What Does Russell Himself Say about the Gray's Elegy Argument?

Russell が、自身の the Gray's Elegy Argument について論評している書簡が次の論文の末尾に載っており、

  • Alasdair Urquhart  “Russell on Meaning and Denotation,” in Bernard Linsky and Guido Imaguire ed., On Denoting: 1905 – 2005, Philosophia Verlag, Analytica: Investigations in Logic, Ontology and Philosophy of Language Series, 2005, pp. 118-19.

先日、この書簡本文の全文をこの日記に掲載致しました。そこでは注釈なしの原文を掲載したのですが、今日は以下に私による簡単な註を部分的に施した原文を記載致します。註は、私が思ったところを記していますので、間違っている可能性があります。ですから、鵜呑みになさらないで下さい。必ず間違っているでしょうから、ここであらかじめお詫び申し上げます。註については正確には読者の方々が確認しつつお読みいただければと思います。引用文中内の square brackets はすべて引用者によるものです。‘|’は、118ページから119ページへの変わり目で、引用者が挿入しました。なお、書簡末尾の‘Yours sincerely,’以下は、慣習に反して左詰で記載しています。

Russell's reply, 28 April 1960

Dear Dr. Jager[1],

 Thank you for your letter of April 7 and for the enclosed article[2] which caused me to re-read my article “On Denoting”. In your letter you ask me what I mean by a “denoting complex”[3]. It seems to me from my recent reading of my article that I was concerned to establish the position that a denoting complex is only a phrase and not a meaning[4]. That is certainly what I think at present, and I think the argument[5] in the article, though not as clear as it should be[6], is intended as a reductio ad absurdum of the view that a denoting complex has a meaning as a [sic] well as (sometimes) a denotation. I call it “complex” merely because it consists of more than one word and derives its use from the significance of the constituent words. I came to the conclusion later[7] that all the talk about C and “C”[8] was unnecessary[9] and you will see that I did not repeat it in subsequent expositions of the theory[10] −e.g. in the Introduction to Principia Mathematica[11]. As for what led me to the theory[12] it was mainly the two puzzles: (1) that a statement such as “The King of France does not exist” is significant and therefore cannot have the King of France as its subject[13]; (2) that a true proposition mentioning the author of Waverley can become false by the substitution of Scott[14]. I think that all the talk about complexes[15] is only intended to show that the distinction of meaning and denotation as conceived by Frege, and formerly by myself[16], will not do.|
 I am surprised by your view that the concept of a denoting complex seems to you an essential part of my theory[17]. A phrase such [as] “the author of Waverley” can denote in the sense that there is a true proposition of the form “Scott is the author of Waverley”, and this seems to me the sum total of what is to be said about denoting phrases as opposed to proper names.
 I expect that you will not find what I have just said satisfactory, but it is the best I can do. When I wrote the article, the theory[18] that I was advocating was new to me and I had not got it nearly as clear as I did later[19]. I came later to think that all the stuff about denoting complexes is unnecessary[20] and in no way essential to my argument[21].

Yours sincerely,
Bertrand Russell


Ronald Jager さん。1960年4月当時、Harvard University の Department of Philosophy に所属されていたようです。のちに Russell についての本をお書きになられました。


Ronald Jager, “Russell's Denoting Complex,” in: Analysis, vol. 20, no. 3, 1960 の抜き刷りのこと。「Russell の denoting complex については、最近いくつか論考が刊行されているが、 denoting complex が何であるかについては、依然不明であり、これが何であるかについて、他の誰でもない、この私が本当のところを明らかにしてみせよう」というような狙いを持って、この Jager 論文は書かれているようです。


