以下の話は、次の本の該当箇所を読んで感じたことをまとめてみたものである。
- Mark Textor Routledge Philosophy GuideBook to Frege on Sense and Reference, Routledge, Routledge Philosophy GuideBooks Series, 2010, pp. 87-89.
私の話には、例によって、目新しいことは何も書かれていない。私が今まで知らず、今回初めて学んだことを書き記してみたまでである。少し長い話なので、読まれる場合には、その点、ご了承下さい。
さて、文を分析する際に、文の部分を切り出す仕方はいくつかある。例えば次の英文
-
- Socrates is wise.
を、いくつかの部分に分ける場合には、文を構成している単語をひとまとまりと見て、単語の内部を区別することをしなければ*1、少なくとも三通りある*2 *3。
1. Socrates, is wise.
2. Socrates is, wise.
3. Socrates, is, wise.
一般に分析哲学においては通常 1. のように分けられる。2. や 3. のように分けられることは、一部の例外を除いて、あまりない*4。
なぜ 1. のように分けるのだろうか? なぜ、他でもない 1. なのだろうか? そもそも、1. のように分ける可能性を真剣かつ本格的に展開し出したのは、恐らく Frege が最初であろうから、どういう考えをもとに 1. のように区分けし出したのか、その理由を、あるいはその背景を、Frege に聞いてみるのも一つの手である。では Frege は何と言っているのだろう? 以下に Frege の発言を二ヶ所引いてみよう。まずドイツ語原文を掲げ、次に日本語訳を掲げる。最初に Begriffsschrift から。
(1)
Für uns haben die verschiedenen Weisen, wie derselbe begriffliche Inhalt als Function dieses oder jenes Arguments aufgefasst werden kann, keine Wichtigkeit, solange Function und Argument völlig bestimmt sind. Wenn aber das Argument unbestimmt wird wie in dem Urtheile: „du kannst als Argument für „„als Summe von vier Quadratzahlen darstellbar zu sein““ eine beliebige positive ganze Zahl nehmen: der Satz bleibt immer richtig“, so gewinnt die Unterscheidung von Function und Argument eine inhaltliche Bedeutung. Es kann auch umgekehrt das Argument bestimmt, die Function aber unbestimmt sein. In beiden Fällen wird durch den Gegensatz des Bestimmten und Unbestimmten oder des mehr und minder Bestimmten das Ganze dem Inhalte nach und nicht nur in der Auffassung in Function und Argument zerlegt.*5
同じ概念内容をあれこれの項の関数として解釈するそのさまざまな仕方は、関数と項が完全に定まっている限り、われわれにとって少しも重要性をもたない。だが、「「四つの平方数の和として表すことができる」に対する項として、任意の正の整数を取ることができ、かつその命題はつねに正しい」という判断の場合のように、項が定まっていないときには、関数と項の区別は内容的な意味をもつ。逆にまた、項は定まっているが、関数は定まっていないということもある。二つのケースにおいては、定まっているものと定まっていないものとの、あるいはより多く定まっているものとより少なく定まっているものとの対比によって、全体は、解釈においてだけでなく、内容に従って、関数と項に分解されるのである。*6
「同じ概念内容をあれこれの項の関数として解釈するそのさまざまな仕方は、関数と項が完全に定まっている限り、われわれにとって少しも重要性をもたない」という文の、関数と項が完全に定まっている概念内容とは、私たちの場合で言うと、英文 ‘Socrates is wise’ のいみ内容のことである。Frege によると、関数と項が定まっている文については、それをどのように分割しようとも、重要性がない。つまり、私たちの場合では件の英文については、それを 1, 2, 3, いずれのように分割しても、どれでなければならないという重要性はない、要するにはっきり言ってどれでもよいということである。しかし、上記引用文に挙げてある例文「「四つの平方数の ... 」を検討してみたならば、一般性・普遍性というような量化が問題となる時、すなわち「項が定まっていないときには、関数と項の区別は内容的な意味をもつ」ということである。つまり量化が問題となっていない時には、文をどのように分割するかは重要性を持たないが、量化がかかわってくると文の分割は恣意的にはできない、その内容に従って分割されねばならぬ、ということである。では量化がかかわる時とは具体的にどういう場合であり、それはその際どう分割すればよいのだろうか? 再び Frege の言葉に耳を傾けてみよう。
(2)
Dadurch, dass wir in dem Satze
„Wenn grösser ist als 2, so ist grösser als 2“
den unbestimmt andeutenden Buchstaben 》a《 der Reihe nach ersetzen durch die bestimmt bezeichnenden Zahlzeichen 》1《, 》2《, 》3《, erhalten wir die Sätze
„Wenn 1 grösser ist als 2, so ist grösser als 2“,
„Wenn 2 grösser ist als 2, so ist grösser als 2“,
„Wenn 3 grösser ist als 2, so ist grösser als 2“.
