先日購入させていただいた次の書を拝読していると
- アレグザンダー・ウォー 『ウィトゲンシュタイン家の人びと 闘う家族』、塩原通緒訳、中央公論新社、2010年
私にはちょっと驚いてしまう記述に出会った。それは Tractatus に見られる aphorism の羅列は、Tolstoy の『要約福音書』の体裁を借りて出来ているのだ、という記述です。これは私は個人的には初めて聞く話です。
Wittgenstein が aphorism という表現形式を採ることに対し、影響を与えたと考えられているのは、恐らく第一に Georg C. Lichtenberg だろうと思われます*1。この他にも同種の影響を与えた人物に例えば Nietzsche など、何人かがいるようです*2。
これらに対し、上記のウォーさんの著作では、Tolstoy の『要約福音書』に金言・格言の箇条書きが見られ、それに直接的に影響を受けて、Tractatus が書かれていると主張されているようです。これはちょっと驚きです。私が知っている限りでは、そしてその限りですが、ここまで突っ込んで主張している文献は初めて見ました。『要約福音書』の内容が、Tractatus の倫理的側面に強い影響を与えているという話は、ちょくちょく目にしますが、Tractatus の、あの独特な構成面にまで影響を与えているというのは、看過すべからざる発言だと思われます。ウォーさんによる問題の発言を長くなりますが以下に(原註、訳註は省いて)引用してみます。
[第一次世界大戦の] 開戦後まもなく、意識的に神を探していたわけではなかったかもしれないが、彼 [Wittgenstein] はクラクフの東四○キロほどにあるバロック都市、タルヌフの小さな本屋にいた。そこで彼は一冊の本を買った。単にその店にはその本しかなかったからだが、これ自体が前兆だったのだとルートウィヒは信じていた。それはレフ・トルストイの『要約福音書』のドイツ語版だった。新約聖書の四つの福音書の簡約版で、トルストイが賛同しないオリジナルの部分をすべて除外したものだ。
[…]
短い哲学論文『論理哲学論考』のまえがきで、ルートウィヒは自分の考えの一部に他の本の影響があるかもしれないと認めたうえで、「私の考えたことがすでに他のひとによって考えられていたのかどうかなど、私には関心がない」[…] と述べている。たしかにこの作品とトルストイの『要約福音書』には多くの共通点がある。どちらも六部からなっており(ルートウィヒは『論考』に第七部を加えたが、それはいまや有名な、ただ一つの宣言からなる −「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」)、どちらも一連の金言的な発言が番号を振られてつなげれらている。たとえばトルストイはこんなぐあいだ。
一・一 すべてのものの土台と始まりは、生命の悟りである。
一・二 生命の悟りは神である。
一・三 すべては生命の悟りのうえに築かれ、この悟りなくして生きているものは何もない。
一・四 そこに真の生命がある。
一・五 この悟りが真理の光である。*3
以上の引用文では、Tractatus において番号を振られた aphorism の集積が、Tolstoy の『要約福音書』の模倣であると述べているように見える。Tolstoy の『要約福音書』では、Tractatus と同様に番号が振られた金言・格言が多数並べられていて、これにヒントを得て Wittgenstein は Tractatus を書いたのだと言っているかのようである。このことが事実だとすると、かなり驚きです。そこで確認のために手始めに、Tolstoy の和訳『要約福音書』を開いてみた。この和訳には何種類かある。世界の文豪 Tolstoy であるから、昔からいくつもの翻訳が出ている。三つばかり開いて、金言の羅列が多数出てくるのか調べてみた。例えば開いてみたものの一つに以下がある。
これを見ると、確かに金言のようなものが並んでいる箇所がある。が、それは序文に当たるところに少しだけしか出てこない。上記河出版の「要約福音書」を全ページ繰ってみたが、そこしか出てこない。更に言うと、上記引用文の最後の箇条書き一・一、一・二、…、の類いが邦訳では全然見当たらない。河出版「要約福音書」は、ほとんどが散文であり、金言箇条書きの羅列は序文に少しだけしかない。この他に2冊、Tolstoy の『要約福音書』日本語訳を紐解いて、全ページを眺めてみたが、やはり序文に少しだけ箇条書きが現れるのみであり、上記引用文の最後の箇条書き一・一、一・二、…、の類いはこれらの邦訳にもまったく見つからなかった。これは一体どうしたことだろうか? 日本語訳はどれも忠実な翻訳ではなく、大幅な改編・改訳が施されているということだろうか? 私が見た3冊共がすべてそうなのだろうか?*4
Wittgenstein が手にした Tolstoy の『要約福音書』はドイツ語版のようである。ウォーさんは何を参照して上記引用文の主張を行っているのか調べると、Wittgenstein が当時手にしていたのではないであろう英語版を使っておられる*5。『要約福音書』のドイツ語版が Tractatus に、少なくとも内容的に大きな影響を与えたことはよく知られていると思われる。それは英語版によってでは、なかったはずである。なぜウォーさんはわざわざ英語版によって上記のような記述をされているのだろうか? 件の英語版は件のドイツ語版とそっくりなのだろうか?
