いかなる背景の下、J. Benthamは、いわゆる文脈原理を主張したのか?


W. V. Quineさんの有名な論文に次のものがあります。

  • W. V. Quine  “Five Milestones of Empiricism”, in his Theories and Things, The Belnap Press/Harvard University Press, 1981


ここではempiricismが進展してきた五つの転換点が素描されています。
第一の転換点は、empiricismがideasからwordsに考察の焦点をshiftさせた時、第二の転換点は、wordsからsentencesに焦点を移した時、第三はsentencesからsystems of sentencesにshiftした時、第四はthe analytic-synthetic distinctionを放棄した時、そして第五の転換点はnaturalismへ移行した時です。
このうちの第二の転換点であるwordsからsentencesへの焦点の移行時においては、大まかに言えば、ideasを表わしているwordsそれぞれを単独で問題にするのではなく、それぞれの語が含まれている文を考察の基本的対象と考えるようになったようです。その際、検討されるべき語がideaを表わしているにせよ、表わしていないにせよ、その語のいみはその語を含んだ文のいみから考察されねばならない、とされたようです。この第二の転換点を特徴付ける典型的な見解を、Quineさんの文からいくつか引用してみましょう。

The term, like the grammatical particles, is meaningful as a part of meaningful wholes. If every sentence in which we use a term can be paraphrased into a sentence that makes good sense, no more can be asked.*1

The primary vehicle of meaning is seen no longer as the word, but as the sentence. Terms, like grammatical particles, mean by contributing to the meaning of the sentenses that contain them.*2

[T]he meanings of words are abstractions from the truth conditions of sentences that contain them.*3


さて、上記の引用文に見られるような考察態度をもたらしたのは、QuineさんによるとJeremy Benthamだそうです*4
これら上記引用文中の見解は、大まかなところでは、一種の文脈原理のように見えます。つまり文脈原理のようなことをJ. Benthamさんは主張していた、ということになります*5
私は最初この話を読んだ時、「なぜまたBenthamが文脈原理?」と感じました。どういう話の脈絡からBenthamは文脈原理みたいなことを言い出すのか、よくわからず奇妙な気がしたのです。QuineさんはどのようないきさつでBenthamさんが文脈原理みたいなことを言い出したのか、あまり詳しくは触れておられません。


なお、「Benthamが文脈原理」という話は、今まで述べてきたQuineさんの“Five Milestones of Empiricism”以外でも、彼のさらに有名な

  • W. V. Quine  “Two Dogmas of Empiricism”, in his From a Logical Point of View: 9 Logico-philosohical Essays, Second Edition Revised, Harvard University Press, 1980

のp. 39, 42でも見られます。やはりこちらの論文を読んだ時も、「なぜまたBenthamが文脈原理?」と感じました*6。この論文でもBenthamさんが文脈原理みたいなことを言い出したいきさつに触れられていません。


そして結局不勉強なため、この疑問を解消するために調べてみたりすることもなく、怠惰をむさぼっていた訳ですが、先日生協学食でお昼ご飯を食べながら、以下の文章を読んでいると、「なぜまたBenthamが文脈原理?」の疑問が、大体ながら、いきなり解けました。

  • 長谷部恭男  「謎はない 憲法のimagination 13」、『UP』、2008年4月号

この文章では憲法学上の基本的概念にまつわる逆説が、実のところ逆説ではないことが語られています*7。そして特にGeorg Jellinekの法主体(Rechtssubjekt)という概念が取り上げられています。
以下、長谷部先生の文を引用してみよう*8

