Stout's Letter to Russell on Denoting

上記項目で取り上げた次の論文には、

  • Alasdair Urquhart  “G. F. Stout and the Theory of Descriptions,” in: Russell, vol. 14, no. 2, 1994

Russell の Theory of Descriptions が生まれる前の Theory of Denoting に反対する、1903年に書かれたと思しき Stout の手紙が載っている。分析哲学史上、最も有名かつ重要と思われる Russell の“On Denoting”が Mind の当時の編集者、G. F. Stout から拒絶的な対応を受けたという類いの話は、割とよく知られていると思います*1。私もそのような話を聞いたことがありますが、詳細は存じません。多分今のところ、Stout が“On Denoting”に否定的だったことを直接証明する、本人の手になる文献は明らかにされていないものと思われます。このような状況に対し、上記の Urquhart 論文では、Russell の New Theory of Denoting ではないが、Old Theory of Denoting に反対している Stout の書簡を示し、この書簡から Stout が Russell の“On Denoting”を reject しようとした理由、あるいは書き直しを求めた理由が、間接的に理解できるだろうとしています。但し、この Urquhart 論文では、件の書簡を掲載するだけで、その書簡の具体的な分析は行っておりません。Urquhart さんが手短にその書簡にコメントしているだけです。そのコメントは以下の通りです*2

Stout's rambling and diffuse comments form a stark contrast with Moore's incisive remarks. Even after several readings, it is hard to make out what Stout describes as his “position”. It is easy to understand that Russell may have felt a good deal of irritation in 1905 in the face of Stout's obtuse and pertinacious criticism.

Russell の Theory of Descriptions に対する Moore の鋭い意見とは、大体次のようなものである。すなわち、Russell は命題の構成要素を直接知ることができると言っているが、普遍量化されている文や存在量化されている文が表す命題の、その構成要素となっている束縛変項も、もちろん Russell によると直接知ることができるはずである。では、命題の構成要素である束縛変項とは何であり、それはどうやって直接知られるというのだろうか。Russell によると、命題の構成要素は、その命題が真である場合には、世界の側に存在しているということになるだろう。そのようにして世界の側に存在するという (言語的なものとは異なった) 変項なるものは一体何だというのだろうか。そんなものがあるのだろうか、どうすればそんなものを知ることができるというのだろうか。言語的表現とは別に、変項なるものが何か実体的に存在するとする場合には、それは変項というものの性格上、一般性を持たねばならぬ。その一方で、それは文や式の中に複数現れる場合、しばしばそれぞれの変項は別々の区別されるものとして出現してくる。したがって、個々の変項は個別性とでも言うべき特徴も持たねばならぬ。以上から変項は、一般性と個別性を共に持たねばならないということになる。しかし、一般的な個別性、あるいは個別的な一般性を持ったものとは、一体何なのだろうか。そんなものが世界の側に存在するというのだろうか*3
これは確かに困った反論で、Russell も考えあぐねているようである。今では変項は、取り合えず、言語表現に過ぎないとか、place holder に過ぎないなどと考えられているものと思われる。しかし Russell はそうは考えなかったようであり、何か実体的に存在するものだと思っていたようである。もちろんそのような実体を想定することは難しく、そもそも変項とは何であるかという問題は、Russell 自身も難問だと考えたようである*4
このような Moore の核心を突いてくる反論に対し、Urquhart さんによると、Stout の書簡中に見られる反論は、rambling で diffuse, obtuse で pertinacious なものだということである。「何回か読んだがよくわからない」というような印象も Urquhart さんはお持ちになられたようである。確かに実際私も件の書簡を読むと、正直に言って、何を言っているのかよくわからなかった*5。だからすごく Urquhart さんの気持ちがよくわかる。しかし、確かに何だかよくわからない細かい話が続く Stout 書簡だが、この書簡はそもそも Russell のかつての Theory of Denoting を批判するものであり、The Principles of Mathematics の Denoting の chapter を読んだ者なら大抵の人が感じるように、元々がこのかつての Theory of Denoting 自身、よくわからないものであって*6、そのよくわからないものを真面目に論ずれば、よくわからなくなっても当然であろうというものである。そのため Russell の Old Theory of Denoting にしても、Stout のそれへの反論にしても、どっちもどっちだろうと私には感じられた。だから Urquhart さんの Stout 書簡に対する印象は、私にもその気持ちがわかるけれども、Stout に対して少々公平ではないと思われます。
また、件の書簡を読んでいて感じたのは、そこで Stout さんは、何か particular なものについて、こだわりつつ論じているのではないかと思われたことです。そして Stout と particular なものとからすぐに連想されたのは、Abstract Particulars でした。この件の書簡を書いた頃に、 Stout さんは自身の Abstract Particulars に関する成熟した見解を既にお持ちであったのかどうかは、私はまったく知りません。しかしいずれにしても、もしかすると件の書簡は、現在では分析的形而上学を専門にされている方、中でもその存在論の分野をメインに研究される方がお読みになられれば、私みたいな者とは違って、Stout さんに公平で、より好意的かつ建設的な読解ができるのではないかと感じられました。


PS
この後に、上記 Urquhart 論文と似たテーマを扱っているものと思われる次の論文を読んでみたいと思っています。

  • Omar W. Nasim  “Explaining G. F. Stout's Reaction to Russell's ‘On Denoting’,” in Nicholas Griffin and Dale Jacquette ed., Russell vs. Meinong: The Legacy of "On Denoting," Routledge, Routledge Studies in Twentieth Century Philosophy Series, 2008.


最後に。
上記の記述に対し、誤字・脱字、誤解・無理解等がございましたら、あらかじめお詫び致します。

*1:Marsh 本に収録されている“On Denoting”の intro. にわずかだけそのような話が書かれている。Russell 自身、My Philosophical Development で、そのことについて言及している。Bertrand Russell, My Philosophical Development, Revised ed., Routledge, 1995 (First Published in 1959), p. 63.

*2:Urquhart, p. 168.

*3:Moore の意見についてのここでの描写は、次に見られる論述を私自身でかなり簡略化したものである。Michael Potter, Reason's Nearest Kin: Philosophies of Arithmetic from Kant to Carnap, Oxford University Press, 2000, pp. 127-28.

*4:Ibid., p. 127.

*5:但し実際には、私の読解能力が全然足りなかったから、わからなかったのだろうと思います。

*6:私自身は The Principles of Mathematics の Denoting の chapter は、Russell 自身もよくわからないまま書いているか、あるいはわかってはいても細部を詳述せず、端折りながら書いているかのいずれかではないかと疑っている。その chapter を読むと何度か‘in a sense’という表現が出てきていたと記憶しているが、哲学の文章で‘in a sense’(「あるいみで」)という表現が出てくる場合には、私のわずかばかりの経験によると、その場合は書いている本人が実はそこで書いていることをよくわかっていないか、あるいはそこで書いていることはわかっているものの、説明するのが難し過ぎて話が長くなり書き切れないので、論証の細部を省略してしまっているかのどちらかである場合が多いと感じられた。このような経験から、ここでの Russell も例外ではないものと推測している。但し、やはり実際には私の方が Denoting の chapter をよく理解していないという可能性があり得ることを、ここに付け加えておく。