What Role Does Dummett's Notion of God Play in his Philosophy?

先日、以下の新刊を読み終えた。


この本の感想を以下に軽く記してみたいと思います。
ただ、前もって明記しておきますが、私は Dummett 哲学についてはよく知りません。ですから以下では、Dummett 哲学について何か詳しい話をするということでは全くありません。Anti-realism がどうしてこうして…、というような話は一切できません。また、話がひどく長いです。あまり重要な話でもありません。あしからずご了承下さい。


さて、読み終えた後の印象を率直に述べますと、結構面白く読めました。但し、Dummett 読みの方、Dummett 哲学に詳しい方が読めば、本の内容が食い足りないとお感じになられたかもしれません。というのも、私たちが「Dummett 哲学」という言葉で通常思い付くような、anti-realism や justificationism に関する話は、本全体の、ようやく半分を過ぎてしばらくしてから出てくる状態であり、本の初めの方では、いわゆる哲学概論などの授業でも、もしかしたら聞けそうな話が続き、Dummett 哲学特有の話題は全く出てこないと記憶しています。そうは言いましても、Dummett さんらしい topics が本の前半の方で全然出てこないということではありません。時制の話が出てきたり、避妊に関する話が出てきたりしますので、前半は決して Dummett さんらしくないという訳ではありません。しかし私たちが普通「Dummett 哲学」ということで考える anti-realism や justificationism についての話は、この本の、全16章中、第13章の‘Thought and Language’と第14章‘Realism’の2章だけに出てくるという感じで、その際にも微に入り細を穿った論述が展開されているというほどではないように、私個人には感じられました。しかし、微に入り細を穿ったものとは感じられないとはいえ、自身の教説の簡明な解説になっていると思われましたので、個人的にも有益でしたし、Dummett 哲学に詳しい方ならば、貴重と思える発言をそこに見付けられるのではないかと思います。


本を読み終えて、色々と興味深い点はありましたが、逐一それらを記している時間もありませんし、とても面倒なことでもありますから、一つだけ、この本で私が一番印象に残った部分を次に記してみます。それはこの本の最終章の最終 paragraph, つまりこの本の一番最後の部分です。この部分が一番印象に残っているのは、読み終えた直後は本の最後の部分が一番記憶によく残っているからということがあるのかもしれません。そうかもしれませんが、いずれにせよ、最終章が一番 Dummett さんの率直な意見が語られていたと思われました。そこでその paragraph にある、最も大胆率直な発言を以下に引用してみましょう。本項目における引用では、原文に註がある場合、それを省いて引用します。


Dummett さんは近々に解決が望まれる哲学的問題としていくつかの例を挙げられた後、次のように述べられます。

Finally, can philosophy settle what is surely the most important question of all, whether there are rational grounds for believing in the existence of God? There seems to me every reason to think that it can, and will even do so in the lifetimes of our great-grandchildren. My own belief is that it can be resolved positively; indeed, as a Catholic, I am committed to that belief. […] At present most Western philosophers do not believe in God, although the reverse was true up to 150 years ago. The only convincing argument that God cannot be shown to exist would show that he does not exist; from an intuitionist standpoint, these are the same thing. Conversely, the only convincing argument that God can be shown to exist would show that he does. […]*1

Dummett さんにとり、哲学のあらゆる問題のうち、最高に重要な問題は、神の存在を信じるにたる合理的な根拠はあるのかどうか、という問題だ、とのことのようであります。そしてこの問題に哲学は解決を与えることができるのかどうかに関しては、与えることができるし、曾孫の世代にはそれも可能だろうと述べておられます。これは私個人の感覚では、ものすごく遠い将来、ということでもない気がします。しかもその解決が肯定的に成功するというのですから、かなり楽観的だと個人的には感じられます*2

さらに驚くべきことは、上記引用文中で示唆されているように、その証明方法です。但し私はこの部分に関しては、誤解している可能性が非常に大きいので、その証明方法の重大さについては、ここに記すことを控えさせていただきます。