Denoting complex とは何であるかについては、ここでは述べません。また述べることもできません。というのも、これは色々と議論のあるものであり、詳細な分析・論証抜きに「それはこれです」などと言えたものではありませんので。それが何であるかは別として、非常に基本的な事実だけを述べると、‘denoting complex’という言葉は、“On Denoting”における、いわゆる the Gray's Elegy Argument に特有の言葉であるということです。私の知っている限りでは、この言葉、ないしはこの言葉の短縮形‘complex’が“On Denoting”に出てくるのは、 ただ一つの例外を除いて、the Gray's Elegy Argument を構成していると一般に言われている箇所のみだからです(追記 2010年3月22日: これはあくまでも“On Denoting”に‘denoting complex’という言葉が出てくるのは、ただ一つの例外を除いて、the Gray's Elegy Argument を構成していると一般に言われている箇所のみだ、ということです。つまりこれは“On Denoting”に限った話です。あるいは、Russell が自らの意思で出版した著作物に限った話だと言ってもよいかもしれません。これに対し、Russell が自らの意思で出版しなかった研究ノート・草稿の中では‘denoting complex’という言葉はしばしば使われています。例えば、Bertrand Russell, “On Fundamentals,” in his Foundations of Logic 1903-05, Alasdair Urquhart ed., Routledge, The Collected Papers of Bertrand Russell, vol. 4, 1994, を参照。また次の論文の p. 191 も参照のこと。Paolo Dau, “The Complex Matter of Denoting,” in: Analysis, vol. 45, no. 4, 1985.)。そのただ一つの例外とは、Marsh 本 46ページの冒頭に付された Russell による註で、そこでは the Gray's Elegy Argument の論駁対象とされている Frege's distinction between Sinn und Bedeutung を、Russell は説明しているのですが、その際に‘denoting complex’という言葉が使われています。なお、‘denoting complex’という言葉の重要性については、次のような D. Kaplan さんの言葉があります。‘The Phrase “denoting complex” occupies a prominent position in Russell's argument against Frege […].’Cf. David Kaplan, “[Review of ] Ronald Jager. Russell's denoting complex. Ibid. vol. 20 (1960), pp. 53-62.,” in: The Journal of Symbolic Logic, vol. 34, no. 1, 1969, p. 144. ‘denoting complex’という言葉の解釈が論者によって異なっていることと、その解釈の (1969年頃までの) 流れについては、今引用したばかりの Kaplan さんの文章のすぐ後に記されています。(追記 2010年3月22日: 次の論文の p. 65 には、1980年頃までの‘denoting complex’に対する各論者の解釈が、4種類に分けられて簡潔に提示されています。Dilip K. Basu, “Russell on Denoting,” in: Analysis, vol. 43, no. 2, 1983. さらに、この論文著者の5種類目の解釈が同論文の p. 67 に記されています。)
また“On Denoting”において、the Gray's Elegy Argument は、どこからどこまでか、ということにも、おおよそは研究者の意見が一致していたかと思いますが、若干の異論もあったと思いますので、念のためにここにおいてその論証の箇所とされている部分を明記しておくと、Marsh 本に拠るならば、48ページの‘The relation of the meaning to the denotation involves certain rather curious difficulties,’で始まる段落から、51ページの1〜2行目‘Thus the point of view in question must be abandoned.’までとしています。
こうして、Jager さんは“Russell's Denoting Complex” という論文を書かれ、それから Russell に手紙で「Denoting complex とは何ですか」と質問し、Russell が今のこの書簡で denoting complex とは何であるかについて答えようとしているということは、the Gray's Elegy Argument の鍵となる言葉が何をいみしているかについて返答しようとしているということであり、これはほとんど the Gray's Elegy Argument がそもそも何であるかということに Russell は返答しようとしていることと、かなりの程度、等価だと推測されます。つまり、Jager-Russell 書簡で denoting complex について話題にされているということは、当人たちはその言葉を使ってはいないものの、 the Gray's Elegy Argument について二人はここで正に論じているということを表しています。


‘a denoting complex is only a phrase and not a meaning’についても Russell は何を言おうとしているのかについては述べませんし、述べられませんが、Marsh 本 51ページに次のような文が見られることだけを記しておきます。‘The ‘C’ in inverted commas will be merely the phrase, not anything that can be called the meaning.’この文における‘‘C’’についても、それが何であるかに関しては非常に議論が多い事柄なので、やはり何も申しません。詳しくは“On Denoting”をご覧下さい。


この‘the argument’とは、いわゆる私たちが現在言うところの the Gray's Elegy Argument のことだと思われます。その根拠は、この文章の後半に‘denoting complex’という言葉が現れており、この言葉が現れる論証というのは、先ほどの註 [3] でも述べた通り、事実上、いわゆる the Gray's Elegy Argument しかないからです。