Die in diesen ausgedrückten Gedanken sind besondere Fälle des allgemeinen Gedankens. […]
Hier werden wir zuerst veranlasst, einen Satz in Teile zu zerlegen, von denen keiner selbst wieder ein Satz ist. In dem allgemainen satze haben wir nämlich einen Teil, dem in den zugehörigen besonderen Sätzen kongruente Teile entsprechen, und einen Teil −in unseren Fällen ist es der Buchstabe 》a《−, dem in den besonderen Sätzen nichtkongruente Teile −die Zahlzeichen 》1《, 》2《, 》3《− entsprechen. Diese Satzteile sind ungleichartig. Derjenige, in dem der allgemaine Satz mit den zugehörigen besonderen Sätzen übereinstimmt, weist Lücken auf, nämlich da, wo der andere Teil des Satzes, etwa das Zahlzeichen 》1《, steht.*7
次の文において我々が、不確定に暗示する文字 ‘a’ を、
「もし が 2 より大ならば、 は 2 より大である」
順に、確定的に表示する数字 ‘1’、‘2’、‘3’ によって置換することによって、我々は次のような文を得る。
「もし 1 が 2 より大ならば、 は 2 より大である」
「もし 2 が 2 より大ならば、 は 2 より大である」
「もし 3 が 2 より大ならば、 は 2 より大である」。
これらにおいて表現されている思想は、普遍的思想の特定の場合である。 […]
ここで初めて我々は、一つの文を、そのいずれもが再びそれ自身は一つの文ではないような部分へと分析するように、誘われる。つまり、普遍文においては、関連する特定文中で一致する部分がそれに対応する部分と、特定文中では一致しない部分 −数字 ‘1’、‘2’、‘3’ − がそれに対応する部分 −我々の場合では文字 ‘a’ がそれである− とがある。これらの文部分は、異種的である。普遍文が関連する特定文と一致する部分は、空所、つまり、その文の他の部分、例えば、数字 ‘1’ が入る場所、を示す。*8
ここで Frege は、文「もし が 2 より大ならば、 は 2 より大である」から、「もし 1 が 2 より大ならば、 は 2 より大である」、... , へと論を進めているが、この推移は素直に読めば普遍例化則による論証を表しているものと思われる。普遍性を表す文から、その特殊例を表す結論となる文を多数導き出している訳である。このようにして導出される複数の文と、元の普遍性を表す文とを見比べてみた場合、普遍性を表す文と特殊例を表す文との間で、表現が一定のまま変化していない部分と (「もし が 2 より大ならば、 は 2 より大である」)、その都度変化している部分 (‘a’ がそれぞれ ‘1’、‘2’、‘3’ へと変化している部分) とがあることがわかる。このような見た目の変化から、特殊例を表す文は、不変である部分と変化する部分とに分割できる、分割することを私たちは求められている、と Frege が考えていることが読み取れる。
上の (1) の引用文で Frege は、量化がかかわってくる場合、文の分割は恣意的になされてはならず、その文の内容に従って分割されねばならないとしていた。今の引用文 (2) からわかることは、ある文が量化にかかわってくる場合というのは、普遍例化則に基付く論証の結論になっているという形でその文は量化にかかわってくるということであり、このような場合、その論証の前提と結論とを見比べてみた時に、不変である部分と変化している部分とを check することで、分割するための区切りを入れる場所が明らかになるということである*9。
この話の最初に挙げた私たちの英文 ‘Socrates is wise’ を使って説明してみるならば、この英文を先の 1. ‘Socrates, is wise’ のように分割することがしばしばなされるのは、Frege の説明によると、私たちはたびたび ‘Everyone is wise,’ ‘Someone is wise’ ということを英文 ‘Socrates is wise’ の念頭において、あるいは背景として、‘Socrates is wise’ を見ているから、もしくはそう見ようとする場合に 1. ‘Socrates, is wise’ のように分割することが通常なされるのだ、ということになるだろう。従って、‘Socrates is something/somebody’ という言い方が普段なされるのか、私はよく知らないが、しかしそのような表現が許されるならば、その場合には英文 ‘Socrates is wise’ は、1. ‘Socrates, is wise’ のようにではなく、2. ‘Socrates is, wise’ のように分割されることになると考えられる。また、‘Someone is something’ という言い方も普通なされるのかよく知らないが、そのような言い方がありうる場合、この言い方を念頭に置くならば、3. ‘Socrates, is, wise’ という分割も許される可能性があることを Frege の説明は示唆しているものと思われる。
