Is Frege's ‘Judgement-First’ Principle Anticipated by Kant's Conception of the Understanding?

先日、以下の本を読んでいると、

  • Mark Textor  Routledge Philosophy GuideBook to Frege on Sense and Reference, Routledge, Routledge Philosophy GuideBooks Series, 2010

意外と思える記述を眼にする。個人的に意外と感じただけなので、大して重要なことではないが、ただ手すさびにそのことを書き下してみる。


伝統的な論理学 (traditional logic) においては、論証を構成する文は、諸概念と copula を組み合わせて作り上げられるものとされている。まず概念どもがあり、それに copula を使って、概念どもを組み合わせ、文が作り上げられて、そのような諸々の文を並べて論証が構成されているものとされている。
一方、Frege においては、諸概念や copula が最初にあるのではなく、まず論証を構成する文があるとされ、これらの文のそれぞれを、その論証でなされていることを考慮しながら構成単位へと分解してやると、文を構成する概念等が得られるものとされている。
つまり、伝統的論理学では、概念どもを所与とする bottom-up 式の論証観に基付いて、文の構成が考えられているのに対し、Frege においては、一つのまとまりを持った文を所与とする top-down 式の論証観に基付いて、文の構成が考えられている。
概念を所与とする bottom-up 式の論証観の立場を‘Concept-First’ Principle と呼ぶことにし、対する top-down 式の立場を、Textor さんにならって、‘Judgement-First’ Principle と呼ぶことにすると、伝統的論理学では、‘Concept-First’ Principle が取られていたのに対し、Frege では‘Judgement-First’ Principle が取られていたと言える。そしておそらく Frege 以前には‘Judgement-First’ Principle に基付いて論理学を建設した者はいなかったものと推測される。
これ以上これらの詳細ついては、Frege をいくらか学んだことのある者には周知のことであろうから、多言しないことにする。


さて、上記の Textor さんの本を読んでいると、次のような記述に出会った。引用してみよう。原文に付されている註は省いて引用する。この引用文中の‘[ ]’は原著者によるもの、‘[ [ ] ]’は引用者による。

Frege's idea to prioritise judgement and judgemental content in logical theorising is revolutionary. Surprisingly, the idea that sparks the revolution can already be found in Kant. When reading Kant the following sentences will have struck Frege.


We can reduce [‘zurückführen’] all actions of the understanding [‘Verstand’] to judgements, so that in general the understanding can be seen as the capacity for judging. […] Thinking is recognising by means of concepts. Concepts as predicates of possible judgements refer to ideas of a yet undetermined object. For instance, the concept of body refers to something, say, a metal, which can be recognised by means of this concept. […] It is therefore a concept of a potential judgement, for example, that metal is a body. Hence, the function of the understanding can all be found if one can represent the functions of the unity in judgement in total.  (Kant 1781/7 [ [Kritik der reinen Vernunft] ] :A 69. My translation.)


While the detail of this passage is hardly clear, its general thrust is difficult to miss: concepts are to be understood as predicates of possible judgements, not: judgements are to be understood as actual combinations of concepts. Judgement comes therefore in the order of explanation before concept. For Kant, this is a particular application of the general principle that all mental acts are contributions to judgements and must be understood therefore by taking judgement as primitive. Frege argues in Begriffsschrift that Kant's classificaiton of judgemnts in terms of quality, quantity, relation and modality is too baroque. But he follows Kant's ‘judgement-first’principle in logic: all logical activity can be explained by taking judgement to be logically primitive.*1

これを読むと、先ほど述べた‘Judgement-First’ Principle は、Frege が最初に思い付いたのではなく、Kant が先だ、とのことである。これはちょっと驚いた。Kant が先に‘Judgement-First’ Principle を表明し、これに従ったのが Frege だ、とのことである。本当だとすると、すごく意外である。

上記引用文中には Kant の『純理』からの引用が入っている。そこで念のために、その『純理』からの引用を、和訳で本文を省くことなく引いてみよう。和訳中にある註の類いは省いて引用する。和訳文に付された傍点は、引用に際し、太字で記している。

しかし私たちは悟性のすべての働きを判断に還元することができ、したがって悟性は総じて判断する能力として考えられうる。なぜなら、悟性は前述のとおり思考する能力であるからである。思考は概念による認識である。しかし概念は、可能的判断の述語として、まだ規定されていない対象についてのなんらかの表象と連関する。そこで物体という概念は、この概念によって認識されうる或るものを、たとえば金属を意味する。それゆえ物体という概念は、この概念のもとに他の諸表象を含んでいて、それらの諸表象を介してこの概念が諸対象と連関しうることによってのみ、概念となるのである。それゆえ物体という概念は、可能的判断、たとえば、あらゆる金属は物体であるという判断のための述語である。したがって悟性の機能は、判断における統一の機能が完璧に示されうるなら、ことごとく見いだされうる。*2

