Which is the first line of Gray's Elegy?

この間、以下の論文を読んだ。

  • Peter Simons  “Gray's Elegy Without Tears: Russell Simplified,” in Bernard Linsky and Guido Imaguire ed., On Denoting: 1905 – 2005, Philosophia Verlag, Analytica: Investigations in Logic, Ontology and Philosophy of Language Series, 2005

そこで少し面白い comment を見かけた。それはその論文の pp. 130-31 にある脚注15です。そこでこの註をすべて次に引用してみます。

I must mention here the truly stunning discovery I made about Russell's example when working as a librarian in Manchester many years ago. Cataloguing a facsimile of the first edition of Gray's poem, I noticed that the first line ran ‘The Curfeu tolls the Knell of parting Day’, whereas the version Russell quotes is ‘The curfew tolls the knell of parting day’. The original had both capitalized nouns and an older spelling of ‘curfeu’. Orthographically speaking then, ‘first line of Gray's Elegy’ is an improper description. More seriously, the difficulty which arises as to what counts as the same line of poetry is merely the orthgraphical counterpart to the difficulty which arise [sic] as to what counts as the same meaning.

Gray's Elegy はとても有名な詩のようなので、様々な文献に非常に頻繁に印刷されてきているようです*1。先日、19世紀後半の出版物や、20世紀前半の出版物で、Gray の例の詩をいくつか確認してみました。すると実際にいくつかの Gray's Elegy が一字一句細部に至るまで、まったく同じように印刷されている訳ではないことがわかりました。Gray の詩を取り上げる編者の中には、Gray の spelling は peculiar だから当世風に改め、また Gray がやっているように名詞を大文字で始めるというやり方にも従わなかったと記している文言も見かけることができました。つまり現実に Gray's Elegy は、様々な文献に印刷されるに当たって、その表記にある程度揺れが見られるということです。

上記引用文の Simons さんによると the first edition of Gray's poem の first line は‘The Curfeu tolls the Knell of parting Day’だそうです。The first edition of Gray's poem について、上記引用文中では何も書誌情報がないので、Simons さんが本当に the first edition of Gray's poem をご覧になられたのか、わかりません。Gray's Elegy は最初、handout の形で出回り、次に印刷物として世に出て、それから繰り返し繰り返し印刷され続けてきたもののようなので*2、注意しないとどれが本当の the first edition of Gray's poem なのか、正確に特定できない可能性があるのではないかと個人的には推測しています。ですので、Simons さんは the first edition of Gray's poem を見たと述べておられますが、これはちゃんと裏を取る必要があると感じます。(別に Simons さんを疑っている訳ではありません。客観性を保証する手順として踏まえる必要があると述べているだけです。)
いずれにしろ Simons さんによると‘The Curfeu tolls the Knell of parting Day’が、the first edition of Gray's poem の first line だということだそうです。これに対し、Russell は the first line of Gray's Elegy として ‘The curfew tolls the knell of parting day’ と記しているそうです。この Russell による the first line of Gray's Elegy の表記については今私の手元にある Russell の論文“On Denoting” in: Mind, vol. 14, no. 56, 1905, p. 486 を見ると、実際に Simons さんの記されている通りになっていることが確認できました。つまり、Russell は the first line of Gray's Elegy について ‘The curfew tolls the knell of parting day’ と記しているが、本当のところは (1st ed. では)‘The Curfeu tolls the Knell of parting Day’が正しいということなのだそうです。

以上、要するに、Russell が “On Denoting” を書いたそもそもの初めから the first line of Gray's Elegy として何を表しているかに関し、食い違いが存在してしまっているらしいということです。これは知りませんでした。確かにこれでは improper description ですね。このような improper な状態を解消するためには、(1) 書字表現の‘The Curfeu tolls the Knell of parting Day’は、書字表現の‘The curfew tolls the knell of parting day’と等しいとして、その同一性のメカニズムを説明してみせるか、あるいは (2) 今述べた二つの書字表現は異なっているものの、何らかの semantical なメカニズムによって、今の二つの書字表現は、同じ物事を表していると説明するかのどちらかが必要になるように感じられます。

