Holes of Georg Christoph Lichtenberg

全く些細なことを一つ。落ちのない話。


しばらく前に、次のような文を読んだことがある。穴というものが私たちの人生や身の回りで、とても身近にあるものでありながら、それがどのようにあるのかを考えてみれば、なかなか答えるのが難しいところがあると述べられている。

ゆりかごから墓場まで」という政治スローガンを抽象化すると、「穴から穴まで」ということである。つまり私たちの一生は、ゆりかごの窪み(という穴の一種)の中で始まり、墓穴という空洞の中で終わる。そしてその間、大半の時間を室内で過ごすとすれば、「部屋」というこれまた一種の空洞の中で一生が費やされることになる。[…]
また、私たちの身体自身が、無数の穴から成り立っている。口から食道、胃、腸を経て肛門へと至る消化・排泄器官の営みは、それらがトンネルという種類の穴として外界と繋がっているからこそ可能なのであり、また心臓を起点・終点として張り巡らされている動脈・静脈の血管網も、すべてがトンネルである。鼻の穴、気道、肺から成る呼吸器官も、それを窪みと見るべきかトンネルと見るべきか微妙なところはあるが、やはり穴である。さらには、無数の毛穴(という窪み)、気孔(というトンネル)、無数の細胞(という空洞)など、よりミクロな生命組織のレベルに迫れば迫るほど、多種多様な穴の集合体であるということが私たちの身体の本質であるとさえ言いたくなるだろう。
さらに、私たちの周りを見回してみれば、洞穴、窪地、谷間、盆地、川、池、湖、海溝など、多くの自然的対象は穴である。そして人工物にしても、[…] 穴だらけである。
このように、世界は穴で充ち満ちている。しかし他方、穴ほど「存在感」のないものも珍しい。穴など存在しない、少なくとも「実在」しない、と言いたくなる要因は山ほどある。穴を穴たらしめる一つの本質的要件は、そこに何もないということである。穴は無によって存在する、という逆説的構造がそこにはある。また、穴が存在するとすれば、それは時空間の中に存在する以上、「具体的な対象」であるはずである。しかし、それは「物理的な対象」すなわち、「物体」であると言えるだろうか? むしろ物体の欠如によってこそ穴たり得るのだとすれば、やはり物体とは言えないのではないか。もしも言えないとすれば、穴の存在を承認することは、「非物理的な具体的対象」の存在を承認するということになる。現代に生きる多くの物理主義者にとって、そのような穴という存在者は容認しがたいものであるはずだ。*1


Wittgenstein が、aphorism という文体を獲得するのに影響力のあった Georg Christoph Lichtenberg について、今日、少しだけ調べていると、次のような文章に出会った。これは Lichtenberg の言葉である。

「この世のもっとも重要な事柄は、ことごとく管(くだ)を通してなされる。生殖器、ペン、銃をみよ。まったく人間は、こんがらがった管の束にほかならない」*2


Wittgenstein なら穴について、どのような寸言を提供してくれるだろうか?


(Lichtenberg の言葉は、記憶に基付いて記しているので、もしかすると細部は違っているかもしれない。)

*1:加地大介、『穴と境界 存在論的探究』、シリーズ 現代哲学への招待、春秋社、2008年、33-35ページ。

*2:池内紀、『ぼくのドイツ文学講義』、岩波新書、新赤版 428、岩波書店、1996年、9ページ。