こうして Frege の説明を聞いてくると、文の分割の仕方というのは、その文を帰結として導き出してくる、量化を伴った論証の結論となっているという形で、その文が量化にかかわりを持つ場合に、量化されるところと、されないところという点から、その文の分割の仕方は決まってくるということである。簡単に言えば、量化や普遍性が、論証の過程の中でかかわってくる時、その文の分割の仕方が決定されるということである。
さて、文の分割の仕方が、先ほどからの私たちの例 1, 2, 3 のいずれになるのかということの基準の探究は、一人 Frege のみが考察したのではなく、他にも取り組んだ人物がいる。Textor さんの件の本の87ページを見ると、そのような人物としてF. P. Ramsey に言及されており、Ramsey の文章を一部引用されている。そこでこの Ramsey の文を、一部のみならず該当する箇所のすべてに渡り、以下に引用してみよう。
Let us consider when and why an expression occurs, as it were, as an isolated unit. For instance ‘aRb’ does not naturally divide into ‘a’ and ‘Rb’, and we want to know why anyone should so divide it and isolate the expression ‘Rb’. The answer is that if it were a matter of this proposition alone, there would be no point in dividing it in this way, but that the importance of expressions arises, as Wittgenstein points out, just in connection with generalization. It is not ‘aRb’ but ‘(x).xRb’ which makes Rb prominent. In writing (x).xRb we use the expression Rb to collect together the set of propositions xRb which we want to assert to be true; and it is here that the expression Rb is really essential because it is this which is common to this set of propositions.*10
上記の Frege の説明を聞いた後であるならば、Ramsey が言わんとしていることは、厳密に追究することをひとまず置いておけば、大体のところ、わかるというものであろう。そのためここでは Ramsey の話については詳説しない。
この Ramsey の文で、私に意外に思われたのは、文の分割の仕方に関し、Ramsey は Frege とよく似た見解を知っていたということである。このことは私は Textor さんの文章を読むまでまったく知らなかった。しかも Textor さんは上記の Ramsey の文を引用する際に省いておられるが、このよく似た見解というものは、Ramsey の場合、Wittgenstein に由来するということである。これも Ramsey の文章を読むまではまったく私は知りませんでした。ここから文の分割の仕方に関しては、恐らくながら、次のような流れを認めることができるかもしれません。
-
- Frege → Wittgenstein → Ramsey
但しもちろんここに Russell などが介入しているかもしれないという可能性はあるので、この流れは暫定的な推測を表しているにすぎません。
ところで直近の引用文で Ramsey は ‘as Wittgenstein points out,’ と述べているだけで、その出典を明示していません。そこでどこで Wittgenstein は件のような指摘をしているのだろうかと調べてみた。とは言っても本格的・全面的に調べてみた訳ではない。ただ単に Tractatus を少しばかりひも解いてみただけである。だから極めて不充分な調査でしかないことを、ここに記しておく。いずれにせよ、Tractatus をぱらぱら眺めてみたのだが、そのものズバリという表現を私には見つけることができなかった。しかし非常に近い発言で、恐らくこれだろうというところは判明した。それは3.3もしくは3.31から、3.318に渡る部分である。次にその部分の German original version と、Ogden (and Ramsey) 英訳版、Pears and McGuinness 英訳版、そして野矢先生和訳版を上から順番に並べてみる。野矢先生以外の version は、すべて Kevin C. Klement 先生の HP から拝借させていただいた。大変助かりました。ここに記して感謝申し上げます。なお、独文中の隔字体は引用に際し italics に改めてある。野矢先生の和訳中にある傍点を付された文字は太字に改めてある。最後に野矢先生の訳文にある括弧「〔 〕」は先生による挿入である。
3.3
Nur der Satz hat Sinn; nur im Zusammenhang des Satzes hat ein Name Bedeutung.