ところで、法による制約を受ける存在である以上は、国家も個人と同様、法主体 Rechtssubjekt として、したがって一種の法人として把握される必要がある。それなりに、まっとうな議論である。
 ただ、難しいのはこれからで、イェリネックは、ここでいう法主体とは実体 Substanz ではなく[…] 関係 Relation であるという[…]。「法人は法関係である」という言明は、それだけ読んでも何をいっているのかよく分からないが、筆者の理解するところでは、次のような事柄が示されているようである。つまり、株式会社や国家のような「法人」とは何かを理解するには、そこに解明の対象となる何らかの実体があると想定してはならない[…]。法人は、法秩序の中で複数の法主体が関係しあう網の目の中に位置づけて、はじめてその内容を理解することができる。
 たとえば、「法人 A の取締役 B が所定の手続を踏んだ上で他の法主体 C とこれこれの契約を締結すれば、当該契約の効果は A に帰属する」という法命題の中に位置づけたとき、はじめて法人という概念の役割が判明する。国家の権限は法によって制約されているというのも同じことで、具体的個人による法的行為の効果が国家に帰属するための条件を述べる一連の言明の中に位置づけたとき、はじめて、法人たる国家の権限の内容が解明できる。そうした具体の関係性の文脈から切り離して、「犬」や「机」等、現実世界に対応物が実在するものと同様に、「国家とは何か」「法人とは何か」という問題を立てることは生産的とはいえず、いたずらに謎を呼び起こすだけである[…]。
 これは、イェリネックより約一世紀前にジェレミーベンサムが指摘したことがら、つまり、権利、義務など法律学独特の諸概念は、個別の概念としてその意味を理解することは困難であって、そうした概念を使用する言明の中に位置づけてはじめて意味内容を理解することができるというのとほぼ同様の趣旨の話である。


そもそもJ. Benthamは、法学者、法哲学者、政治哲学者と、現代では分類されているものと思われる。つまり、法律について考えていた人だ、という訳である。そのような人であるから、権利や義務について考えていたとしても不思議ではない。そして権利や義務などの法律概念を正しく詳しく理解する術はいかなるものか、という疑問を追究していたとしても、やはり不思議ではない。彼によるとそれらの法律概念はそれらの法律用語が使われている文脈を無視しては理解できない、と考えたのであろう。法律学用語は、それが使われる文のいみが何であるかを理解せずして、理解できるものではない、ということなのであろう。確かに私自身もかつて「権利」という言葉のいみを理解するのに、その言葉がどのように使われているのかを考察してみたことがある。恐らく同種のことを試みたことのある人は、他にも多数おられることであろう。J. Benthamさんも似たようなことを考えていた訳だ。これが彼の文脈原理創案のいきさつなのであろう。長谷部先生の文にはBenthamの文献の典拠先が記されていないが、先生のお書きになられている通りなら、「なるほど、そういう訳でBenthamに文脈原理なのか」と合点がいく次第である。これでおおよそながら、いかなる背景の下、J. Benthamが、いわゆる文脈原理を主張したのか、わかりました。


以上の文は読み返しておらす、校正を経ていない。誤字・脱字、誤りがあればお詫び致します。
また、Bentham読みの方々にとっては、上記の文はまったく既知のことだったかもしれません。
Benthamについてはよく知らないのでまた勉強します。

おやすみなさい。

*1:Quine, pp. 68-69.

*2:Ibid., p. 69.

*3:Ibid.

*4:Ibid., pp. 68-69.

*5:厳密に言えば、ここでの文脈原理なるものは、Fregeの文脈原理とは異なるであろう。どのように異なるかを確認することは興味深いが、話が脱線して行くので、その点についてはここでは触れない。

*6:正確に言うと、私は先にこちらのTwo Dogmas論文を読んで、それからFive Milestones論文を読んでいたはずである。

*7:ここで言う、憲法学上の基本的概念にまつわる逆説とは、「主権は絶対である」というような時の主権という憲法学上の概念は、あたかも神のような絶対的力能を持っているかのようであるが、そうするだとするならば、全能の神は神にも持ち上げることのできない石を創造できるか、というparadoxと同種の逆説が、主権概念にも生れてしまうのではないか、というものである。しかしこの逆説は解くことができるというのが長谷部先生のお考えで、そのような訳で「謎はない」というtitleとなっているようです。

*8:長谷部、47-48ページ。