Dummett さんの神に対する真摯な信仰心に対し、尊敬の念と、上のごとく記述を差し控えたものの、驚きの念とを覚えてしまいますが、氏の、神に対する考え方で、正直申し上げますと、ちょっと残念に感じることもございます。次の本を見ていますと、

  • マイケル・ダメット  『思想と実在』、金子洋之訳、丹治信春監修、シリーズ 現代哲学への招待、春秋社、2010年

175-78 ページで、なぜこの世に悪があるのか、という問題が扱われています。Dummett さんは言います。神はこの世界を創造した。いくつかある可能な選択肢の中から、その帰結を考慮しながらこの世界を選んで創造した。するとそこには何らかの動機が働いていたと言えるだろう。ならばこのような創造という行為をなした神には意志というものを帰属させることができる。ではこの時、神の意志は挫折させられるであろうか。それは不可能だと思われる。なぜなら神の力をもってするならば、それを阻止することは可能だろうからである。しかし

その意志が繰り返し、大規模に阻止されているのははっきりしている。われわれは、神の直接の意志と神の全体的な意志とを区別することによって初めてこの問題を解決することができる。全体的に考えてみれば、神の意志は、その直接の意志に必然的に一致すべきだということよりも、むしろ、神の直接意志に逆らう −殺人や姦通に関与したり、嘘をついたり、無慈悲にふるまったりする− 自由をわれわれがもつべきだということでなくてはならない。
 しかし、神の意志に反しているように見えるが、人間の邪悪さに負っているのではないことについてはどうであろうか。例えば、病や自然災害によって引き起こされた恐ろしい苦痛、あるいは、明らかに感覚をもつ生き物が彼らの捕食者によって捕らえられたときの苦痛はどうであろうか。[旧約聖書が語ることからして] (人間を含む)動物界に広く行きわたっている暴力は神の直接意志に反するものだという認識が明らかにあったのである。それがまさしく広く行きわたっているということは、何らかの [ [直接意志を上まわる] ] 決定的な必然性によるのでなくてはならない。*3

ここで語られている問題は、例えを変えれば、なぜ神は Auschwitz を看過なされたのか、という問題です。Dummett さんによる答えは、私が誤解していないならば、大きな善の前に小さな悪を容認するというのが、神のご意志なのだ、というものだと解釈できると思います。この解釈が私の誤解でないとするならば、このような氏の答えは、それこそ数え切れないぐらい繰り返されてきた平凡な返答でありましょうし、理不尽な悪に苦しめられている当事者には、全く心に響かない返答だと思われます。このような返答をされる氏に、私は正直失望してしまいます*4。たとえ神の存在論的証明が完成し、神の存在が立証されたとしても、救いと無関係な神の存在証明は、人々のためには全くならず、数多くの圧倒的な悪の前で、実はその存在証明なるものの不成立・反証を示してしまっているのかもしれません*5。いずれにせよ、無慈悲で大規模な悪を目にしてしまった時、ただ私なら正直に、なぜそのような目をむくほどの悲惨な悪が跳梁しうるのか、その疑問には「わからない、どうしてなのかは、私にもわからない」と答える他ありません。大切なのは、差し当たり、件の疑問に答えることよりも、何よりも、悪に苛まれている当事者に手を差し延べることだろうと思われます*6。それ以外に救いはあり得ず、そこ以外に神は存在しません。*7