Only the proposition has sense; only in the context of a proposition has a name meaning.
Only propositions have sense; only in the nexus of a proposition does a name have meaning.
命題のみが意味内容をもつ。名は、ただ命題という脈絡の中でのみ、指示対象をもつ。
3.31
Jeden Teil des Satzes, der seinen Sinn charakterisiert, nenne ich einen Ausdruck (ein Symbol).
Every part of a proposition which characterizes its sense I call an expression (a symbol).
I call any part of a proposition that characterizes its sense an expression (or a symbol).
命題の意味を特徴づける命題の各部分を、私は表現 (シンボル) と呼ぶ。
(Der Satz selbst ist ein Ausdruck.)
(The proposition itself is an expression.)
(A proposition is itself an expression.)
(命題自身が一つの表現である。)
Ausdruck ist alles, für den Sinn des Satzes wesentliche, was Sätze miteinander gemein haben können.
Expressions are everything—essential for the sense of the proposition—that propositions can have in common with one another.
Everything essential to their sense that propositions can have in common with one another is an expression.
命題の意味にとって本質的で、諸命題が共通の部分としてもちうるもの、なんであれそうしたものが表現である。
Der Ausdruck kennzeichnet eine Form und einen Inhalt.
An expression characterizes a form and a content.
An expression is the mark of a form and a content.
表現は形式と内容を特徴づける。
3.311
Der Ausdruck setzt die Formen aller Sätze voraus, in welchem er vorkommen kann. Er ist das gemeinsame charakteristische Merkmal einer Klasse von Sätzen.
An expression presupposes the forms of all propositions in which it can occur. It is the common characteristic mark of a class of propositions.
An expression presupposes the forms of all the propositions in which it can occur. It is the common characteristic mark of a class of propositions.
表現は、その表現を含むすべての命題の形式を前提する。それゆえその表現は、それを含む諸命題の集合を特徴づける共通のメルクマールとなる。
3.312
Er wird also dargestellt durch die allgemeine Form der Sätze, die er charakterisiert.
It is therefore represented by the general form of the propositions which it characterizes.
It is therefore presented by means of the general form of the propositions that it characterizes.
したがって表現は、それが特徴づける諸命題の一般形式によって表される。
Und zwar wird in dieser Form der Ausdruck konstant und alles übrige variabel sein.
And in this form the expression is constant and everything else variable.
In fact, in this form the expression will be constant and everything else variable.
つまり、その諸命題の一般形式において、当の表現は定項となり、他のすべては変項となるわけである。
3.313
Der Ausdruck wird also durch eine Variable dargestellt, deren Werte die Sätze sind, die den Ausdruck enthalten.
An expression is thus presented by a variable, whose values are the propositions which contain the expression.
Thus an expression is presented by means of a variable whose values are the propositions that contain the expression.
表現はそれゆえ、変項を用いて〔関数として〕表される。その〔関数の〕値はその表現を含む命題である。
(Im Grenzfall wird die Variable zur Konstanten, der Ausdruck zum Satz.)
(In the limiting case the variable becomes constant, the expression a proposition.)
(In the limiting case the variable becomes a constant, the expression becomes a proposition.)
(極端な場合には、命題全体が表現として捉えられ、そのとき変項は定項になる。)
Ich nenne eine solche Variable „Satzvariable“.
I call such a variable a “propositional variable”.
I call such a variable a ‘propositional variable’.
命題を値とする〔関数に現れる〕このような変項を、私は「命題変項」と呼ぶ。
3.314
Der Ausdruck hat nur im Satz Bedeutung. Jede Variable lässt sich als Satzvariable auffassen.
