箇所があるが、英語原文全体を本日の日記に引いているので、そのような箇所も省いている。加えて訳文中にRussellによる簡単な註が、わずかな個数入っているが、こちらも省いて引用してある。「〔 〕」は訳者によるもの。「[ ]」は引用者によるもので、この引用者によるものは、指数を表わすsuperscriptが表現できなかったので言い換えのために使用している。なお、引用した翻訳の原典は1918年のLecturesである“The Philosophy of Logical Atomism”と、訳書の26ページに記されているが、これは間違いで、正しくは1924年に刊行された“Logical Atomism”が翻訳の出典である。

*5:Bertrand Russell, “Logical Atomism”, in Robert C. Marsh ed., Logic and Knowledge: 1901-1950, Routledge, first published in 1956, this reprinted edition in 2005. The paper originally published in 1924. pp. 326-328.