さて、Dummett さんの言語哲学や、実在論/反実在論論争にしか興味のない方は、以上のような神のお話には関心を覚えられず、関係ないものとお考えになると思います*8。しかし、Dummett さんにとって、神の問題は、上記引用文中からも察せられる通り、反実在論のモデルである直観主義論理と無関係ではないようであり、また先に挙げた『思想と実在』の最終章「神と世界」を読んでいると、世界の在り方と神の問題と実在論/反実在論の概念とが、非常に密接不可分に絡み合っているということを感じます*9。この推測が正しいならば、Dummett さんの神の問題は、言語哲学や、実在論/反実在論などの形而上学と無関係ではなく、しかも氏の実在論/反実在論の考えが、氏の神の観念と整合性を持たねばならず、またそのことを示す必要さえあるということになるでしょう。従って、氏の神の観念に、図らずも何か不整合な点があるならば、そこからして氏の実在論/反実在論の考えにも何か不整合な点があるのでは、と推測することが許されるのではないかと思われます。ですから、Dummett さんの神の観念が整合的であるかどうかを検討することは、少々迂遠ではあるものの、氏の有名な実在論/反実在論の考えを吟味する上でも、幾ばくかの有効性を持ちうると考えられます。最初の引用文にもあるように、氏にとって、哲学の問題のうち、最も重要な問題が、神の存在の問題ならば、論理的には妥当ではありませんが、神の存在の問題が、Archimedes のてこの支点ような役割を持っていて、氏のすべての哲学体系の基礎にある一点である可能性もないではないかもしれません。その場合には、Dummett さんの言語哲学や、実在論/反実在論論争にしか興味のない方も、Dummett さんの神の観念を無視して済ますこともできなくなるものと思われます*10


ところで、間もなく次のような書籍が刊行されるようです。

  • Stig Børsen Hansen  The Existence of God: An Exposition and Application of Fregean Meta-Ontology, Walter de Gruyter, Quellen und Studien zur Philosophie, vol. 98, Due in October 2010

This book explores two questions that are integral to the question of the existence of God. The first question concerns the meaning of “existence” and the second concerns the meaning of “God”. Regarding the first question, this book motivates, presents and defends the meta-ontology found in Gottlob Frege’s writings and defended by Michael Dummett, Crispin Wright and Bob Hale. Frege’s approach to questions of existence has mainly found use in connection with abstract objects such as numbers. This is one of the first studies to systematically present Fregean meta-ontology and apply it to theology. Frege’s meta-ontology is informed by his context principle. According to this, logico-syntactic notions such as “singular term” and “predicate” are pivotal to questions of what exists. These notions serve to throw light on the second question. Through thorough engagement with Old as well and New Testament texts, the book shows how Frege’s logico-syntactic notions are of crucial importance when seeking to understand the meaning and use of “God”. To complete the defence of Fregean meta-ontology, the book concludes by pointing to important differences between the otherwise closely associated concepts of an object found in Wittgenstein’s Tractatus Logico-Philosophicus and Frege’s writings.

この本は、上記の Dummett さんの話に何か資するものがあるでしょうか。あるいはあるかもしれません。私は購入する予定はありませんが、機会があれば拝見してみたいと思います。


今日の話は Dummett さんについてよく知らない人間の、大して根拠のない話ですから、そのまま受け取らずに、直接 Dummett さんの本を読んで判断していただければと存じます。間違っていましたら大変すみません。あらかじめお詫び申し上げます。

*1:Dummett, pp. 151-52.

*2:曾孫とは孫の子供のことだから、仮に今生まれた人 a が25才で結婚し子供 b が生まれ、その子供 b が成長して25才で結婚し子供 c が生まれたら、その子 c は a の孫である。そしてこの孫である c が成長して25才で結婚し子供 d が生まれたら、その子 d が a の曾孫である。この時点で75年が経っている。そしてこの曾孫 d の世代の内に神が存在することの証明が成功するということは、d が100年生きるとすれば、今より75年から175年後には、件の証明がなされるということになるだろう。仮に ontological argument for the existence of God が Anselm of Canterbury に始まるとするならば、それが大体1070年以降として、それから現代までおおよそ1000年近く経っているのですから、おおよそ1000年経っても解決しなかったことが、そして実際に多分今も解決には至っていないと思うのですが、あと75年から175年後には解決するという予想は、かなり楽観的だと感じられます。しかもその解決が肯定的に成功するというのですから、ものすごく楽観的だと感じられても無理はないと思います。

