Did Frege Regard Hume's Principle as a Definition in his Grundgesetze, II ? (一部再録)

改めて言うまでもないが、以下に記すことは別段目新しいことではないし、何か深くて透徹した哲学的洞察が示されているものでもない。単なるメモである。


FregeのHume's Principleを用いて、この原理を基数の定義と見なすことにより、第二階の論理を使うことを通してFregeのLogicist Programmeを再生しようという試みがある。Hume's Principleは、例えば以下のように書くことができるだろう(普遍量化子は省く)。

    • N(F) = N(G) ⇔ F 〜 G.


これを日本語で表現すれば、次のように言うことができるだろう。「概念Fの数が概念Gの数と同じであるのは、FとGに一対一対応(全単射写像)がある場合、かつその場合に限る。」 Hume's Principleを基数の定義とするならば、‘N’あるいは‘N( )’つまり「 の数」が、文脈的にまたはimplicitに定義されていると考えられる。


さて、FregeはHume's Principleを、1903年Grundgesetze 第2巻において、定義と見なし得ただろうか? 少なくともGrundlagenでは、Hume's Principleを定義と見なさなかったのは確かである。というのもよく知られているように、GrundlagenにおいてHume's Principleを定義と見なす試みは、Caesar Problemによって阻止されたからである。
ではもしも仮にCaesar Problemが克服されたとして、そうしたならばFregeはHume's Principleを定義と見なすようになっただろうか? まずそう見なすことはなかっただろうと言える。なぜなら、少なくとも1903年Grundgesetze 第2巻においては、仮にCaesar Problemが克服されていたとしても、FregeはHume's Principleを定義とは見なさなかったはずであるという、textual evidenceが存在するからである。これは普通にGrundgesetzeの第2巻を読んでいればすぐに気が付くことである。このことを以下に見てみよう。


まず、FregeはGrundgesetze 第2巻で、いわゆる彼の第5公理を値域の定義とは見なし得ないと述べている。第5公理は次のように書けるだろう。上記のHume's Principleと同様、いくらか現代風に書き直してみる。

    • έΦ(ε) = άΨ(α) ⇔ ∀χ (Φ(χ) ⇔ Ψ(χ)).


この式を自然言語で述べてみたならば、次のようになるとFregeは言っている。この式の右辺から左辺へと述べ直してみる。ドイツ語原文と和訳を掲げる*1

[W]enn eine Function (erster Stufe mit einem Argumente) und eine zweite Function so beschaffen sind, dass beide für dasselbe Argument immer denselben Werth haben, so kann man dafür sagen: der Werthverlauf der ersten Function ist derselbe wie der der zweiten*2.

もしある関数(第一階単項関数)〔Φ(χ)〕とある第二の[同様の] 関数〔Ψ(χ)〕とは、両者が同じ項〔χ〕に対していつも同一の値を持つというありようであれば、そういう代りに第一の関数の値域〔έΦ(ε)〕は第二の関数の値域〔άΨ(α)〕と同一であると言うことができる*3


Fregeはこの第5公理を、その右辺を左辺に言い換えることで、その左辺の値域記号を定義する定義式とは見なし得ないと、今の引用文の少し後で述べている。引用してみよう*4

Diese Umsetzung ist nicht als Definition zu betrachten; weder wird dadurch das Wort 》derselbe《 oder das Gleichheitszeichen, noch das Wort 》Werthverlauf《 oder eine Zeichenverbindung wie 》έΦ(ε)《, noch beides gleichzeitig erklärt. Denn der Satz


  》Der Werthverlauf der ersten Function ist derselbe wie der der zweiten《


ist zusammengesetzt und enthält als Bestandtheil das Wort 》derselbe《, das als vollkommen bekannt anzusehen ist. Ebenso ist das Zeichen 》έΦ(ε) = άΨ(α)《 zusammengesetzt und enthält als Bestandtheil das schon bekannte Gleichheitszeichen. Wenn wir also unsere Festsetzung in I, §3 als Definition auffassen wollten, so wäre darin allerdings gegen unsern zweiten Grundsatz des Definirens gefehlt worden.