「本来あるべきほどにはその論証は明瞭ではない」と述べています。その論証とは前の註 [6] でも記した通り、the Gray's Elegy Argument のことと考えられます。そのことから、これは Russell 本人が、 the Gray's Elegy Argument を、「混乱している」とまでは言っていないものの、不明瞭であるということを認めた発言として注目されます。


この言葉の直後の that 節以下の内容を、Russell は後になって結論として引き出したと述べていますが、その根拠は何なのでしょうか。その根拠はこの書簡では触れられていないようです。実にその根拠が知りたいところです。The Gray's Elegy Argument が、Russell の言うように、それほど明瞭ではないが、決定的には混乱していないとすると、単に不明瞭だからとか、混乱しているからという理由により、that 節以下の内容が結論されるようになったという訳ではなさそうです。とすると、何か実質的な根拠があったということになりそうですが、それは何なのでしょうか。実に興味深く重要な事柄だと思います。そのことだけをここで指摘しておきます。


“On Denoting”において、C と “C” がどのような関係にあるのかについて論じている箇所は、私の理解している限りでは、やはり the Gray's Elegy Argument の部分だけです。したがって、Russell がここで C と “C” の関係について云々しているということは、the Gray's Elegy Argument について云々しているということを表しています。註 [3] でも触れた通り、この Russell の書簡は the Gray's Elegy Argument を巡って論じられているということが、ここからもわかります。


「C と “C”を巡る話はすべて不必要だ」と述べています。これは前の註 [8] から言って、事実上、the Gray's Elegy Argument の話がすべて不必要だということを述べているのでしょうか。だとすると、驚くべき発言です。もしもそうだとするならば、“On Denoting”から the Gray's Elegy Argument を抜き去ってしまった場合、“On Denoting”全体の論証構造はどうなるのでしょうか。The Gray's Elegy Argument を抜き取ってしまったら“On Denoting”は、本当に成り立つのでしょうか。仮に成り立つとした場合、そこからは以前とは異なる哲学的教訓が何か得られるのでしょうか。これは追及するに値する問題だと思います。これで論文の一つや二つは書けそうです。私には書けませんが…。(この項目については、補足となるようなものを書いたことがある。2010年3月21日の日記の項目‘What Kind of Relationship Is There between the Gray's Elegy Argument and the Theory of Descriptions?’を参照下さい。)


この理論とは、いわゆる私たちが言うところの「記述の理論」のことだと思われます。The Gray's Elegy Argument のことや、the Gray's Elegy Argument 内で述べられているかもしれない何か理論のようなものではないと思われます。なぜなら、Russell はこの文章で、この理論を“On Denoting”を書いた後で再説したことがある、それは Principia においてでであると述べていますが、the Gray's Elegy Argument は出版された文献のうちでは、Principia はもちろんのこと、“On Denoting”においてでしか論じられたことはないと考えられているからです。


Principia の Introduction の Chapter III, ‘Incomplete Symbols’における‘(1) Descriptions’を参照。


この理論とは、いわゆる記述の理論のことだと思われます。これについては上記の註 [10] を参照。


なぜこれが難問なのかについては、おおまかながら、次のような理由からだと推測されます。Russell は、いみを持った文は何かについてのもののはずだと考えていたようです。例えば、‘London is north of the Mediterranean Sea’という文は London についてのものだと考えられます。ところで‘The King of France does not exist’という文は、the King of France についての文だと考えられますが、しかしそうだとするとその文が述べているのは the King of France なるものは、一切ありはしないということであり、何かについて述べていながら、その何かがまったくないということは、どこか矛盾しているように感じられるということです。このように矛盾しているように見える事態を解消したいと Russell は考えて、記述の理論に導かれたのだと言っているものと思われます。


