Arpad Szabo “Greek Dialectic and Euclid's Axiomatics” 要約

以下にArpad Szabo “Greek Dialectic and Euclid's Axiomatics”*1の内容を要約する。SzaboさんはここでEuclid's Elementsの生成史を説いておられる。SzaboさんによるEuclid's Elements生成史に関しての詳しく体系的な解説はその他の文献で読むことができるが*2、ここではご当人の言葉に直接耳を傾け、Szabo説を理解することに努める。
ところで分析哲学を学ぶ者は、論証的/公理論的数学の生成史に興味を持つことは、恐らく望ましいことである。またFregeを学ぶ者は、彼のGrundlagenが書かれた背景的動機、19世紀ドイツ数学界における傾向を理解するためにも、やはり論証的/公理論的数学の生成史に興味を持つことは望ましいだろう。もしもFregeのGrundlagenが、当時のドイツにおける、arithmeticなりanalysisなりのrigorizationの潮流の中で書かれたとするのならば、そのrigorizationの伝統的典型例としてのEuclid's Elementsのaxiomaticsをよくよく理解しておくことは、ぜひとも必要なことと言えよう*3


それでは以下にArpad Szabo “Greek Dialectic and Euclid's Axiomatics”を要約する。


なぜ古代のギリシャ人たちは、数学の知識の正しさに関し、経験上の証拠でもってそれを正当化せず、演繹による論証でそれを正当化するようになったのか? その答えは、哲学が数学に影響を与えたからである。より正確には、Eleatic dialectic が数学に影響を与えたのである。総じて言うならば、古代ギリシャの演繹的数学は、Eleatic dialectic を数学的知識として作り変えた結果に基礎を持つのである。このことを以下に説明する。1.では、Euclid's Elementsのdefinitions, postulates, axioms が、Eleatic dialecticに淵源することを示す。2.では、Euclid's Elementsで使われる間接証明がEleatic dialecticに淵源することを示す。3.では、Euclid's Elements の公理の一つがEleaのZeno's paradoxを回避するために考えられていることを示す。


1.
Euclid's Elements は、証明を要しない諸原理の提示から始まっている。Definitions, postulates, axioms である。これらの諸原理のことを、古代の哲学者ProclusはEuclid's Elementsを註釈する際、‘υποθεσις’(hypothesis)と述べている*4。ところで古典ギリシャ語の‘υποθεσις’は議論をする者同士が、議論の取り掛かりに際し、お互いに正しいものとして認めるものをいみしていた。現在では‘hypothesis’は、当座のところは正しいとはわかっていないが、後々正しいものと立証されるもののこととして主に使われるが、当時の哲学と数学では、正しいものと立証される必要はないが、議論の前提として正しいと認めたものをいみしていた。そして議論の取り掛かりにおいて、正しいものとして認めておくというこのやり方は、[Eleaの]dialecticに由来する。したがって正しいものと立証される必要はないが、議論の前提として正しいと認めたものをいみする‘υποθεσις’は、[Eleaの]dialecticに由来する。[すなわちEuclid's Elementsの、最初に掲げられている諸原理は、[Eleaの]dialecticに由来するのである。]


2.
しかし‘υποθεσις’は、当時多くの場合、正しいものと立証される必要はないが、議論の前提として正しいと認めたものをいみしていたが、現在と同様に、正しいかどうかを留保した仮説といういみで使われてもいた。それは間接証明(indirect proof)での出発点として使われていた。当時の文献を読むと、例えば「知ることと知覚することとは、同じではない。」ということを証明するために、「知ることと知覚することとは、同じである。」というυποθεσιςを立て、そこから矛盾を引き出すことにより、「知ることと知覚することとは、同じではない。」ということを論証する事例がPlatoの著作に見える。このような間接証明の手法はEuclid's Elementsにしばしば見られる。そして元々はEleaのParmenidesとZenoが利用していた手法であり、Euclid's Elementsの証明法はEleatic philosophyにさかのぼるのである。