この Kant の文を読むと、概念よりも判断・文の方が論理的に先行すると述べているかのようである。「それゆえ物体という概念は、この概念のもとに他の諸表象を含んでいて、それらの諸表象を介してこの概念が諸対象と連関しうることによってのみ、概念となるのである。」という一文などは、述語は、文という連関においてのみ、述語となるのである、と述べているかのようで、これはどこか文脈原理をほうふつとさせるものがあるとまで、言えるかもしれない。
確かに Frege を先取りするような叙述を Kant はなしていたと、上記の引用文から推測できるような感じであるが、正直に言うと、上の Kant の文章では、正確に言って何が言われているのか、私の貧弱な能力では、はっきりしない。Kant を勉強されている方ならわかられるだろうが、Kant に無知な私には、件の Kant の文が確かに Frege の idea を先取りしているとは断言できないでいる。私には、先取りしているような気もするし、先取りしていないような気もする。
そもそも哲学上のある idea に、かつてそれを思い付いた先行者がいるという話はしばしば聞くものである。Socrates/Plato, Aristotle, Thomas, Descartes, Kant, Hegel などが既にそのような idea を思い付いていたと言われても、驚きはしない。彼らは何といっても哲学の巨人であり、豊饒な idea を持ち合わせていただろうから、彼らの著作や遺稿のどこかで似たようなことを述べていると言われても、特に不思議なことではないだろう。だから Frege の idea の先行例が Kant にあると言われても不思議ではないかもしれない。が、本当の先行例になっているかどうかは、単にかりそめに似たようなことを言っているというだけでは、先行例だとは断言できないだろう。ある idea の先行例であるためには、その先行例が件の idea を、少なくとも、正確・詳細・体系的に叙述していなければならないと思われる。似ているだけで正確にそっくりだとは言えない、一言二言述べているだけで詳しい話はなされていない、他の諸概念との関連が明示されていない、というようなことであれば、先行例と断定するには不充分である。上記の Kant はどうであろうか?


ところで Textor さんの引用文に付された註では、以下の本を参照するようにとの指示がある。

  • Tyler Burge  Truth, Thought, Reason: Essays on Frege, Oxford University Press, 2005

そこで、指示されている箇所の前後を、次に引用してみたい。原文中にある註は省いて引用する。

 Frege also realized that to carry out the logicist project, he needed to understand the logical structure of principles of mathematics and logic in a sufficiently definite way to be able to carry out the relevant proofs. This realizaiton led Frege to three of his deepest insights. […]
 The three key insights are [the following]:


(1) Thought is fruitfully understood by reflecting on language.
(2) One understands the structural nature of thoughts and components of thoughts not by taking those natures for granted, nor by relying on simple intuition about grammar or thinking, nor by invoking general philosophical dicta, but by reflecting discursively on a large number of deductive inferences among sentences.
(3) The key to understanding such structure lies in understanding the contribution of such components to determining truth conditions and to preserving truth in deductive inference.


 These three insights came to dominate twentieth-century reflection on language and thought. They have proved to be fruitful and genuine. They have had their effect in tandem. The first insight led to the fruitful work in philosophy that I mentioned earlier. It also led to explosive developments in linguistics, psycholinguistics, and cognitive psychology. But it would not have had its effect if it had not been linked with the second and third insights.
 The second and third insights had already been enunciated by Kant, at least in germ. Kant held that concepts are essentially predicates of judgment. He held that judgment aims at truth and is essentially propositional. Thus he regarded components of thoughts as having their function and structure only in the context of propotional judgment and inferences among judgments.
 It is likely that Frege's insights gained something from his exposure to Kant. But Frege's insights in this domain went deeper than anything one finds in Kant, or anyone else before Frege. Frege applied the second and third insights with a rigor and system that were simply unprecedented. Frege had a full, precise logic to work with. Through this means he gained a grip on the nature of numerous logical inferences that no one before him had. Frege applied the method of investigating the sub-structure of thoughts and sentences in a systematic and detaild way. This application made the insights come to life in accounts of the contributions of specific structures to specific inferences. Frege also combined the second and third insights with the first. He centered his reflection on thought in an investigation of language. This provided reflection with a concreteness of application not easily obtained by other means.*3

