Perkins: Why “On Denoting”? 要約


以下は次の論文の要約である。この論文はRussellのthe theory of descriptionsが、どのような理由・動機から書かれたのかを明らかにしようとしている。

  • Ray Perkins, Jr.  “Why “On Denoting”? ”, in: Russell: the Journal of Bertrand Russell Studies, vol. 27, issue 1, 2007, After “On Denoting”: Themes from Russell and Meinong, edited by Nicholas Griffin, Dale Jacquette and Kenneth Blackwell

ただし、以下の要約は、この論文に完全に忠実な要約とはなっていない。枝葉末節を切り落とし、その幹となる線を一本引いてみせれば、おおよそながらこのようになるであろう、というような要約である。しかもいくつか私自身が補足した事柄もある。
また単なる個人的な要約であるから、要約されている内容に対し、肯定も否定もしない。上記の論文を読んでみて、「なるほど」と思った点もあれば、「どうだろう?」と思った点もある。Perkinsさんの論述に対しても、Russell自身の見解に対しても、腑に落ちないこともある*1。しかし不勉強な私が、さしたる根拠もなく、ouiだのnonだの言うことは好ましいことではないので、そのような評価は差し控える。それでは要約文を掲げる。


Ray Perkins, Jr.  “Why “On Denoting”? ”


文は何かのついてのものである。

Russellは、文は何かについて(about)のものであるはずだ、と考えていたようである。

例:

    • The present Queen of England is beautiful.

この文の場合には、2008年3月1日現在、Elizabeth IIについての文であると言うことができる。


何かについての文の、その何かは、概念ではない。

またRussellは、何かについての文の、その何かは、通常の場合、概念ではないと考えていたようである。

例:

    • The present Queen of England is beautiful.

この文を述べている時、人は普通Elizabeth IIについて述べているのであって、Englandにおける現時点での女王であること、というような概念なりいみなりについて述べているのではない。


何かについての文の、その何かは、ある。

またRussellは、何かについての文の、その何かは、何にしろなければならないと考えていたようである。

例:

    • The present King of France does not exist.

この文はthe present King of Franceについて述べられているように思われる。そして2008年3月1日現在、この文は正しい。したがってthe present King of Franceは存在しない。
ところで何らかのものaについて、「aはない」と言うとする。そうすると「aはない」というようなaがある、ということである。一般的には、何がないとしても、そのないようなものがある、ということになる。つまり、ないものはある。しかしこれは不整合である。したがってないものも、何にしろなければならぬ。ないと見えて実はあるのだ、ということである*2
さて

    • The present King of France does not exist.

におけるthe present King of Franceは存在しないように見えるが、実はある。さもないと今先ほど述べたような不整合に陥るからである。このような見解をRussellは持っていたようである。


何かについての文の、その何かが一見ないように見える場合でも、なければならないとすると、その何かとはどのようにあるのか?: Meinongian Objects

Russellによると、文は何かについてのものでなければならず、その何かは概念ではあり得ず、またその何かがないように見える場合でも、あらねばならないとすると、その何かはどのようにあるというのだろうか?

例文を使おう。

    • The present King of France is bald.

Russellによると、この文はthe present King of Franceについてのものである。Franceにおける現時点での国王であること、というような概念について述べているのではない。そしてこのthe present King of Franceはまったく存在しないとすると、不整合に陥るので、何にしろなければならぬ。ではどのようにあると考えればよいのだろうか。
RussellはここでMeinong's theory of objectsを援用する。the present King of Franceという、何にしろなければならぬこのものは、Meinongの理論におけるunreal objectと考えれば、existentでもなければsubsistentでもないが、それでもあるものとして、objectと捉えることができる*3。そのようにRussellは考えたようである。


Meinong's Theory of Objectsを却下するRussellの理由: 矛盾と肥大化

RussellはMeinong's theory of objectsを援用することで、the present King of Franceという、何にしろなければならぬこのものを、Meinongの理論におけるunreal objectと捉え、‘The present King of France is bald.’というような文が、何についての文であるかを説明しようとした。しかし例えばthe round squareというようなものについての文ではMeinong's theory of objectsはうまくいかないとRussellは考える。なぜならthe round squareがあるとすると、矛盾が導かれるからである。そのことを例示しておく*4


(1) 円い四角は円い。
(2) 円い四角は四角い。
(3) 一般に、円いものはどれも四角くない。
(4) (1)と(3)により、円い四角は四角くない。
故に、
(5) (2)と(4)により、円い四角は四角く、かつ四角くない。

これは矛盾である。


もう一つ、RussellがMeinong's theory of objectsを却下する理由として、その理論が常識的な存在感覚に激しく背馳する存在論を要請するということである。Russellは彼のPrinciples of Mathematicsから“On Denoting”が書かれるまで、非常に肥大化した存在論を堅持していたものと、一般には考えられているかもしれない*5。しかしRussellは1902年半ばに書き終えられたPrinciples of Mathematicsから1905年7月終わり頃に書かれた“On Denoting”までの間、この肥大化した存在論を堅持すべきか否かで心中揺れていたようである。実際1903年の段階で、Meinongianな肥大化した存在論と、常識的な存在論とを行き来していると解すことのできる文を彼は書いているようである*6。このことはRussell自身が当時、肥大化した存在論に満足できていなかったことを表わしているものと思われる。恐らくRussellにすると、文は何かについてのものでなければならず、その何かはあらねばならないとすると、Meinongian objectsを多数に上って要請しなければならないが、それでは余りに常識的な存在感覚に背反してしまう、これはどうしたものか、と逡巡していたのではないかと思われる。