An expression has meaning only in a proposition. Every variable can be conceived as a propositional variable.
An expression has meaning only in a proposition. All variables can be construed as propositional variables.
表現は命題の中でのみ意味をもつ。すべての変項は命題変項として解釈されうる。
(Auch der variable Name.)
(Including the variable name.)
(Even variable names.)
(名の変項も同様である。)
3.315
Verwandeln wir einen Bestandteil eines Satzes in eine Variable, so gibt es eine Klasse von Sätzen, welche sämtlich Werte des so entstandenen variablen Satzes sind. Diese Klasse hängt im allgemeinen noch davon ab, was wir, nach willkürlicher Übereinkunft, mit Teilen jenes Satzes meinen. Verwandeln wir aber alle jene Zeichen, deren Bedeutung willkürlich bestimmt wurde, in Variable, so gibt es nun noch immer eine solche Klasse. Diese aber ist nun von keiner Übereinkunft abhängig, sondern nur noch von der Natur des Satzes. Sie entspricht einer logischen Form—einem logischen Urbild.
If we change a constituent part of a proposition into a variable, there is a class of propositions which are all the values of the resulting variable proposition. This class in general still depends on what, by arbitrary agreement, we mean by parts of that proposition. But if we change all those signs, whose meaning was arbitrarily determined, into variables, there always remains such a class. But this is now no longer dependent on any agreement; it depends only on the nature of the proposition. It corresponds to a logical form, to a logical prototype.
If we turn a constituent of a proposition into a variable, there is a class of propositions all of which are values of the resulting variable proposition. In general, this class too will be dependent on the meaning that our arbitrary conventions have given to parts of the original proposition. But if all the signs in it that have arbitrarily determined meanings are turned into variables, we shall still get a class of this kind. This one, however, is not dependent on any convention, but solely on the nature of the proposition. It corresponds to a logical form—a logical prototype.
ある命題の一つの構成要素を変項に変えたとする。そのとき、そうしてできた可変的命題の値となる命題全体の集合が存在する。一般にこの集合は、われわれが命題の構成部分にどういう意味を与えるかという恣意的な取り決めに、なお依存している。しかし、意味が恣意的に決められるそうした記号をすべて変項にしてしまっても、それでも依然としてその値となる命題の集合が一つ存在する。そしてそのときにはもはやその集合はいかなる取り決めにも依存せず、ただ命題の本性にのみ関わるものとなる。この命題の集合は、論理形式 −論理的原型− に対応する。
3.316
Welche Werte die Satzvariable annehmen darf, wird festgesetzt.
What values the propositional variable can assume is determined.
What values a propositional variable may take is something that is stipulated.
それぞれの命題変項について、それがいかなる値を取りうるかは定まっている。
Die Festsetzung der Werte ist die Variable.
The determination of the values is the variable.
The stipulation of values is the variable.
この値の確定こそが、その変項の実質にほかならない。
3.317
Die Festsetzung der Werte der Satzvariablen ist die Angabe der Sätze, deren gemeinsames Merkmal die Variable ist.
The determination of the values of the propositional variable is done by indicating the propositions whose common mark the variable is.
To stipulate values for a propositional variable is to give the propositions whose common characteristic the variable is.
命題変項に対する値の確定とは、この変項を共通のメルクマールとする諸命題を列挙することである。
Die Festsetzung ist eine Beschreibung dieser Sätze.
The determination is a description of these propositions.
The stipulation is a description of those propositions.
値を確定するとは、諸命題を記述することである。
Die Festsetzung wird also nur von Symbolen, nicht von deren Bedeutung handeln.
The determination will therefore deal only with symbols not with their meaning.
The stipulation will therefore be concerned only with symbols, not with their meaning.
それゆえ、値を確定することはただシンボルにのみ関わり、その意味には関わらない。
Und nur dies ist der Festsetzung wesentlich, dass sie nur eine Beschreibung von Symbolen ist und nicht über das Bezeichnete aussagt.
And only this is essential to the determination, that it is only a description of symbols and asserts nothing about what is symbolized.
And the only thing essential to the stipulation is that it is merely a description of symbols and states nothing about what is signified.