この引用文の後半を見ると、Burge さんが、Frege によるいわゆる‘Judgement-First’ Principle の先蹤を Kant に見ておられることがわかる。しかし、Burge さんはそのことに一応きちんと留保を付けておられて、その先蹤というものは萌芽的なものでしかなく、Frege の方がずっと深い洞察をたたえており、その洞察の鋭さと体系性は前例がなく、かつ詳細である、と記しておられる。これは、Textor さんよりも、恐らく、妥当で穏当な判断だと思われる。*4


しかし、ここであれこれ言っていても仕方がない。なされるべきは、上記の Textor さんの引用文の最後近くで触れられているように、Kant の論理学講義録などにおいて、Kant が実際に Frege に負けないぐらい、あるいは Frege をはるかに超えて、正確・詳細・体系的に、‘Judgement-First’ Principle に基付いて、論理学を構築・展開しているかどうかを、まずは確認することだろう。その中で‘Judgement-First’ Principle に基付いて、充分に論理学が展開されているようならば、Kant は今述べている事柄について Frege の先駆をなしていたと主張して構わないだろうし、さもなければ、せいぜいのところ、Burge さんの記述を上回るようなことはないことになるだろう。そして Kant の論理学講義録などは邦訳もあったはずだから、確認することはたやすいと思われる。だけどそれはちょっと今の私には面倒なので、また機会があれば確認することにしたい。まぁ、面倒とか言っている場合ではないだろうけれど…。


いずれにせよ、論証を構成している文が、概念などからの bottom-up として考えられるのではなく、論証を成している文を第一に取って、そのまとまりある文から top-down 的に概念などを析出するという、論理学の構成観が、Frege を始祖とするのではなく、その淵源を Kant に見ることができるとするならば、それはそれで興味深いことだと思われます。


PS
上で記した Burge さんの引用文は、原文を大幅に省略して引用している。引用文の初め辺りの ‘[…]’ というところで大きく省略している。しかし、この省略箇所は、今までの話に直接は関係しない事柄も語られているが、Frege の思考パターンを動機付けていたものは何なのか、また Frege は何に導かれて彼のかくあるような思考パターンへと至ったのか、そのことがよくわかる話となっていて、簡にして要を得ており、一読に値すると個人的に思われる。そこでその省略した文を、参考までにここに掲載しておきたい。以下での引用文の掲載は、省略箇所の前から始めることにする。


なお、引用文掲載の前に、その引用文の大意を、英文の理解の補助のために、日本語で記しておく。この大意は、引用文の内容を換骨奪胎して再構成・補足したものである。とはいえ、この大意に見られるような要約が正当なものであるかどうかは、最終的には以下の英文の引用文を各自読まれて判断して下さい。
あらかじめ明記しておくと、次の大意の中で言いたいのは要するに、Frege が論理主義を遂行するに際し必要だったのは、文の論理的構造を理解することだったのであり、そのためにはその文の部分がその文の真理条件にいかに寄与しているのか、またその文の論理的構造が証明中において真理の保存にいかに寄与しているのか、これらの二つを合わせて理解する必要があり、そのためには証明の構成要素の構造的パターンを体系的に把握する必要があるということであった、となる。


大意:
Frege は論理主義を遂行するに当たって、数学や論理学の諸定理を充分明確に証明してみせるために、それら諸定理の論理的構造を理解する必要があった。それらの各定理が述べていることは思想である。思想は文によって最も明瞭に表される。今ここで取り上げられる文は、論理学によって証明にかけられる文である。したがってその文において注目されるべきは、その論理的側面である。そこで文の論理的構造を理解するためには、その文を成立せしめている、文の構成部分の論理的構造を理解する必要がある。加えて、今問題とされる文は証明において現れる文である。この文は証明において他の文との関係に置かれている。よって、今問題とされる文は、それ単独で問われるべきではなく、証明中における他の文との関係を考慮して、その論理的構造を考えねばならぬ。証明において重要なのは、それが妥当な証明となっている場合、証明の前提を成す諸文の真理が、結論となっている文の真理へと保存されるということである。こうして思想が最も明瞭に表される文の論理的構造を理解するためには、その文の構成部分が、いかにしてその文全体の真理の条件に寄与しているのかを理解することと、この文の論理的構造が、いかにしてこの文が含まれる証明における真理保存の構造的パターンに寄与しているのかを理解すること、これらのことを理解することが重要である。比喩を交えて言い換えると、文の構成部分が、いわば垂直的にその文全体の真理条件に寄与している様を理解することと、その文が、いわば水平的に前提から結論へと真理を保存する様を理解すること、このような二重の関係を考慮して、文の論理的構造を理解することが必要なのである。ところでいかなる文も一つの論証の中に取り込みうることから、取り込まれた数多くの文の組み合わせを体系的に調べることにより、そうでなければ目立たなかったであろう構造的パターンが把握可能となる。したがって文の論理的構造を理解するためには、証明の構成パターンを体系的に考察する必要があるのである。

