Frege's Complaints against Tractatus Logico-Philosophicus

前回の日記に引き続き、ちょっと面白いと思った Frege の発言を掲げてみます。やはりそこから何らかの哲学的教訓を引き出そうとして、そうする訳ではありません。ただ面白いと思っただけで、深いいみは特段ありません。なお、便宜上、和訳のみから引用します。

[Frege から Wittgenstein 宛 1919年6月28日]


私にはこの論文 [Tractatus] は非常に理解しにくいと思われます。あなたは諸命題を大抵基礎づけなしに、ないし少なくともそれらを十分詳細に基礎づけることなしに並列させています。それで私はしばしば私が同意すべきなのかどうか分からないのです。というのはその意味が私には十分明晰ではないからなのです。


[この後 Tractatus 冒頭の、「成り立っている (der Fall sein)」、「事実 (Tatsache)」、「事態 (Sachverhalt)」、「存立 (das Bestehen)」という言葉について、それぞれが表していることは同じなのか否かについてはっきりしないという、Frege の疑念と、困惑を表明した文言が続く。]


お分かりのように、私はすぐ始めの所であなたが言いたいことが何なのかについて疑惑に巻き込まれて、適切に前へ進まないのです。私はいまはしばしば疲れやすく、またそのことがなおさら私の理解を困難にしています。あなたがこのコメントで私を悪く取られず、あなたの論文中の表現の仕方をもっと分かりやすくする刺激と考えて下さるように望みます。*1

Frege が困惑するのも無理はないと思う。私も困惑する。Tractatus はわかっている人にはわかるが、わからない人には全然わからない本なのかもしれない。Frege による困惑の表明は、Russell の Principia に対する疑念の提示よりも、より当りが柔らかい感じがする。私の記憶では、確か Russell は Frege に直接会ったことはなかったと思うが、Wittgenstein は Frege に会ったことがあることは、よく知られていることと思う。先日読み終えたばかりの、

  • Michael Potter  “Introduction,” in Tom Ricketts and Michael Potter ed., The Cambridge Companion to Frege, Cambridge University Press, Cambridge Companions to Philosophy Series, 2010

では、両人は少なくとも3回は会ったことがあると記されていた*2。二人は直接会って話し込んだことがあるようだから、Russell よりかは精神的に両人は付き合いが深く、その点から、Frege は Wittgenstein に殊更きつく当たるということをしなかったのかもしれない。手紙からはそんな感じが受け取れる。それにしても、師である Frege から「よくわからないから、もうちょっとどうにかしたらどうなのか?」と言われたら、普通は気落ちして言われた線に沿って書き直しを図るものだが、Wittgentein は、多分だが、全然そんなことしなかったものと見える*3。通常なら訳のわからない aphorism の文体をやめて、散文で書き直すところだと思う。Wittgenstein としては、あの aphorism の文体はやむにやまれない、引き下がれないものを持っていたのかもしれない。あるいみ立派な覚悟だと思う。

*1:G. フレーゲ、『フレーゲ著作集 第 6 巻 書簡集 付 「日記」』、野本和幸編、勁草書房、2002年、288-90ページ。

*2:Potter, p. 23.

*3:逆に「師の方こそわからず屋だ」と言いたげな発言さえしているようである。次を参照下さい。“Letter from L. Wittgenstein to B. Russell, 19.8.1919,” in Brian McGuinness, ed., Wittgenstein in Cambridge: Letters and Documents 1911-1951, Fourth Edition, Blackwell Publishing, 2008. なお、この手紙については、2008年6月8日の当日記の項目‘Wittgenstein's Complaint against Frege about his Manuscript of Tractatus’で言及しています。