The First Sub-Saharan African Philosopher Known to Have Attended a European University

先日購入させていただいた次の本を読んでいると、「そうなんだ、それは知らなかった」という、ちょっとした話が記されていた。

18世紀のドイツの大学で、アフリカから来た方が哲学を勉強し、かつそこでしばらく教えていたという話です。これはまったく知りませんでした。以下にその話を引用しておきます。

もっと意外な史実 − ヨーロッパ初の黒人哲学者

 この時代 [18世紀] の異文化理解がもっともらしいものではなく、まがりなりにも理性に裏打ちされたものであったことを物語る一つの史実がある。裏面史といってもよい。それは、アフリカからヨーロッパに渡来したある黒人がギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、フランス語等をマスターして、ヴォルフ学派の哲学を修得し、ドイツの大学で教鞭をとっていたということである。その黒人の名はアントン・ヴィルヘルム・アモー (Anton Wilhelm Amo, 1703-1759?) と言う。渡欧したのが奴隷としてか、その他の理由によるものかは不明であるが、まず、今日のガーナからアムステルダムに渡った。その後、ドイツ啓蒙の牙城、ハレ大学で哲学を学び、その間「ヨーロッパにおける黒人の法的地位」というテーマで公開討論もおこなった。その後、ヴィッテンベルク大学で医学、生理学、哲学を修め、マギスターの学位を取得。さらに一七三四年、心身の二元論に関する論文によって哲学博士のタイトルを取得した。ヴィッテンベルク大学がこの希有な哲学者をいかに誇りに思っていたかは、一七三三年、ザクセン王の大学訪問にあたって、アモーが代表をつとめたという歴史的事実によく表われている。その後、アモーは一七三六年以来、アフリカに帰国する一七四七年まで、ハレ、ヴィッテンベルク、イエナの各大学で講師として哲学の教鞭をとった。その哲学は、理性の力に対する信頼に基づいた、典型的なヴォルフ主義に貫かれていたという。
 普遍的理性という概念は、国家や民族や人種を超えて理性が、あらゆる民族、あらゆる個人に共通に支配しているということを意味する。とすると、人種差は問題にならないはずである。理性の世紀の精神風土はそれを可能にし、黒人哲学者アモーはそのことを実証した。現在、ハレ大学の前にはこの歴史的事実を記念して、アモーの像が立っている。*1

なるほどね、そうだったんだ。という訳で、この後、net で Amo さんのことを少し調べてみると、いくつか情報が出てきます。

  • Dr. Scott W. Williams  “Anton-Wilhelm Amo: b. 1703 - d. 1756,” in: Mathematicians of the African Diaspora, The Mathematics Department of The State University of New York at Buffalo, 2008

こちらの HP を見ると、冒頭で Amo さんは奴隷として連れて来られたと書かれている。

  • “Anton Wilhelm Amo,” in: Wikipedia, in English, Last modified in July 2010

こちらの英語版 Wikipedia では、奴隷だったかもしれないし、キリスト教の伝道者によって送られてきたかもしれないと書かれている。後者だとすると日本で言う天正遣欧少年使節のようなものだったのでしょうか?
さらにこの Wikipedia を読むと、上記の石川先生のお話とはちょっと事態が違っていたような感じであることがわかる。石川先生の記述だと、啓蒙的理性に依った時代精神により、Amo さんは当時の当地で、アフリカ系の人種であるにもかかわらず、受け入れられていたかのような書かれ方をしていますが、当該 Wikipedia の section‘Philosophical career and later life’における最終 paragraph 冒頭で次のようにある。ヴォルフ主義が勢力を落としていくなかで、

Amo himself was subjected to an unpleasant campaign by some of his enemies, including a public lampoon staged at a theatre in Halle, and he finally decided to return to the land of his birth.

これが本当だとすると、ちょっとひどい話である。ものすごく気の毒です。悲しかったに違いない。実際の事態はこのように、もしかしてもしかすると、石川先生の言う通りではなかったのかもしれませんね。

なお、本日の日記のこの項目の title は、当該 Wikipedia にある文章を修正し、借用させていただきました。


このような Amo さんのお話を読んでいて思い出したのは、Pieter Hartsinck (Peter Hartzing) さんのことです。この方は、Amo さんと大体同じ頃にヨーロッパに生きた日系ハーフの人物で、医学を Leiden 大学で勉強し、Descartes の著作の注釈書を Hartsinck さんの先生と共著し、Leibniz と一緒に鉱山開発の事業に従事していたという、稀有な経歴の持ち主です。Amo さんや Hartsinck さんのような方々が活躍した当時のヨーロッパというのは、これらの事例がこの他にも多数あるとするならば、確かに蒙昧を打破しようとするといういみで啓蒙(主義)の時代だったのかもしれませんね。Hartsinck さんについては、かつてこの日記でわずかに触れたことがありますので、文献情報については当日記の2008年9月16日分をご覧下さい。

そしてこのようなことを思い出しながら上記 Wikipedia や、次の本を読み返していると、

ちょっと驚いた。というのは、件の Wikipedia によると、section‘Early life and education’を見るならば、以下のようにある。Amo さんは奴隷として Amsterdam に到着したのか否か、判然としないのですが、

Whatever the truth of the matter, once he arrived, he was given as a present to Anthony Ulrich, Duke of Brunswick-Wolfenbüttel, to whose palace in Wolfenbüttel he was taken.

[…]

It is also believed that he would have met Gottfried Leibniz, who was a frequent visitor to the palace.

そして酒井先生の本によると Leibniz は ドイツの Braunschweig-Lüneburg 公国の Johann Friedrich に仕えていた*2。一方、Hartsinck もこの Johann Friedrich に仕えている*3。その上、Leibniz は Anthony Ulrich にも頼るようになった*4。Johann Friedrich と Anthony Ulrich は、本家と分家の関係にある*5Leibniz は Anthony Ulrich のために仕事をしたり、Ulrich に助けてもらったりしているようである*6。そして今回の項目の主人公 Amo は直前に引用した文にあるように、Anthony Ulrich に庇護されていた。こうして Amo, Leibniz and Hartsinck の三人は、Johann Friedrich と Anthony Ulrich との関係から、全員つながっていることがわかる。だとすると、何だか本当にすごい気がしてきます。


今回この項目はほとんど見直さずに up しています。誤解や無理解、誤字・脱字等がございましたら、お詫び致します。

*1:石川、96-97ページ。

*2:酒井、52-53ページ。

*3:岩生成一、「デカルトの孫弟子: 日系人Pieter Hartsinckの墓碑」、『日本歴史』、日本歴史学会、no. 339、1976年8月号、82ページ。

*4:酒井、71ページ。

*5:酒井、98ページ。

*6:酒井、97-98、103-105ページ。