治安維持法再び…。

治安維持法は、戦前の恐ろしい法律として知られていると思います。しかしこの法律が、短期間ながら、戦後になってもその効力を維持していたことは、多分ですが、あまり知られていないことだと思われます。しばらく前に、本を読んでいて、私自身そのことを教えられて驚いたことがありました。このことについては当日記の2006年6月18日に記しています。一部を抜粋しますと次の通りです。

[Café で以下の本を拾い読みした。]

とても面白い。[…] 意外に感じたことを一つ記しておく。

佐藤 卓己、『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』、ちくま新書筑摩書房などで8・15の神話が語られたりしていますが、上記奥平先生の著書をめくっていて意外だったのは、8・15でも9・2を過ぎてもまだなお、あの治安維持法が効力を持っていたということです。この法律が明示的に失効を宣言されたのは、どうやら10月4日のGHQによる通牒もってのことのようである*1。それまでは敗戦の日を過ぎても、思想的に問題があると当局がみなした者は、この法をもって逮捕すると公然と言明する大臣もいたほどである*2。戦争が終わってなおもこの法律は生きていて、大臣自らまだこの法律を振り回していたのである。恐ろしい…。私にとってはこれこそが神話に思える。


ところで今朝、以下の書評を毎日新聞の internet 版で拝読させてもらいました。

これを読んでいて驚いたのは、大逆事件の法的根拠となった法律条文が、実は戦後になっても割と長い間、維持されていたという話が出てきます。その部分を引用してみます。

ところで、この全国各地で数百名が検挙され、うち二六人が有罪判決を受けたこの事件は、なぜ「大逆事件」と呼ばれるのか。それは当時の刑法に第七三条「大逆罪」があるからだ。七三条は、天皇太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、皇太孫に対して危害を加えた者、あるいは加えようとした者は死刑にする、と定めている。危害を加えようとしたかどうかを「聞取書」で作成すれば、何もしていなくとも死刑にできる。この法律は一九四七年一〇月まで残っていた。

終戦・敗戦後、2年以上もこの法律は生きていたようである。恐ろしい…。これこそが神話である。そこで田中伸尚先生の著書を本日書店店頭で拝見させていただいた。その本の「プロローグ」の部分を見ると、昭和天皇人間宣言を行い、現憲法が公布されたのは1946年のことであるが*3、その後でもまだ大逆罪の条項は生きていたことがわかる。本当に恐ろしい…。これこそ神話の中の神話だと思われます。冗談抜きに怖い…。治安維持法といい、大逆罪の条文といい、油断がならないですね。気を付けなければいけないな、色々ないみで…。


PS
以下の一文は、細かな話であり、事の本質に沿ったものではないので、読まれる場合でも、軽く読み流す程度にとどめておいて下さい。


ところで、上記田中伸尚先生のご高著の「プロローグ」の部分を拝見させていただいていると、「おやっ?」と感じたことがあったので、一つ記しておきます。この本の5ページの部分を見ていると、大逆事件が戦後になって初めて一般の目に触れる形で伝えられたのは1946年末のことで、宮武外骨編、『幸徳一派大逆事件顛末』によってであると記されています。この文献について私の方で Webcat を使い調べてみると、1946年12月に刊行されたものだとの情報が出てきます。
一方、最近アテネ文庫が複数点復刊され、その中に次のような本が含まれています。

この本には巻末に大逆事件連座した当事者による、当時を回顧する鼎談が含まれていて、もともとこの鼎談は、高知新聞社刊行の『月刊高知』という文献の1946年11月号にその抄録として掲載されていたらしい*4。ということは、宮武外骨編の文献よりも、こちらの『月刊高知』の方が世間に公表されたのは一足早いということになる。とはいえ、当時『月刊高知』がどれほど広い範囲に渡って販売されていたのかまでは、私は調べておりませんので、たとえほんの少し『月刊高知』の方が大逆事件について人々に伝えることが早かったとしても、それが充分「一般の目に触れる形で伝えられた」のかどうかまでは、何とも言えないかもしれません。宮武文献の方が、よく読まれたということがあったかもしれません。ただ、歴史的な時系列上は、恐らく『月刊高知』の方が先だったと推測されるのですが…*5
なお付記しておきますと、私は大逆事件については、詳しいことは何も知りません。不勉強なことに、この事件に関する本や論文は、一つも読んだことがありませんので、以上の記述に関し、間違っていましたら大変申し訳ございません。あらかじめお詫び申し上げます。
最後にもう一つだけ記しておくと、net で『月刊高知』について検索してみたら、関係ないことですが、意外なことを一つ知る。アンパンマンという絵本・アニメーションがあるようですが、その作者であるやなせたかしさんは、戦後高知新聞社に入社し、『月刊高知』の編集に携わっていたことがあったそうです。しかも1946年のことらしい。そうすると、大逆事件の記事もお読みになられていたかもしれませんね。実は当人がその記事を編集していたりしたら、何だかちょっと驚きですが。

*1:奥平、284ページ。

*2:奥平、282-283ページ。

*3:そして施行されたのは1947年5月のことのようである。

*4:幸徳・中島、20-21ページ参照。

*5:但し、宮武文献が Webcat の情報通り、本当に1946年12月に刊行されているものとし、『月刊高知』 1946年11月号が当年の11月、または雑誌の出版形態の慣行から言って、そのおよそひと月前の10月に店頭に並べられていたとするならば、という条件付きです。あるいはそもそもこれらの文献よりも先に件の事件について詳報している出版物が他にもあったかもしれません。そこまではちょっと私は調べておりません。