値の確定がシンボルの記述にすぎず、それが何を表しているかには触れないということ、値の確定にとって本質的なのはこのことだけである。
Wie die Beschreibung der Sätze geschieht, ist unwesentlich.
The way in which we describe the propositions is not essential.
How the description of the propositions is produced is not essential.
われわれがその命題をどう記述するかは本質的ではない。
3.318
Den Satz fasse ich—wie Frege und Russell—als Funktion der in ihm enthaltenen Ausdrücke auf.
I conceive the proposition—like Frege and Russell—as a function of the expressions contained in it.
Like Frege and Russell I construe a proposition as a function of the expressions contained in it.
私は −フレーゲやラッセルと同様− 命題をそこに含まれている諸表現の関数として捉える。
この引用の書誌情報は以下の通り。
- Ludwig Wittgenstein Tractatus Logico-Philosophicus / Logisch-philosophische Abhandlung, First published by Kegan Paul (London), 1922., Side-by-side-by-side edition, version 0.23 (October 21, 2010), containing the original German, alongside both the Ogden/Ramsey, and Pears/McGuinness English translations., in http://people.umass.edu/phil335-klement-2/tlp/tlp.html, Created by Professor Kevin C. Klement
- ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、岩波書店、2003年
さて、この Wittgenstein の文章が、正確に言って、何を言わんとしているのかは、正直なところ、私にはよくわからない。一文一文に解釈を加えることは、私の能力では全くできない。ただ、先ほどの Ramsey の文章では、次のようにあった。‘In writing (x).xRb we use the expression Rb to collect together the set of propositions xRb which we want to assert to be true’. この文を見ると、Wittgenstein の場合では、彼の 3.311, 3.315, 3.317 (の、一番目と二番目の paragraph) が対応してくるように感じられる。文の一部分を通して、一つの文がその他の関連するすべての文とかかわり合っており(普遍性・一般性)、この種の理解が文・命題の理解、あるいは文・命題の意味の理解に必須であると Wittgenstein は述べているかのように私には感じられる。
細かく見れば、Ramsey の文章と Wittgenstein の文章の共通点は他にも見つかるかもしれない。しかしそれには細々とした解釈の話が入ってきて、私の手に余ることになるので、これ以上突っ込んで検討することはやめにして、ただ上記のごとく、Wittgenstein の文章を放り出して、読者の判断にお任せしたい。
ここまで、Frege の文章、Ramsey の文章、Wittgenstein の文章を並列して来た。並列しただけで、それ以上のことは何もしていない。少し不甲斐ない結果ではあるが、まぁ仕方がない。今後はまた勉強を続けていきたいと考えています。最後に個人的な印象を述べさせていただくならば、Wittgenstein が、文の分割の仕方について、何かしら Frege のやり方を身に着けていたようであるということと、それが Ramsey にも伝えられているらしいということに、漠としたものながら、感心のような念を覚えた次第です。
以上の記述に対し、誤字・脱字、誤解・無理解・見当違い等々がございましたら、あらかじめここでお詫び申し上げます。
*1:本当は、文とは何か、単語とは何か、ということを、きちんと考えなければならず、ここでのように素通りしてはならないと思うのだが、今の私には手に余る問題なので、ここではその検討は置いておく。
*2:件の英文を0回分ける、という選択肢もありうるだろうから、全部で四通りあるということも考えられるが、ここではその第四の可能性は置いておく。
*3:日本語を母語とする者にとっては、なぜわざわざ英文を具体例に挙げなければならないのか、一応の理由が本来は必要だろう。私がここで英文を例に挙げているのは、日本語に照らして考えることが少なく、日本語の場合はどうなのかについて、熟慮したことがないためである。要するに一言で言えば、私が怠慢だからである。
*4:一部の例外とは、Lesniewski の考えを検討する場合である。
*5:Gottlob Frege, Begriffsschrift und andere Aufsätze, Zweite Auflage, Mit E. Husserls und H. Scholz' Anmerkungen, herausgegeben von Ignacio Angelelli, Olms, 1993, S. 17.