The author of Waverley に言及している真であるとされる命題の例は、Russell が“On Denoting”の Marsh 本における47ページで上げている次の文です。‘George IV wished to know whether Scott was the author of Waverley.’この文の‘the author of Waverley’を‘Scott’に入れ替えると、以下の文になります。‘George IV wished to know whether Scott was Scott.’これは偽であろうと思われます。
概して私たちは素朴に次のように考えます。何かについて何事かを述べる場合には、その何かをどのように呼ぼうが、一部の例外を除き、それがそうであることの真偽には影響しないはずだということです。しかしこの素朴な思いは、いまの George IV の例のように、裏切られることがあるように見えます。George IV について成り立つこと、つまりジョージ四世はスコットがウェイヴァリーの著者であるか知りたがっていたということは、このことに関わるものがどんな名前を持っていようとも、その名前とは無関係に成り立つものと思われますが、このことと関っているものの名前を変えるだけで、つまり「ウェイヴァリーの著者」という名前を「スコット」に変えるだけで成り立たなくなってしまいます。Russell は名前が事態の真偽には、通常は影響を与えないはずだという一般通念を維持したいと考えていたのだと思われます。これは簡単に今風に言えば、代入則 the principle of substitutivity が普遍的に成り立つと Russell は考えていたのだろうということです。私たちの素朴な思いをできるだけ尊重し、代入則の普遍的妥当性を保持するためにはどのようにしたらよいのか、このことがここでの難問なのだろうと思われます。そしてこのような代入則の普遍性を擁護するために、記述の理論へと導かれたのだと、Russell は言っているものと思われます。


‘the talk about complexes’が the Gray's Elegy Argument を表すことについては、上記の註 [3] を参照。


The Gray's Elegy Argument が誰の理論を論駁しようとしているのかについては、今までにも議論があったところです。“On Denoting”の中で表明されているところでは、それは Meinong の理論であり、Frege の理論でした。Russell 本人がかつて有していた理論であるとは“On Denoting”中では述べられていなかったと思います(但し、“On Denoting”に出てくる一番最初の註には注意が必要です。この註で Russell は、いわゆる記述の理論について、この理論が話題にしていることを、かつて自分の Principles of Mathematics で論じていたが、その本で主張していた理論は、Frege の理論とほとんど同じであると述べています。‘I have discussed this subject in Principles of Mathematics, Chap. V, and §476. The theory there advocated is very nearly the same as Frege's, […],’ Marsh 本の p. 42, 一つ目の註を参照。)。これに対し、the Gray's Elegy Argument が論敵としているのは、実は Russell 本人のかつての理論であると言い出したのは、Peter Geach, “Russell on Meaning and Denotation,” in: Analysis, vol. 19, no. 3, 1959 においてでした。Russell は今のこの書簡中でこのことを認めたことになります。ただし、それは Geach さんの指摘を受けたからなのか、それとも Geach さんの指摘とは関係なくそう思ったのか、どちらなのかはよくわかりません。何にしろ、この書簡を書いている時点での Russell にとって、the Gray's Elegy Argument の論駁対象には、かつての自分も含まれるということであり、この Russell の見解を尊重するならば、the Gray's Elegy Argument は、かつての Russell 本人を反駁しようとしていると見なして読み解かねばならないということになります。


ここでの理論とはいわゆる「記述の理論」のことだと思われます。なお、Jager さんの件の論文は、次のような文から始まります。‘Central to the argument of Russell's famous ‘On Denoting’ essay is a mysterious conception, denoting complex, […] ’Cf. Jager, p. 53.




The Gray's Elegy Argument はもとより、記述の理論でさえ、当初は充分に理解できていなかったということを表している文だと思われます。


註の [9] と同様、ここにおいても Russell は denoting complex に関する事柄が、不必要であると述べています。しかし、その根拠はこの書簡では提示されていないようです。その根拠がぜひ知りたいところです。それは the Gray's Elegy Argument が棄却されるべき理由を表しているだろうからです。仮にもしもその論証が棄却されるべきならば、Russell の単なる不注意な slip からではなく、棄却するに値する実質を持った根拠があるとすると、その根拠とは何であるのか、ということに、長年研究者は頭を悩ましてきた訳ですから。


この「私の論証」とは、the Gray's Elegy Argument のことではなく、記述の理論を積極的に支持するための論証のことであると思われます。記述の理論を支えるための論証の一環として、the Gray's Elegy Argument は、本質的には不要であると言っているのだろうと思われます。それはまたなぜなのでしょうか。