 Frege also realized that to carry out the logicist project, he needed to understand the logical structure of principles of mathematics and logic in a sufficiently definite way to be able to carry out the relevant proofs. This realizaiton led Frege to three of his deepest insights. These insights can be usefully seen as part of the following idealized reasoning (though I do not claim that Frege used precisely this reasoning). Thoughts or principles are most perspicuously expressed in sentences. Reflectively understanding the logical form or logical structure of sentences requires understanding the logical structure of their component parts. Logical structure is revealed in the way that good deductive inference hinges on structure. So understanding logical structure of sentences and their component parts depends on understanding the structure of good deductive inference. Understanding the structure of deductive inference depends on systematic reflection. For logical inference can combine any sentences or thoughts in a single argument, and by looking at numerous combinaitons one recognizes structural patterns that otherwise would not be salient. So to understand logical structure of sentences and their component parts, one must reflect on the way that sentences enter into a wide range of inferential combinations. The point of inference is to preserve truth in making transitions from true premises to true conclusions. So in reflecting on linguistic structure as it is revealed in inference, one should focus on the contributions of elements in such structure to determining the truth of sentences and to preserving the truth of sentences in inference. So to understand reflectively the structure of sentential parts, one should reflect systematically on their contribution to conditions under which sentences count as true, and thus on their contribution to determining conditions under which truth is preserved in deductive inferences.*5


論理的構造を体現している思想とは何かという疑問に対し、思想そのものをそのまま見るのではなく、思想の下部構造や、思想が置かれる脈絡を考慮してやること。あるいはより一般化して言うならば、文のいみとは何かという疑問に対し、いみそのものをそのまま見るのではなく、文のいみの下部構造や、文のいみが置かれる脈絡を考慮してやることが重要であるということ。平たく言い換えれば、あるものをそのまま見るのではなく、他のものの中で見ること、他のものとして見ること。ここには、少し深読みをしてやるならば、幾何学図形をそのまま見るのではなく、代数方程式に変えて見てやるというような、数学者がよくやる思考のくせ・傾向に通じるものを見ることができるのではないかと思われる。その点で、やはり Frege の思考パターンの背景には数学があったと言えるのではないかと思われる。


以上、長々と書いて、見直していないから、誤字・脱字や無理解な記述が散見されるかもしれない。そうでしたらここでお詫び申し上げます。

*1:Textor, pp. 64-5.

*2:イマヌエル・カント、『純粋理性批判 上』、原佑訳、平凡社ライブラリー527、平凡社、2005年、211-12ページ。

*3:Burge, pp. 13-15.

*4:因みに、次の論文を調べてみると、Göran Sundholm, “A Century of Judgment and Inference, 1837-1936: Some Strands in the Development of Logic,” in Leila Haaparanta ed., The Development of Modern Logic, Oxford University Press, 2009 の p. 267 で、Sundholm さんは Textor さんが引用した Kant の『純理』の部分と同じ部分(Kritik, A 69.)を少しばかり引用して、Sundholm さんも‘Judgement-First’ Principle の先蹤を Kant に見ることに支持を表明されていると読める。しかし、Sundholm さんの Kant の話は、ほんの数行で、詳しい話は何もなされていない。なお、Sundholm さんによるこの論文については、この論文が収録されている本の index を使って Sundholm 論文内の Kant の名前の部分を調べただけで、不勉強なことに、論文全体は未読であることをここに言い添えておく。さらに補足しておくと、Sundholm さんには次のような論文もある。Goran Sundholm, “A Century of Inference: 1837-1936,” in P. Gärdenfors, J. Wolenski, K. Kijania-Placek ed., In the Scope of Logic, Methodology and Philosophy of Science, Volume Two of the 11th International Congress of Logic, Methodology and Philosophy of Science, Cracow, August 1999, Springer, Synthese Library, vol. 316, 2003. この論文については以前に全部読んで、面白かったという思いを持っている。但し、内容をすっかり忘れてしまている。論文も copy の山の中に埋もれてしまって探し出すのが大変なので、こちらの論文については今調べることができない。しかし前の方の Sundholm さんの論文名とタイトルがかなりそっくりなので、内容も似ているものと思われるが、後者の論文の方が前者の論文よりもずっとページ数が少なかったと記憶している。

*5:Burge, p. 13.