*6:G. フレーゲ、『概念記法 ―算術の式言語を模造した純粋な思考のための一つの式言語 』、藤村龍雄訳、藤村龍雄編、『フレーゲ著作集 1 概念記法』、勁草書房、1999年、31-32ページ。この引用文の解釈とその解釈にまつわる難点については、次を参照。飯田隆、『言語哲学大全 I 論理と言語』、勁草書房、1987年、59-61ページ、および79ページの註30。なお、飯田先生は Dummett さんの解釈に依拠してご説明されているのだが、次の文献を見ると、その Dummett さんの解釈が、文献上の根拠を欠く旨が指摘されている。Matthias Schirn, “Review: Michael Dummett, The Interpretation of Frege's Philosophy, Duckworth, London, 1981, xviii + 621pp.,” in: Erkenntnis, vol. 20, no. 2, 1983. 簡単には、藤村龍雄、「側面から見た『概念記法』 −ダメットの「分析」と「分解」に寄せて−」、『立正大学大学院紀要』、第18号、2002年。このため、飯田先生の解釈に対しては、今一度検討し直してみる必要があるかもしれない。ただ、私は Schirn 論文、藤村論文共にさらっと一通り読んだだけで、まだじっくり読んでいないので、これらの論文や Dummett さんの文章や、そしてもちろん Frege の文章を読むことで、Dummett-飯田先生の解釈の妥当性を、後々検討できたらと思っている。
*7:Gottlob Frege, 》Kurze Übersicht meiner logischen Lehren《, Nachgelassene Schriften, Zweite, erweiterte Auflage, herausgegeben von Hans Hermes, Friedrich Kambartel, Friedrich Kaulbach, Felix Meiner Verlag, Nachgelassene Schriften und Wissenschaftlicher Briefwechsel, Erster Band, 1983, S. 217.
*8:G. フレーゲ、「私の論理的教説概観」、野本和幸訳、『フレーゲ著作集 4 哲学論集』、勁草書房、1999年、195-96ページ。なお、この引用文における最後の文は、わかりにくい気がするので、その趣旨を述べておくと、普遍文が特定文どもと一致する部分とは、「もし が 2 より大ならば、 は 2 より大である」のことである。この一致する部分が空所を示すとは、この一致する部分が、この一致する部分中の空所を highlight しているということである。言い換えると、この一致している部分全体がその中の空所を縁取って白抜きしているということである。恐らくこのようなことを Frege は引用文の最後で述べているのだろうと思われる。
*9:飯田先生の『言語哲学大全 I 論理と言語』、勁草書房、1987年、52-65ページでは、Frege による文の分割の仕方が、大変わかりやすく説明されている。但し先生のご説明では、量化文の形成史・形成木の観点から、主として説明されていると読めるのに対し、Frege 本人は、上記引用文にあるように、量化文を含んだ論証の観点から、説明がなされている所が異なっていると思われる。なお、以前の註7で、飯田先生が基付いておられる Dummett さんの解釈に対し、文献上の裏付けが不足していることが指摘されていたが、その不足・問題点が指摘されているのは、Dummett さんによる、Frege が考えていた量化文の形成史・形成木についての解釈である。Schirn, 藤村両先生が指摘される Dummett 解釈の難点は、Frege の考える量化文の形成過程を、現代流に解してしまっているという点である。Frege における式または文 (真理値の名前) は、その形成史・形成木が、現代のものとは全く異なる。Frege の場合は、現代流とは違って、形成木が一意に定まらない。これが Russell Paradox の原因と何か関係があるのではないかとも考えられている。つまり、Frege の形成木の特徴は、軽く見過ごすことのできるものではなく、重大な論点とかかわっていると考えられる。そのため、Frege の形成木を何も考えずに現代流に解して事足れりとすることは、全くできない。従って、Frege の量化文に対する Dummett-飯田両先生の解釈が正しいかどうかは、じっくり検討してみるに値する問題だと思われます。
*10:Frank Plumpton Ramsey, “Universals,” in his Foundations of Mathematics and Other Logical Essays, R. B. Braithwaite ed., Routledge, International Library of Philosophy, 1931/2006, pp. 123-24. または Frank Plumpton Ramsey, “Universals,” in his Philosophical Papers, D. H. Mellor ed., Cambridge University Press, 1990, pp. 19-20.