この変換(Umsetzung)は定義と見なされるべきではない。これによっては、「同じ」という語、あるいは相等性記号も、「値域」ないし 》έΦ(ε)《 のような記号結合も、両者が同時に定義されているわけではないのである。というのは、次の命題*5


  「第一の関数の値域は第二の関数の値域と同じである」。


は合成されており、構成部分として完全に既知と見なされねばならない語「同じである」を含んでいるからである。記号 》έΦ(ε) = άΨ(α)《 も同じく合成的であり、構成部分として既知の相等性記号を含んでいる。それ故、もし我々が第I巻の第3節における約定 [第5公理に当たる] を定義と解そうとすれば、これは勿論定義の第二原則に対する違反であろう。

以上のように、第5公理をその右辺による左辺の値域記号の定義とする定義式とは見なし得ないとFregeは述べており、その理由は第5公理の左辺は複合的な表現であって単純な表現でなく、しかも既知である相等性記号が含まれていて、これは彼の言う定義の第二原則に対する違反であるからだ、とのことである。つまり定義式における被定義項は単純な言語表現でなければならず、かつ既知の記号が含まれていてはならないというのである。具体的にいって彼の言う定義の第二原則とは何であろうか? 確認してみよう。


件の定義の第二原則が述べられているのは、Grundgesetze 第2巻の第66節である。ここにおいて第二原則は「被定義表現の単純性の原則 (Grundsatz der Einfachheit des erklärten Ausdrucks)」と呼ばれている。つまり被定義項をなす言語表現は、単純でなければならない、複合的表現であってはならない、ということである。ただしこのことは、この第66節では、以下に説明する二つの事柄からの帰結として主張されている。


まず一つ目の事柄。
例えば

    • P(χ) = 0


という、実数係数を持ち、解が実数の範囲に限られているある方程式がある時、この方程式が可解であるか、および可解である場合、その解は一意的に定まるか、P(χ)の次数によっては一般にはわからない。この種のことをFregeは述べている。このことを比喩として、Fregeはある言語表現の一部分のBedeutungが、その言語表現の全体のBedeutungから一意に確定するとは、一般には言えないと考える。こうして第5公理

    • έΦ(ε) = άΨ(α) ⇔ ∀χ (Φ(χ) ⇔ Ψ(χ))


の、被定義項と目された左辺の値域記号のBedeutungは、この第5公理全体のBedeutungから一意に確定するとは言えないとFregeは考える。


次に二つめの事柄。
既に一度定義され、もはや既知となった言語表現を、改めて再び定義し直すことは、その言語表現の一度目の定義と、二度目以降の定義とが、整合的かどうかを確かめる課題を生み出すことになり、このことの無矛盾性を証明せねばならなくなる。あるいは既に一度定義され、既知となった言語表現を部分に含む、いわばさらに大きな言語表現全体を定義することは、この部分的言語表現の定義と、全体的言語表現の定義とが整合的かどうかを明らかにする必要が生じ、両定義が無矛盾であることを証明せねばならなくなる。
例を使って言い直すと、一度定義され、既知となった言語表現を‘a’とし、この‘a’を含む、さらに大きな言語表現を‘P(a)’とするならば、‘a’の定義と‘P(a)’の定義の、両定義に対する無矛盾性を証明せねばならないということである。大略このようにFregeは考えているようである。
とりわけ同じ言語表現がただの二度のみならず、四回、五回、さらには十二回、九十八回、… 、と、繰り返し繰り返し定義し直されたならば、たとえそれほどまでには実際に定義し直されることはなかろうとしても、それらすべての諸定義がみな無矛盾であることを証明することははなはだ困難となろう。何か体系的で構造的な反復的定義方法を考案しない限り、脈絡を欠いた定義の繰り返しでは、それらの繰り返された諸定義の無矛盾性を証明することは、事実上不可能であろう。


簡単にまとめるならば、

(1) 全体のBedeutungから部分のBedeutungを一意的に定めるような定義は、定義とはならないのであり、
(2) 同じ言語表現が複数回定義されることは、現実には矛盾を避け得ないので、定義として無効である、

ということである。


以上の(1), (2)という、定義の不適格条件を避けるために取られるべきは、被定義項をなす言語表現を、未知の、かつ単純な言語表現に限る、ということである。


振り返ってみるに、第5公理を定義式と考えた場合、その被定義項と目された左辺の値域記号は、左辺全体あるいは、値域記号を除く第5公理全体から、その部分である値域記号のBedeutungを定める定義という様を呈している。これは上記の定義に対する不適格条件(1)に抵触する。
また、第5公理の左辺においては既知の相等性記号「=」が現れており、この記号を含めた被定義項が、右辺の定義項によって定義されているという様を呈している。これは上記の定義に対する不適格条件(2)に抵触する。
総じて、第5公理の左辺は、既知の記号を含んだ、しかも複合的表現であって、未知の単純な言語表現でない。したがって第5公理を定義式と見なすことは、なし得ないのである。
おおよそ以上のようにしてFregeは第5公理を定義式と見なすことを否定している。


なおちなみに先に言及したGrundgesetze 第2巻第66節の次の節、第67節を読むならば、第5公理はFregeの言う定義の第一原則にも抵触しているとわかる。定義の第一原則とは、概念や関数の定義はすべてが一度になされねばならず、概念について言うならば、それは鋭利に境界付けられていなければならないとする原則である。この第67節でFregeは第5公理が定義の第一原則に違反していると明示的には述べていない。しかし第5公理も第一原則に違反していることは、第67節の論旨から明らかである。したがって第5公理が定義式になっていない根拠として、定義の第二原則違反を上げるのみならず、定義の第一原則違反についても取り上げて、どのように第一原則違反となっているか、説明を加えるべきところだが、さしあたり第一原則にしろ第二原則にしろ、どちらか一方に抵触するだけで、第5公理は定義式と見なし得なくなるのだから、ここでは第一原則に対し、いかにして第5公理が抵触するのかについては、解説しない。


さて、Hume's Principleを思い出してみよう。

    • N(F) = N(G) ⇔ F 〜 G.