Frege's Sinn und Bedeutung Distinctionを却下するRussellの理由: 「文が何ものについての文でもなくなってしまう」

再説するならば、RussellはMeinong's theory of objectsを援用することで、the present King of Franceという、何にしろなければならぬこのものを、Meinongの理論におけるunreal objectと捉え、‘The present King of France is bald.’というような文が、何についての文であるかを説明しようとした。しかしMeinong's theory of objectsでは、矛盾が生じることと過大な存在論を担わなければならないので、結局Meinong's theory of objectsで‘The present King of France is bald.’というような文が、何についての文であるかを説明することは却下された。
これに対し、矛盾が生ぜず過大な存在論も背負い込まなくて済みそうな考えとしてRussellが有望視したのが、Frege's Sinn und Bedeutung Distinctionである。‘The present King of France is bald.’という文の‘The present King of France’は、BedeutungはないもののSinnを持っている。そもそもこの文全体はSinnを持っており、それ故‘The present King of France’も確かにSinnを持っている。しかしRussellは‘The present King of France’がBedeutungを持たないと、この句を含む文が何についての文であるのかわからなくなる、と考えていたようである。Frege's Sinn und Bedeutung Distinctionによれば、過大な存在論を背負わずに済む。また、unreal objectsを持ち出さなくとも文全体やその文の部分がいみを持っていることを説明できる。だがRussellによると、文は何かについて何かを述べるものなのに、SinnはあるもののBedeutungを欠いた文は何について述べているのかを説明できない、そのような文は何についての文でもなくなってしまう、と感じていたようである。
恐らくこの種の理由とその他の理由により*7、RussellはFrege's Sinn und Bedeutung Distinctionを却下したものと思われる。


Propositional Functionについてのものである文: The Genesis of “On Denoting”

さて、文

    • The present King of France is bald.

が、何についての文であるのかに関し、Meinong's theory of objectsとFrege's Sinn und Bedeutung Distinctionは、却下された。ここでRussellが考えついたのが彼のthe theory of descriptionsである。彼はこの理論で上記の文を、現代的な記法で書くならば、以下のように分析する。‘ F ’は「 は現在のフランス国王である」を、‘ G ’は「 は髪が薄い」を表わすものとする。

    • ∃χ(Fχ∧∀y(Fy → y = χ)∧Gχ).

Russellはこのように分析された文について、そのような文は Fχ∧∀y(Fy → y = χ)∧Gχ というようなpropositional functionについての文だと考える。したがって上記の文は表向きとは異なり、the present King of Franceというような、unreal objectを想定せずに済む。そのようなobjectはまったくないとしても一切問題は生じない。代わってその文が語っているのはpropositional functionなのである。そしてpropositional functionは性質または関係の一種と考えられる。性質や関係について語ることは問題ない。それは誰もが日々行っていることである。結局‘The present King of France is bald.’というような文が語っているのは、性質や関係としてのpropositional functionについてなのである。


こうしていわゆる空なdefinite descriptionを含む文は、性質や関係についての文なのであり、ありふれた性質や関係の存在を想定するだけで、過大な存在論を必要とせず、それでいていみを持った文が何についての文であるのかを説明できるとRussellは考えたのである*8


以上の文に対し、誤字・脱字・誤解・無理解があったとしたならば、申し訳なく思います。また勉強します。

*1:あるいは私の理解力不足でわかっていないだけなのかもしれない。

*2:これはQuineが‘Plato's beard’と名付けるthe old Platonic riddle of nonbeingの話である。もちろんQuineがRussellの後から名付けたのであろうが。Cf. W. V. Quine, “On What There Is”, in his From a Logical Point of View: 9 Logico-Philosophical Essays, second edition revised, 1980, pp. 1-2. This article was published in 1948.

*3:Perkins, p. 27.

*4:土屋純一、「記述理論の成立」、『金沢大学文学部論集 行動科学科篇』、2号、1982年、96ページ参照。

*5:例えば、飯田隆、『言語哲学大全 I 論理と言語』、勁草書房、1987年、152-156、181-187ページ。また、三浦俊彦、『ラッセルのパラドクス −世界を読み換える哲学−』、岩波新書岩波書店、2005年、110-111ページ。さらに、戸田山和久、「ラッセル」、飯田隆編、『哲学の歴史 第11巻 論理・数学・言語 【20世紀】』、中央公論新社、2007年、208-211ページ。

*6:Perkins, pp. 27-29.

*7:その他の理由としてはGray's Elegy argumentによるものが上げられる。松阪陽一、「フレーゲのGedankeとラッセルのProposition −“On Denoting”の意義について」、日本科学哲学会編、野本和幸責任編集、『分析哲学の誕生 フレーゲラッセル』、科学哲学の展開 1、勁草書房、2008年。初出、『科学哲学』、vol. 38、no. 2、2005年。この論文の第3節 「The Gray's Elegy Argument」以下を参照。また、非常に簡単な説明ならば、野本和幸、『現代の論理的意味論 フレーゲからクリプキまで』、岩波書店、1988年、80-81ページを参照。

*8:以上の通りならば、次に問題になるのはpropositional functionsの存在論的身分、認識論的身分となるだろう。つまりpropositional functionsとは正確に言って何なのか、それは本当にあるのか、あるとするならどのようにあるのか、またそれはどのように知られるのか、ということである。ちなみにRussell自身はpropositional functionを、見知りの対象(an object of acquaintance)と考えていたようである。