では Wittgenstein 自身はどのドイツ語版を見たのだろう? 次に詳しい情報が載っている。
- 細川亮一 『形而上学者ウィトゲンシュタイン 論理・独我論・倫理』、筑摩書房、2002年
この本の353ページの註*1に Wittgenstein が見ていたであろうドイツ語版の書誌情報が記載されている。細川先生によるとそれは次の本のようです。
- Graf Leo Tolstoi Kurze Darlegung des Evangelium, Reclam, Reihe: Universal-Bibliothek, 2915/2916, 1892
そして細川先生はこの書誌情報について以下の本に依拠されているようです。
- Michael Nedo und Michele Ranchetti hg. Ludwig Wittgenstein: Sein Leben in Bildern und Texten, Suhrkamp, 1983
細川先生がこの本の125ページに言及されていることが、上述の註*1に記されている。そこでこの Nedo & Ranchetti 本を紐解くと、124ページに件の Reclam 本の表紙写真が掲載されている。Wittgenstein はこれを見ていたのだろうか? この Reclam 文庫版は、金言の箇条書きがたくさん出てきているのだろうか? この点については私は今のところ未確認です。またそのうち機会があれば確認してみたいと思います。ちょっと中途半端ですみません。
しかしいずれにせよ、個人的な推測では、Tolstoy の『要約福音書』の日本語訳を三つ見た限りでは、Wittgenstein がこの本の構成面に影響を受けて、Tractatus の金言箇条書きという体裁を決めたというのは、非常に無理のある解釈だと感じました。Wittgenstein が手にしていた Reclam 文庫版が金言の箇条書きをたくさん含んでいない限り、ウォーさんの主張は説得力を欠くものと思われます。そもそも Reclam 文庫版が多数金言の箇条書きを含んでいれば、今までに誰かがこの箇条書きの Tractatus に対する影響を指摘しているはずです。これまでのところ、このような大事なことが指摘されていないように、私個人的には見えるということは、Reclam 文庫の影響は、やはり内容面だけだったということになるのでしょうか。何にせよ、Reclam 文庫版を見てみないことには決着が付かない話ではあるのですが…。
念のために今回の件に関し私が、索引や index をもとに、調べてみた文献は何であったのかについて記しておきます。それには例えば以下のものがありました。既に言及した文献も重複して掲げます。掲載順に特にいみはありません。
- レイ・モンク 『ウィトゲンシュタイン 天才の責務 1 』、岡田雅勝訳、みすず書房、1994年
- ブライアン・マクギネス 『ウィトゲンシュタイン評伝 若き日のルートヴィヒ 1889-1921』、藤本隆志、今井道夫、宇都宮輝夫、高橋要訳、叢書・ウニベルシタス 453、法政大学出版局、1994年
- ノーマン・マルコム 『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』、板坂元訳、平凡社ライブラリー 266、平凡社、1998年
- ノーマン・マルカム 『ウィトゲンシュタインと宗教』、ピーター・ウィンチ編、黒崎宏訳、叢書・ウニベルシタス 592、法政大学出版局、1998年
- ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン 『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記 1930-1932/1936-1937』、イルゼ・ゾマヴィラ編、鬼界彰夫訳、講談社、2005年
- ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 『反哲学的断章: 文化と価値 (新版)』、丘沢静也訳、青土社、1999年
