Kaplan vs. Kripke

次の文献を拾い読みする。

  • Morton Keller and Phyllis Keller  Making Harvard Modern: The Rise of America's University, Updated ed., Oxford University Press, 2007


この本をぱらぱらめくると、見覚えのある顔が写った写真が目に入ってくる。
よくみるとQuineさんである。という訳で、Quineさんが出てくるページを拾い読む。


QuineさんがHarvardのPhilosophy Departmentに教師として入ってから、Harvardの哲学研究・教育の威信は大幅に高まったが、analytic philosophyの教授陣とtraditionalなphilosophyの教授陣との採用のバランスを取るのに苦労したというような話が出てくる。


そして1970年以降になるとstudent powerが大きくなって学生の不満も多くなり、Philosophy Departmentの力も落ちてくる。
それは教員採用の場面で露呈したらしい。そのような場面の話を伝えるのが以下の一節である*1

When it came to new Philosophy appointments, the meritocratic standard of the past −the best minds in narrowly defined bodies of knowledge− continued to prevail. But the department found its ability to beckon, and get, much reduced. In 1971-72 a choice had to be made between logicians David Kaplan of UCLA and Saul Kripke of Rockefeller University. If the issue was mind over body −spectral smarts over defined diligence− Kripke was the winner. But a department had to be lived in, and Kripke (who, some averred, had descended to earth from the planet Kripke) might be a handful. The department chose Kaplan[…]; Kaplan stayed where he was. A year later Kripke was approached; he, too, said no.

大まかに訳し下すと次のような感じになるだろうか。


新に哲学の教員を採用する段になった時も、過去のエリート主義的な基準が引き続き生きていた。特定の学問分野における最高の知性を採用すること、である。しかしHarvardの哲学部は、そのような人材を引き寄せ獲得する力を大きく失っていた。1971年から72年にかけて哲学部はUCLAのDavid KaplanとRockefeller Univ. のSaul Kripkeという論理学者二人のうち一人を選ぶ必要に迫られた。採用基準のポイントが、身体よりも心が優っていることであったならば、つまり特定分野に対する体力任せのガリ勉よりも、お化けのように万遍なく頭が切れることに採用基準があったならば、Kripkeが勝者であった。だが、学部というものは家庭のようにくつろげてまとまりがあるものでなければならず、(Kripkeは、Kripke星からやってきたと言う者もいたことから) Kripkeは手におえないと思われた。それで哲学部はKaplanを選んだ。しかしKaplanはUCLAにとどまった。一年後、Kripkeに声をかけたが彼もNoだと断って来た。


HarvardのPhilosophy Departmentの栄光は1950年代から60年代にあったということでしょうか。
おやすみなさい。

*1:Kellers, pp. 423-4.