• 土屋俊  『なぜ言語があるのか』、土屋俊 言語・哲学コレクション 第 4 巻、くろしお出版、2009年


Pragmatics, Wittgenstein, Frege などについて論じられた文献が多数収録されています。


私自身にとって、土屋先生の文章の魅力はどこにあるのだろうかと考えてみると、少なくとも二点、指摘できるのではないかと感じます。


一つは、先生の文には警世の弁がよく見られるということが上げられると思います。かなり辛口の批判が目に付きます。上記の本に収録されている論考で、この点が典型的なのは

  • 「日本における分析哲学の現状、終焉あるいは将来」

であろうと思います。私も最初、雑誌『理想』に載っているこの文の冒頭を読んだ時には、「きついなぁ、そうかもしれないけれど、きついなぁ」と感じたことを思い出します。かなりきついことを言われているのですが、それでいて、はげまされているような感じもして、何だか襟を正したくなる気がします。


私にとって、先生の文章のもう一つの魅力は、「王様は裸だ」と宣言してみせる常識と勇気を感じさせる文言にあります。言い換えると、いわゆるパラダイムのコアは砂上にあり、「そんなものはもっとまともなものに挿げ替えればよろしい」と、大胆にパラダイム・シフトを敢行される様に魅力があると思います。上記のご高著で、このような魅力をたたえた文章が読めるのは、例えば

  • 「ゲームの一手としての語」

などであろうと考えられます。ここでは一つには、言葉のいみの担い手として、通常は文という単位が語という単位よりも優先されると思われているのに対し、語の方にこそ、いみの基本的単位の優先権があるのだ、との記述が見られます。文優先のパラダイムから語優先のパラダイムへと、anachronism に陥らず、跳躍しようとされているようで、読む方も緊張感と躍動感を抱きます。


さて、以下も本日購入致しました。

  • George Boolos  The Unprovability of Consistency: An Essay in Modal Logic, Cambridge University Press, 2009 (First Published in 1979)
  • Ditto    The Logic of Provability, Cambridge University Press, 1995 (First Published in 1994).


続いて、次の2本は journal

  • Synthese, Special Issue: The Bad Company Problem, vol. 170, no. 3, 2009

に掲載されている論考です。こちらも入手。

  • Øystein Linnebo  “Bad Company Tamed”
  • Matti Eklund  “Bad Company and Neo-Fregean Philosophy”

この号は全部で8本論文が載っています。まだ入手していない残りの3本も、そのうちいただきたく思っています。


さらに次も入手。

  • Graham Priest  “The Structure of the Paradoxes of Self-Reference,” in: Mind, vol. 103, no. 409, 1994

Russell が様々な paradoxes をひとまとめにして論じたことに対し、Ramsey がそれらの paradoxes を二つのグループに分けるべきだと主張したことはよく知られていると思います。Priest さんの論文では、Russell を擁護して Ramsey の方が間違っていると主張されています。
なお、Priest さんによると、Ramsey による件の二分割説は既に Peano によってなされていたらしいです。これは知らなかった。1906年のことのようです。Priest 論文冒頭に極々簡単に記されています。