Why Did Reichenbach Go to Istanbul?

私は Reichenbach さんについてはよく存じておりません。正直に言いまして、『科学哲学の形成』を拾い読みした程度です。
そんな私でも Reichenbach さんが Istanbul に一時住んでおられたことは知っておりました。
そしてそれと同時に「なぜまた Istanbul なんだろう?」と思っておりました。
これは多分私だけの疑問ではないと思います*1
このような疑問は、まったく哲学の本質には関係しません。取るに足りないことだと思います。ただ、次のような論文があったので

  • Gürol Irzık  “Hans Reichenbach in Istanbul,” forthcoming in Synthese, Special Issue on Hans Reichenbach, Istanbul, and Experience and Prediction

何気なく読んでみると、上記の疑問が氷解しましたので、その解答を以下に記してみます。


まず、トルコの歴史を簡略におさらいします。

1923年10月29日、トルコ共和国建国。オスマン帝国が終わる。第一次大戦ではドイツに与し、敗戦国となり辛酸をなめる。第二次大戦では中立の立場を取り、大戦末にドイツと日本に形だけの宣戦布告をする。トルコ共和国は Kemal Atatürk によって建国される。この時に大規模な近代化を推し進め、教育改革も行う。当時トルコには大学はなかった。しかし Istanbul に高等教育機関がひとつあり、これが後に Istanbul University となる。それは 1933年8月のことである。

ここまでは、一般的な事柄です。ここから後は、上記の Irzık 論文からの要約です。この論文は proof の段階なので nombre がありません。そこで、典拠先の明記を section number などで行います。


トルコ政府は近代化政策推進の過程で、教育改革のため、諸外国の学者にトルコを訪問してもらい、教育改革のアドバイスを求めていた。例えば John Dewey, Richard Courant, Max Born などが訪れて、助言している。

Switzerland の Zürich に、医学を勉強した人物がいて、彼は移住しようとしているドイツの研究者に、国外での教職を斡旋する活動を行っていた。Philipp Schwartz というこの人は、トルコ政府の文部大臣と接触して、ドイツの研究者を雇うよう掛け合った。これがうまくいき、30名の雇用を保証してもらった。この30名の中に Hans Reichenbach が含まれていた。Reichenbach は Geneva で1933年10月4日、契約書にサインした。当月の15日から雇用の効力が発生する内容だった。そしてその10月中に Reichenbach は妻と子供二人を伴って Istanbul に到着した。

この時、誰がトルコ政府に雇用されるのかという、ドイツの研究者の選別基準は、その研究者が既に立派な一人前であること(accomplished)であった。Reichenbach は当然この基準を満たしていた。またこれとは別に彼が雇用されるのに有利であった点は、西欧的な近代化を急速に推し進めていたトルコ政府、Kemal Atatürk にとって、Reichenbach が positivistic な philosopher の代表格であったことである。日本においてもそうであったように、トルコにおいても近代化とは、科学技術の導入のことであり、このためには positivism の ideology が広く行き渡ることが望ましかったのである。ちなみに今でもトルコのすべての学校には「人生における真の道は、実証科学/自然科学である(The true path in life is positive/natural science)」という Atatüruk の言葉が掲げられているそうである*2


さて、「なぜまた Istanbul なんだろう?」という疑問の解答を記します。

Reichenbach は、Hitler が権力を握った際、Jewish でかつ socialist だということで、the Univ. of Berlin を首になります*3。国外に移住するに際し、実は Oxford からも offer がありました。しかし、Istanbul Univ. を取りました。理由が二つあります。

一つは Istanbul の方が待遇がよかったからです。Oxford は一年間の契約であったのに対し、Istanbul は五年契約で、更新可能でした。給与面でもよいものでした。彼は妻子がいたので一年契約よりも、より安定した五年契約の給与のよい方を選んだようです。しかもトルコは物価が安かったので、これも利点でした。

もう一つは彼が socialist だったことと関係があります。トルコは教育改革の最中でした。Istanbul Univ. はできたてほやほやでした。ここで Reichenbach は新しい大学のためにお金や施設をかなり自由に使えたようです。自分の理想とするような大学を一から自分で作ることができるということが、彼にとっては大きな魅力でした。社会改革の一環として、大学建設を考えていたようです。自分の研究だけしていればよいという人でなければ、これは確かに魅力的です。

以上の二つが Why Istanbul ? の解答です*4


さて、Istanbul Univ. に移り、初めの一年目ぐらいまでは、順風でした。歓迎されているし、学生は何も知らないけれど、積極的で intelligent である。しかし、やがて状況は思ったほどではないということを知ることになります。学生のレベルは低すぎる、大学当局は科学的な教育というものをわかっていない、国は貧しすぎて近代的で科学的な大学を維持できないでいる、近代化は上からのもので、うまく機能していない、教育内容を落として教えなければいけないので、高校のような状態になっている、興味あることを教えられない、私は学問上、完全に孤立してしまっている、Oxford の offer を受けておけばよかった、America に行った方がよいかもしれない。そしてトルコでの三年目、1936年に Reichenbach は契約を解除してくれと文部大臣に頼みますが、受け入れてもらえませんでした。

