Kant philosophized about Kritik der reinen Vernunft in Latin, and then wrote it in German.

購入したばかりの

を拝読していると、些細なことながら、私のまったく知らなかった或る事柄が書いてあり、ちょっと驚く。それは KantKritik der reinen Vernunft の内容を、もともとラテン語で考えて、そしてそれからそれをドイツ語に翻訳するようにして書いたということです。専門家の方には常識なのかもしれませんが、私はこのことを全然知りませんでした。中島先生は Kritik der reinen Vernunft が難しい理由の一つとして、この本が今述べたようないみで翻訳書になっていることを挙げておられます。そうだったんだ、難しい理由の一端は、そこにもあったんだ。これは初めて知りました。以下に中島先生の文章を掲げてみます。

 こうしたいきさつ*1を概観したうえで、なぜ『純粋理性批判』はあんなに難しい(外見をしている)のか、もう一度問い直してみましょう。
 一つには、カントはラテン語で思索していたということが挙げられます。哲学書をドイツ語で書いたのは、カントの同時代人であるクリスチャン・ヴォルフやランベルトからでした。とはいえ、大学の資格論文はすべてラテン語でなければならず、国立大学ですから教科書には検閲があるのですが、それまたバウムガルテンやアヘンヴァルなど、すべてラテン語で書かれていました。
 カントは『純粋理性批判』をドイツ語で書いたのですが、「思索」はラテン語でしたと言われています。なぜなら、当時はラテン語の哲学用語に対応するドイツ語がなかったからです。そこで、彼はみずからラテン語をドイツ語に翻訳しながら執筆を続けていた。そのさい、構文もずいぶんラテン語ふうになっていて、そのままドイツ語で読むと奇異なところもあるようです。
 例えば、ラテン語は文章の区切りがはっきりせず(句読点がなく、大文字もなく)、どこまでも続くのですが、時には一ページを超えるカントの異様に長い文章もその「影響」と思われる。言い換えれば、カントの文章におけるカンマとピリオドとの区別などどうでもいいのです。
 見知らぬ人(ライプツィヒ大学教授のボルン)から、『純粋理性批判』をもっと広めるために、ドイツ語からラテン語に翻訳したいという便りを受け(一七八六年五月七日)、これをカントがすぐ承認したことも、当時の状況を窺わせてくれます。*2

Kant の時代に、あるいは Kant によって、哲学をめぐる有様が大きく変わったとは、よく言われることですが*3、当時は哲学において学術的な lingua franca としてのラテン語を使用することから、哲学者の母語である各種の民衆語を使用することへと移りゆく過渡期であったことは知っていたものの、Kantラテン語で考えてドイツ語で書き直して本を書いたということは今回初めて知りました。これは日本で言えば、幕末、明治初期に、日本人が西洋の哲学の用語を漢語で何とか表わして理解しようとしていたことと、程度は異なるでしょうが、幾分かは似ていることなのかもしれませんね。西洋哲学について述べた明治期の文章を私たちが理解しようとする際に、一旦その日本語を原語の西洋諸語に変換しなければ、うまく理解できないことがありますが、Kant についても、そのドイツ語をラテン語に変換してみないとよくわからないことがあるのかもしれませんね。言い換えれば、ラテン語に直してみればよくわかるようになるのかもしれません。ちょっと面倒ですが…。

*1:こうしたいきさつとは、現代のドイツ人も Kritik der reinen Vernunft を読むのは難しいと感じること、Kant と同時代の哲学者も難しいと感じていたこと、Kritik der reinen Vernunft が通俗性 (Popularität) に欠けていることを Kant 自身感じていたこと、以上の三つのことです。

*2:中島、19-20ページ。

*3:例えば次を参照下さい。福谷茂、「カント」、加藤尚武編、『哲学の歴史 第7巻 理性の劇場 カントとドイツ観念論 【18-19世紀】』、中央公論新社、2007年。