- S. トゥールミン、A. ジャニク 『ウィトゲンシュタインのウィーン』、藤村龍雄訳、TBSブリタニカ、1978年
- 飯田隆 『ウィトゲンシュタイン 言語の限界』、現代思想の冒険者たち 07、講談社、1997年
- 吉田寛 『ウィトゲンシュタインの「はしご」 『論考』における「像の理論」と「生の問題」』、ナカニシヤ出版、2009年
- 細川亮一 『形而上学者ウィトゲンシュタイン 論理・独我論・倫理』、筑摩書房、2002年
- 鬼界彰夫 『ウィトゲンシュタインはこう考えた 哲学的思考の全軌跡 1912-1951』、講談社現代新書 1675、講談社、2003年
- 野村恭史 「ウィトゲンシュタイン 1 前期」、飯田隆編、『哲学の歴史 第11巻 論理・数学・言語 【20世紀】』、中央公論新社、2007年
- 野家啓一編 『ウィトゲンシュタインの知88』、新書館、1999年
- 山本信、黒崎宏編 『ウィトゲンシュタイン小事典』、大修館書店、1987年
- 黒崎宏 『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』、新装版、勁草書房、1984年
- 藤本隆志 『ウィトゲンシュタイン』、講談社学術文庫 1323、講談社、1998年
- Hans-Johann Glock A Wittgenstein Dictionary, Blackwell Publishing, Blackwell Philosopher Dictionaries Series, 1995
- Michael Nedo und Michele Ranchetti hg. Ludwig Wittgenstein: Sein Leben in Bildern und Texten, Suhrkamp, 1983
- Bertrand Russell Autobiography, Routledge, Routledge Classics, 2009 (Originally Published in 3 vols., in 1967-69)
これらのどの文献においても必ず Tolstoy に関して触れられているという訳ではありません。実際にはほとんど触れられていない文献もありました。あるいはちょっと Tolstoy の名前が出てくるだけ、というのが大抵でした。ましてや Tolstoy が Tractatus の構成面に対し影響を与えていると述べているものは皆無のように見えました。この他にも和書や洋書を紐解いてみましたが、今回の件に関しては見るべき情報がなかったので、これ以上このリストを書き足すのはやめにしておきます。なお、比較的にですが Tolstoy の内容的な影響を少し詳しく扱っている文献は、上記のうち、モンク、マクギネスの伝記情報を別にすれば、細川先生、鬼界先生のご高著がそうでした。
Wittgenstein に関する文献は、それこそ山のように出ており、私はそれらのほとんどを知らないので、私の気が付かないところで、Tolstoy の Tractatus に対する構成面への影響を指摘している文献があるのかもしれませんが、それについては今後また勉強して参ります。
以上の記述はよく見直していないので、誤解、無理解、誤字、脱字等がございましたら、お詫び致します。
*1:S. トゥールミン、A. ジャニク、『ウィトゲンシュタインのウィーン』、藤村龍雄訳、TBSブリタニカ、1978年、211-12ページ。
*2:ブライアン・マクギネス、『ウィトゲンシュタイン評伝 若き日のルートヴィヒ 1889-1921』、藤本隆志、今井道夫、宇都宮輝夫、高橋要訳、叢書・ウニベルシタス 453、法政大学出版局、1994年、380-84ページ。
*3:ウォー、136-37ページ。
*4:邦訳の訳者の方々は、大幅な改編・改訳を施したとは、どの本においても述べておられないように見える。
*5:ウォー、419ページの情報だと、氏が参考にされたのは次である。Count Leo Tolstoy, The Gospel in Brief, London, 1896.