1930年代におけるトルコでの近代化は、上からの近代化・西欧化でした。トルコは近代化したい一方で、伝統を捨て去ることによる identity crisis を怖れました。西欧に対して愛憎相半ばするものがありました。Reichenbach の科学哲学はトルコの大部分の人にとってよそよそしいものでした。当時の当地における大抵の哲学者はイスラム哲学をするか、高等教育機関時代に支配的であった Bergson などのフランス思想をしていました。近代化という社会改革の荒波の中では、帰納法がどうであるだとか、確率の哲学的解釈がどうであるだとかの科学哲学などよりも、より社会的、政治的、歴史的、あるいは形而上学的なものを、人々は求めていました。

第二次大戦が近づくと、Nazi は国外に移ったドイツの研究者に各々が Aryan であることの証明を求めてきました。将来に対する不穏な空気がはっきりと漂い始めます。Reichenbach の家族は、トルコにいてもドイツでの生活様式を守っていました。契約が終わる頃にトルコ政府は Reichenbach にトルコ市民になるかと確認してきましたが、トルコに骨を埋めるつもりはなかったので、断りました。そして Charles Morris の尽力により、UCLA に職を得て、1938年夏にトルコを後にしました*5


以上で Irzık 論文の一部を要約し終えます。「なぜまた Istanbul なんだろう?」という疑問に導かれながら読んでいて、途中で中だるみを感じたこともありましたが、最後に読みつつ思ったことを三つだけ、以下に簡単に記します。


(1) お雇い外国人

上記の話は、Reichenbach の話ですが、これはトルコの近代化の歴史についての話であり、お気付きのように、日本の明治維新後における近代化に似ています。長期に渡るオスマン・トルコ帝国の崩壊は、江戸幕府の崩壊であり、トルコ共和国の建国は明治政府の設立に当たります。当時のトルコにおける近代化が明治時代における日本の文明開化・欧化に当たるのは言うまでもありません。それは共に上からの近代化であり、科学技術の導入が重要であって、その過程で様々なひずみが生じたのは両国とも同じです。トルコにおける Reichenbach の雇用は、日本におけるお雇い外国人の受け入れに当たります。Atatürk が positivism を標榜し、Reichenbach も同様であったことは、明治の初め頃は Mill や Comte の哲学が日本では注目されていたことに対応しています。そして Reichenbach の positivistic な哲学が、トルコでは社会的政治的状況により成功を収めなかったことは、日本では、Mill, Comte が倒れてドイツ観念論が官学化したこと、およびやがて Marxism が席巻することに対応しています。ここでは単なる Reichenbach の個人史にとどまらない歴史的文脈というものが浮かび上がってきて、Irzık 論文を読みながら、「なぜまた Istanbul なんだろう?」という問いを越えて、思いもかけず大きな歴史的問題に触れたような気がしました。


(2) Lvov-Warsaw School

トルコの近代化と日本の近代化という問題の他に、この論文を読んでいて感じたのは、なぜ Twardowski は Lvov で成功し、Lvov-Warsaw School を生み出すことができて、Reichenbach はトルコでそのような一大グループ、ムーブメントを生み出すことができなかったのか、ということです。これは今の私にはわかりません。ただ疑問に感じただけで、答えが出てきません。ところで日本に Twardowski や Reichenbach が来ていたら、どうなっていたでしょうか。


(3) Carnap

Carnap と Reichenbach の類似点が気にかかりました。もちろん両人が似ていても別に不思議ではありません。Heidegger と Reichenbach が似ていたら驚きますが、Carnap とならまったく驚きません。しかしそれにしても似ている点を、件の論文を読んでいて感じたので、それを二つだけ記すと、(a) Carnap が socialist, Marxist であることは知っていましたが、Reichenbach についても socialist であるということは、知りませんでした。共に社会改革を志向していたというのは興味深いです。(b) 件の論文に Reichenbach が America に移住したい理由として、自分の scientific philosophy は Europe よりも America でこそ歓迎されるはずだと感じる旨を述べていますが、それというのも Europe では‘it is still the mystical-metaphysical speculations that are seen as true philosophy’だと 1935年の書簡で記しています*6。これなどは、Carnap が発したとしてもまったく違和感のないセリフです。二人はまったく同じことを感じていたと言ってよいと思います。ちょっとこれは私には印象的でした。この点については2008年3月17日の日記を参照していただければと思います。


以上で終ります。
夜中にだらだらと書き下し、よく読み返していないので、誤解・無理解、誤字・脱字等が含まれていると思います。
特に最後に記した個人的印象の三項目は、かなり大まかなものですので、不備があると思います。前もってお詫び致します。
おやすみなさい。

*1:トルコの方からすれば、別に不思議なことではないかもしれません。逆にトルコの人からすれば、例えば「なぜまた Löwith は極東の島国まで行ったんだ?」ということになるかもしれません。

*2:トルコ政府の助言要請の話から Atatüruk の言葉についてまでは、‘§1 The University Reform of 1933 and the Road to Istanbul’ を参照。

*3:Clark Glymour and Frederick Eberhardt, “Hans Reichenbach,” in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2008, Section 1, Life.

*4:以上の解答については ‘§2 Reichenbach's reasons for choosing Istanbul University’ を参照。

*5:Istanbul に移った後の、順境から逆境への状況変化、および UCLA への転進に関する以上の記述については、‘§6 Reichenbach's disillusionment with Istanbul University’ を参照。なお、Istanbul 時代の Reichenbach は初めて英語の著作をものするなど、著述面では生産的であったようです。この点については ‘§5 Reichenbach's works between 1933 and 1938’を参照。

*6:Note 42 の付された引用文より。