(1) の方向で行くためには、書字表現同士が同一であるための必要十分条件を定めなければならないと考えられ、そのためにはおそらく type-token-occurence の triad について、詳細な考察が必要になってくると思われます*3。これはとても厄介なことのようであり、取り分け type が一般に universals だとか set だと見なされていることから、universals とは何か、set とは何か、という困った問題に巻き込まれて行くことになります。

一方 (2) の方向で行くためには、言語表現が表すいみの同一性、つまり言語表現のいみが同一であるための必要十分条件を定めなければならないと考えられます。これは要するに以前からある同義性の問題に直接かかわるということです。この問題についてはとても有名なので、多言は要しないと思われます*4。同義性の概念をどのように救い出すのか、この点についてもいまだ解決はなされていないようで、この救出の試みが死に絶えてしまった訳ではなく、いくらかなりとも行われているみたいですが、おそらくまだまだ完全救出までは先が長いようです*5

ところで、最初に引いた Simons さんの文章のうち、その一番最後の文は次のものでした。ひどく硬直した直訳も掲げてみます。

More seriously, the difficulty which arises as to what counts as the same line of poetry is merely the orthgraphical counterpart to the difficulty which arise [sic] as to what counts as the same meaning.


さらに深刻なことに、詩のその同じ行と見なされるものについて生じる問題は、その [行の] 同じいみと見なされるものについて生じる問題に、正書法上、単に対応するものであるにすぎないのである。

あるいは

さらに深刻なことに、何が詩のその同じ行であると見なされるのかについて生じる問題が、何がその [行の] 同じいみであると見なされるのかについて生じる問題に、正書法上、単に対応するものであるにすぎないのである。

この文が正確に言って何を述べているのか、正直に言って私は完全に理解しているとは言えません。ただ、この文は、先ほどからの (1) に見られる問題と (2) に見られる問題がパラレルだ、ということを述べているのでしょう。Russell のなした、上記の食い違いは、同義性の問題が書字表現の同一性の問題として現れているにすぎないというのが Simons さんの見立てです。これらの問題が、正確にはどのようにパラレルになっているのか、私はちゃんと理解できていませんが、先ほどの (1) のラインを取るにせよ (2) のラインを取るにせよ、乗り越えねばならない問題は多数あるようです。Russell のなしたささいな食い違いは、同義性という案外大きな問題につながっているみたいです。


以上で終わります。誤解や無理解、誤字や脱字が上の記述には見られると思います。ここであらかじめお詫びを申し上げたいと思います。

*1:Gray's Elegy が最初に印刷されたのは、1751年2月15日のようです。福原麟太郎、『グレイ』、研究社英米文学評伝叢書 26、研究社、1935年、59ページを参照。但し、この1751年というのが Gregorian calendar の1751年なのか、Julian calendar の1751年なのか、よく知りません。England で Gregorian calendar が導入されたのは、1752年のようです。いずれにせよ Gray's Elegy が出版されたのは、その辺りの年だということです。

*2:福原、58-60ページ。

*3:書字表現が同一であるための必要十分条件は簡単に定められるように感じられます。その条件とは、相似性です。つまり書字表現 a と b が同一であるための必要十分条件は、a と b が相似であることである、というものです。しかしこれがそう簡単な問題ではないことは次の文献を参照下さい。Linda Wetzel, “Types and Tokens,” in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2006, Section 4.2.3 Orthography.

*4:この問題に関する簡単で手短なまとめは、次の二つの文献を参照して下さい。Leonard Linsky, “Synonymity,” and Marc A. Moffett, “Synonymity [Addendum].” これらはともに次の文献に掲載されています。D.M. Borchert ed., Encyclopedia of Philosophy, 2nd ed., vol. 9, Macmillian Reference USA/Thomson Gale, 2006.

*5:あるいはそもそも大抵の人々は同義性の概念を Quine さんの批判などにより、既に捨て去っているということもあるのかもしれません。