先日から次の本を読み始めた。
- Tom Ricketts and Michael Potter ed. The Cambridge Companion to Frege, Cambridge University Press, Cambridge Companions to Philosophy Series, 2010
この本の巻頭に収められている以下の文章を読んでいると、
- Michael Potter “Introduction”
ちょっと面白いことが書かれている。引用してみよう。この引用の前半が、そのちょっと面白いという事柄である。原文にあった註は省いて引いてみる。代わりに引用文中に入っている註は、引用者によるものである。
Between 1890 and 1892 Frege published three articles which marked the beginning of a new phase in his thinking about logic by outlining a more refined semantic theory. The most famous of these articles is ‘On sense and reference’. Philosophy students are nowadays taught that this is where Frege introduced the important distinction between sense and reference*1. But if that is all they are taught, they miss the significance of the issue Frege was tackling. After all, it does not take great sophistication to distinguish between what a word means and what it refers to. Such a distinction was familiar to Sextus Empiricus, who pointed out that we may understand a word that the barbarians do not, even though they hear the word and see the object referred to. Frege's concern was not with whether such a distinction can be drawn but with whether it is of relevance to logic. What he argued in ‘On sense and reference’ was that an account of the structure of thoughts requires us to recognize different ways in which an object may be presented to us: different senses contribute to different thoughts, and hence to different inferences that may be drawn from them. Logic, according to Frege, must distinguish between the thought that a = b and the thought a = a since the former licenses that the latter does not. *2
この Potter さんの話によると、Frege の Sinn und Bedeutung の区別は、既に古代においてなされていたということである。これはちょっと驚きです。これに関し、引用文中の Sextus Empiricus の名前が出てくる文の最後に Potter さんは註を付して、Sextus Empiricus の ‘Against the Professors’, 8.IIf を見よと指示されています。そこで次の文献の第8巻の巻の2を開いて該当箇所を調べて見ましたら、
出てきました。引用してみましょう。和訳本文に付されている註の類いはすべて省いて引いてみます。但し、和訳本文中に挿入されている訳者補注は省かずそのまま引用します。その訳者補注を示すのが「[ ]」です。これら以外の脚注はすべて引用者によります。
真なるものに関する第一の反目は、以上述べたようなものとして存立していた*3。しかしまた、彼らのあいだには何か別の論争もあった。この論争においては、ある人々は、真なるものと偽なるものは、意味 [意味されるもの] のうちに成立しているとし、別の人たちは、音声のうちに成立しているとし、また別の人たちは、思考の動きのうちに成立しているとした。そして、第一の思いなしの代表者はストア派であり、彼らは、三つのもの −すなわち、意味 [意味されるもの] と、意味するものと、対象− が相互に連関していると主張した。このうち「意味するもの」とは、例えば「ディオン」というような音声であり、また「意味 [意味されるもの] 」とは、音声によって明らかにされる物事そのものであって、われわれはそれがわれわれの思考に対応して成立しているのを捉えるが、他国人たちはその音声を聞いても理解しないものである。また「対象」とは、外部に存在するものであり、例えばディオンその人がそれである。これらのうちの二つ −すなわち音声と対象− は物体であり、また一つ −意味される物事 [意味] 、すなわちレクトン [言表されうるもの] − は非物体である。そしてこのレクトンが真なるもの、あるいは偽なるものになる。ただし、すべてのレクトンが共通してそうなるわけではなく、レクトンには欠如的なレクトン*4と、自己完結的なレクトンとがある*5。そして自己完結的なレクトンのうちで、命題と呼ばれるものが真なるもの、あるいは偽なるものになるのであり、ストア派はこの命題を概略的に説明して、「命題とは、真あるいは偽のいずれかであるものである」と主張するのである。
他方、エピクロスの一派や、自然学者のストラトンの一派は、意味するものと対象の二つだけを容認するところから、第二の立場を採用し、真なるものと偽なるものを音声のうちに認めるものとして現われている。
また最後の思いなしは (わたしが言っているのは、思考の動きのうちに真なるものがあると仮定する立場である)、衒学的な作り事であるように思われる。*6
ほんとですね。ここでの「意味 [意味されるもの] 」や「レクトン」が表すものが Frege の Sinn に相当し、ここでの「対象」が表すものが Frege の Bedeutung に相当しているようです。そういえば Stoic の認識論に見られる レクトンがどうしたこうしたという話は、確かかなり細かい区別をしていた印象があったのを思い出しました。Stoic ならばさもありなんという感じですね。
しかし、 Potter さんの文章の point は、Frege の区別が古代にも見られた、ということにあるのではありません。Potter さんの文章によるならば、Stoics は Frege の先を行っていたすごい人々だ、と言われているのではなく、むしろ逆に、Frege の Sinn und Bedeutung の区別は、表面的な部分だけを捉えて言えば、かつその限りでは、そのような区別は既に古代の人々さえなしていた、さしたることのない区別であるとし、特段古代人を称賛している訳ではありません。Sinn und Bedeutung の区別を表面的に考えるならば、言葉のいみに関するこの種の区別は、古代から行われていたのであり、Potter さんが注意を喚起されておられるのは、Frege による Sinn und Bedeutung の区別は、単なる古代の考えの復権なのではない、Frege の区別は昔からある考えを復唱しているのではなく、Frege 自身はもっと別の観点から件の区別を行おうとしていたというのです。その観点とは Potter さんによると、再度上記引用文の一部を引いてみるならば、
Frege's concern was not with whether such a distinction can be drawn but with whether it is of relevance to logic.