*3:ダメット、176-77ページ。引用文中の‘[ [ ] ]’は訳者による挿入。

*4:但し、私は氏の話を誤解・誤読しているのかもしれません。その可能性を拭い去れずにいます。無理解を表しているようでしたら誠に申し訳ございません。

*5:特に、日本に育った日本人にとっては、救いと無関係な神は、ひどい話ですが、無価値と映るのではないでしょうか。

*6:もちろん Dummett さんは、armchair philosopher ではありません。その点、私の方は armchair に寄りかかっている人間です。

*7:ここでの神義論に関わる話では、私は自身の経験とともに、岩田先生の考えに強く影響を受けいています。次を参照下さい。岩田靖夫、「レヴィナス哲学における「苦しみ」の意味 −レヴィナスの「神」再論−」、『思想』、岩波書店、2006年9月号、同じく岩田先生で、『三人の求道者 ソクラテス・一遍・レヴィナス』、長崎純心レクチャーズ 9、創文社、2006年。なお、私は立派な人間ではありません。

*8:分析系の哲学者は Dummett さんの神学をよく知らず、神学者神学者で Dummett さんの分析系の哲学をよく知らないというのが、実際の状況であるとの報告があります。次を参照下さい。Andrew Beards, “Dummett: Philosophy of Religion,” in Randall E. Auxier and Lewis Edwin Hahn ed., The Philosophy of Michael Dummett, Open Court Publishing, Library of Living Philosophers, vol. 31, 2007, pp. 863, 885.

*9:それらがどのように絡み合っているのか、現在の私の力量ではここに記すことができません。

*10:Dummett さんにおいて、実在の理解と神の存在とが切り離し難く結びついているとの指摘は、私個人の単なる思い付きではないことは、先の Beards 論文を参照下さい。そこではこうあります。‘In his contribution to the 1994 collection of essays he edited with G. Oliveri, “Time, Truth and Deity,” Brian McGuinness drew attention to remarks in unpublished lecture material in which Dummett had hinted at the idea of the need for God if a realistic conception of the world were to be grounded, and in his response to McGuinness Dummett argued that the naturalistic attempt to do without God will not work as an explanation.’ Beards, p. 864. また、Dummett 哲学の全体にとって、神の存在の問題が要を成しているとの主旨の指摘も、件の Beards 論文でなされています。“Further, as I have attempted to make clear in my discussion of the Gifford Lectures [These Dummett's Lectures have been published as Thought and Reality] one cannot understand the question of God's existence as something extraneous to Dummett's overall philosophical vision. For it is Dummett's contention that the philosopher's task of rendering explicit what is implicit in the language of human beings must inevitably result in the philosopher grappling with metaphysical questions and, he believes, fundamental among such questions is that of the existence of God.” Beards, p. 886. 但し、この Beards さんの発言にも、一定の留保が必要なことをここに付け加えておきます。Karen Green さんによりますと次のようです。やはり B. McGuinness さんの見解を参照しながら述べておられます。“He [Dummett] goes on to suggest that without a belief in God we can have no guarantee that there is a single world inhabited by various creatures whose experiential worlds are partial and limited. Elsewhere, however, he draws back from the conclusion that the postulation of God's existence would by itself justify bivalence, and hence realism.” Karen Green, Dummett: Philosophy of Language, Polity, Key Contemporary Thinkers Series, 2001, p. 94. いずれにしましても、Dummett さんにおける実在の理解と神の存在ついての考えが、互いに無関係だと最初から決めてかかる、あるいはそう思い込むのは、どうやら間違いでありそうです。なお一言正直に記しておきますと、私は先ほどから参照を指示しております Beards 論文をすべて読んではいません。読んだのは論文の前半と最後の部分だけです。これは私の怠惰からくるものであることを明記しておきます。