3.
Euclid's Elements の公理の一つは、EleaのZeno's paradoxに対する応答の結果であると考えられる。Euclid's Elements の公理の一つ「全体は部分よりも大きい」は、あまりに自明である故に、なぜまたこのようなことが公理として掲げられねばならなかったのかが、しばしば問題とされてきた。ところでZeno's paradoxesの一つに「ある時間の半分は、その半分の二倍に等しい」というものがある。時間のある区間を[瞬間などの]無限集合と考えれば、ある時間区間の半分はその時間区間の全体に等しくなるので、その場合、このZeno's paradoxは成り立つ。一見このような不合理と見えることを回避するために立てられたのが、Euclid's Elements の先の公理「全体は部分よりも大きい」なのである。そしてEuclid がElementsにおいてこのような公理を立てた一般的な意図は、議論をする者同士のうち、一方が他方に対し、議論の出発点において正しいものとして認めておいてもらうために立てたのである。事実、ギリシャ語の‘axioma’は元々要請・要求・要望(request)をいみしていたのである。


以上である。


伊東俊太郎先生、村田全先生はこのSzaboさんの主張を極めて注目すべき有力な見解とお考えのようである。そして村田全先生は2006年1月の段階で、Szabo説の有効性を基本的にはお認めのようである*5
一方、近年のEuclid's Elementsの研究においては、このSzabo説は却下されているように見える。
ついこの間出版された

  • エウクレイデス  『エウクレイデス全集 第1巻 原論 I-VI』、斎藤憲訳・解説、三浦伸夫解説、東京大学出版会、2008年

における斎藤憲先生による『原論』解説では、隅々まで見渡した訳ではないが、Szabo説にまったく触れられていないように見える。Szaboさんの名前もないようだし、Eleatic philosophyの話もまったく出てきていないように見える。


Szabo説が正しいのか否か、一介の門外漢がうんぬんできるものではないので、上記の事柄に特段コメントは付さないが、今回古代ギリシャ数学史の文献を二、三、ちらほら読んでみて強く感じるのは、この分野においては歴史的事実を立証する直接的な物的証拠が少なく、p だ、という主張にも一理あるように見えれば、p でない、という主張にも一理あるように見えることである。言い換えれば決定的な証拠がないせいで、どうとでも言えるといえば言えるし、何とも言えないといえば何とも言えないことばかりである。文献的な決定的証拠がなければむやみなことを言うべきではないというのは、学問的にもっともである。その一方で、決定的証拠がないことばかりなので、あまり厳格になると何も言うことができず、そうなると学問にならないようにも感じられる。
また、各論者が採るoptionも実に様々で、この組み合わせ次第により、色々と多様な立場が現われてくるので、微妙であり、目まぐるしくも感じられる。例えば、p, q, r, s, ... という各主張に対し、Aさんはp, ¬q, ¬r, s, ... , Bさんは¬p, ¬q, r, s, ... , Cさんはp, q, r, ¬s, ... を採り、そのいずれの立場にも決定的な文献上の証拠がないので、事を明白に白黒と決着をつけることができず、ちょっと途方に暮れてしまう。よく言えば色々と主張できる余地があって面白い、悪く言えば下手をするとguessworkとなりかねない。
いずれにせよ、古代ギリシャ数学史というのはバランス感覚が求められる研究分野のようである…。


例によってきちんと読み直していないので、誤字・脱字、誤解・無理解が散見されるかもしれない。前もってお詫び申し上げます。
おやすみなさい。

*1:Arpad Szabo, “Greek Dialectic and Euclid's Axiomatics”, in Imre Lakatos ed., Problems in the Philosophy of Mathematics: Proceedings of the International Colloquium in the Philosophy of Science, London, 1965, volume 1, North-Holland, Studies in Logic and the Foundations of Mathematics, 1967.

*2:例えば、伊東俊太郎、「純粋数学の起源 −ユークリッド幾何学原論』の成立に即して−」、『思想』、岩波書店、1967年3月、no. 513、村田全、『数学史散策』、ダイヤモンド社、1974年所収の「第5章 サボー革命(I)」、「第6章 サボー革命(II)」参照。

*3:Cf. Frege's Grundlagen, §§1-2.

*4:引用したギリシャ語のbreathingsは省いてある。

*5:ニコラ・ブルバキ、『ブルバキ数学史 下』、村田全、清水達雄、杉浦光夫訳、ちくま学芸文庫筑摩書房、2006年における村田先生の「訳者覚えがき」、339-40ページを参照。