ということであり、論理的観点から、Frege はそうしているという訳です。では Frege は論理的観点からどのように件の区別を行ったというのでしょうか? Potter さんはこの点について、何も詳説はされておられません。Frege による Sinn und Bedeutung の区別を人が説明する段においては、この区別の認知的な側面 (Erkenntniswert) が、通常指摘されます。実際に Frege がやっているのはその認知的側面からの件の区別の重要性・必要性の説明です。一方でその区別が行われる論理的側面が人々により詳述されるということは、ない訳ではありませんが、比較的少ないか、間接的に示唆されるだけで、軽く流されてしまうことがあるのではないかと思います。Frege による Sinn und Bedeutung の区別の論理的観点からの説明は、Begriffsschrift の頃からの Frege と、“Über Sinn und Bedeutung” の頃の Frege を結び付け、統一的かつ歴史的な流れに沿って Frege の考えと彼の project を理解可能にしてくれます。それにより論理学者としての Frege と言語哲学者としての Frege を一体のものとして理解させてくれるようになるのです。そして Sinn und Bedeutung が実際に持っている論理的役割を改めて自覚させてくれるのです。
ですから、哲学的に重要なのは、 Sinn und Bedeutung の区別が古代にあったということよりも、その区別を Frege が論理的観点から行っていた側面があり、そのことの理解とそこからくる帰結を把握することの方にこそ注目されねばならない点があるということです。この日記の今書いている項目の表題は、Stoic に比重がかかっているように見えますが、Potter さんにとって重視されているのは、Frege にとり、Sinn und Bedeutung の区別は、単なる認知的観点からよりも、より論理的観点からなされていると解すべきであり、そこにこそこの区別の重要性があるのだ、というところです。
それでは再び翻って Frege は、論理的観点からどのようにして件の区別を行ったというのでしょうか? それを後日 “Why Did Frege draw a Distinction Between Sinn and Bedeutung?” という題名の下で説明してみたいと思います。
(と言いましたけれども、この題名による説明文は、先日途中まで書いたのですが、今一旦ストップしています。あらすじはある程度できているのですが、その骨格としてのあらすじそのものを廃棄し、改めて設計図を書き直そうかどうか、ちょっと迷っています。例によって大そうな内容の話ではないですし、設計図というほどのものなど大してないのですが、このまま書き切ったとしても、何だか満足いかないような気がしてきています。でも設計図から書き直し、本文もそれに合わせて直していると、時間も労力も随分かかり、他にやらねばならないことが実際あって、そちらを優先しなければならないので、本当にどうしようか困っています。すごく面倒な気がしてきました。もうこのまま書くのをやめてしまい、この日記には結局 up しないかもしれません。別にどうという内容の話でもないことでもありますし…。)
*1: ‘On sense and reference’ で初めて Sinn と Bedeutung の区別が公表された訳ではないことは、当日記2008年4月30 日‘Entry ‘Sinn und Bedeutung’の疑問点’を参照して下さい。
*2:Potter, p. 12.
*3:「真なるものに関する第一の反目」とは、何か真なるものが存在するのかどうかに関する論争のこと。それが存立していたとは、そのような論争があったということ。
*4:訳者お二人の説明によると、欠如的なレクトンとは、例えば「書く」というような述語のいみのことである。エンペイリコス、390ページ。
*5:訳者の方々の説明によると、自己完結的なレクトンとは、次に触れられる命題や、三段論法、質問や疑問のことだそうである。エンペイリコス、同上。
*6:エンペイリコス、201-202ページ。