Hume's Principleは第5公理と同種の形式を持った式である。この左辺「N(F) = N(G)」は、単純な言語表現ではなく、Bedeutungを持ち適格に形成された(well-formed)部分表現を含む複合的言語表現である。Hume's Principleを定義式と解し、左辺の部分表現「N( )」を被定義項とする場合、この部分表現のBedeutungが左辺全体なりHume's Principle全体なりのBedeutungから定まるものと想定されている。
また、この左辺は未知ではない、既によく知られた相等性記号「=」を含んでいる。
以上から、Hume's Principleを定義式と解するならば、上記の定義に対する不適格条件(1)と(2)に抵触してしまう。ゆえにHume's Principleは定義式とは見なし得ない。Fregeが考えるように、第5公理を定義式と見なし得ないならば、そう見なし得ないのと全く同じ理由でHume's Principleも定義式とは見なし得ないとの結論が、極自然に帰結することは明らかと思われる。


私は最初に次のように述べた。FregeのHume's Principleを用いて、この原理を基数の定義と見なすことにより、第二階の論理を使うことを通してFregeのLogicist Programmeを再生しようとする試みがある。この試みは一般に‘Neo-Fregeanism’とか‘Neo-Logicism’などと呼ばれている。しかし、今上で簡略に述べてきたことからわかるのは、‘Neo-Fregeanism’や‘Neo-Logicism’と呼ばれる試みで、Hume's Principleを基数の定義と見なした上でFrege's Logicist Programmeを復活させようとするならば、それはFregeの想定した試みとはひどく異なるものとなろうということである*6。そのようないみで、‘Neo-Fregeanism’や‘Neo-Logicism’と呼ばれる試みは、そう呼ばれるよりも、確かに‘Abstractionism’と呼ばれるべきであろう*7


FregeにとってHume's Principleが基数の定義でないのは、Grundgesetze 第2巻においては、Caesar Problemというような大きな問題からではなく、単に定義式としては不適格な形式を持っているという簡明な理由により、帰結する事柄なのである*8


以上の記述に関して、誤字・脱字、誤解や無理解がありましたらお詫び致します。

*1:和訳では「[ ]」は翻訳者の補足、「〔 〕」は引用者の補足である。

*2:G. Frege, Grundgesetze der Arithmetik I/II, Neuauflage mit Corrigenda von Christian Thiel, Reihe: OLMS Paperbacks, Bd. 32, Hildesheim, Olms, 1998, §146.

*3:勁草書房版『基本法則』、第146節、378ページ。

*4:Ebd. ドイツ語原文中における逆向きのguillemetsのうち、値域記号や値域同士の相等性を表わした式を括ったguillemets以外は、実際のドイツ語原文中ではGerman double quotesが使われている。なお和訳引用文中の「[ ]」は引用者の補足である。またFregeによって付された註は省いておく。

*5:この命題は、indentされてdisplayされているのに、わざわざ引用符で括られており、現代の通常の引用法によると間違いであるが、誤解されることはまずないであろうから、引用符を付けたままで表記しておく。

*6:この種のことは既に色々言われている。例えば野本先生の次の論文を参照。Kazuyuki Nomoto, “Why, in 1902, wasn't Frege prepared to accept Hume's Principle as the Primitive Law for his Logicist Program?”, in: Annals of the Japan Association for Philosophy of Science, vol. 9, no. 5, 2000.

*7:‘Abstractionism’と呼ばれるべきだとは、これも既に主張されていることである。次を参照。Roy T. Cook, “Introduction”, in his ed., The Arché Papers on the Mathematics of Abstraction, Springer, The Western Ontario Series in Philosophy of Science, vol. 71, 2008.

*8:正直に言ってこのような結論を述べるのに、これほどまで長々と説明する必要はなかったかもしれない。ただ、一応念のために細々と書き出してみた次第である。なお、FregeにとってGrundgesetze 第2巻においてHume's Principleが基数の定義でないのは、その原理が定義式の形としては不適格だからだとしても、そのことだけでHume's Principleを定義と見なし得ない原因として、Caesar Problemは関係がない、とは即断できないだろう。ここまで説明してきて、このように言うのは何だけど…。