Carnap and Heidegger Agreed on Some Points of a Philosophical Discussion.

今日、生協書籍部で以下の新刊をぱらぱらとめくって拝見させていただいていた。

この本の中の次の論考を眺めていると

Carnap と Heidegger が、お互いに会って話をしていたと書かれている。このこと自身は私にとって驚きではない。恐らく現在、両者が会って話をしていたということは、その筋ではよく知られた事実だと思われる。私も当日記でかつてこのことを何度か記している。例えば、2008年3月12日の日記の項目 ‘Carnap Meets Heidegger’などをご覧下さい。
さて、今日、門脇先生の上記論考を見ていてちょっと驚いたことがある。以下の記述は記憶に頼って書き記します。門脇先生のご高著を買わずに帰ってきてしまったので、これから書く内容が先生の本の何ページに、どのように、正確なところ、書かれていたのかを今明示することができません。記憶違い等で書き間違いを犯していましたら、前もってお詫び申し上げます。
とにかくいずれにしても、先生の論考でちょっと驚いたのは、Carnap と Heidegger が会って話をしていたのみならず、両者が哲学上のある事柄について、互いに同意を見てさえいたという主旨の話が記されているところです。私は両人は初めから水と油のような関係にあったのではなかったかと考えていたのですが、どうやらそうではないらしい。何について二人は同意していたのかというと、大きくは物理主義に関して意見の一致を見ていたようです。もう少しばかり限定して言うと、物理主義的な言語の使用に関して、お互いに一致点を見出していたようです。そのようなことを表した記述が Carnap の日記に記されているらしい。門脇先生の文を読むと、Carnap と Heidegger は café で哲学の話をしたらしく、そこで物理主義的な言語について話し合い、基本的な点で意見の一致を見るに至って、このことを Carnap は自身の日記に、基本的な点で Heidegger の同意を得た、というようなことを記しているらしいです。但し、門脇先生は、Carnap の日記に関し、出典情報を明記されていない。私は Carnap の日記が刊行されているのかどうか、知りません。多分刊行されていないと思うのですが…。Pitts. の Carnap 文庫に入ったままだと思うのですけれど…。だとすれば、早く刊行されるべきでしょうね。
とにかく、二人は初めから何もかも意見を異にしていた訳ではなく、一致している点も持っていた訳だ。それがどの程度深く、かつ広範囲に影響を及ぼすものであるかは、私にはわからない。二人は敵対ばかりしていたと、一般には思われているかもしれないが、それは予断であるかもしれない。一度立ち止まって、考え直さねばならないかもしれない。そもそも二人には共通の師匠がいた可能性があることは、その筋では知られていることである。つまり Husserl である。このことについては当日記の2008年1月20日、項目‘Carnap Renaissance’の Thomas Ryckman さんの話の場面で触れている。今日の門脇先生の上記論考からわかるのは、Carnap と Heidegger には共通の師匠がいたらしいというだけでなく、ある種の哲学的話題に関しては、両者の間で一致点を見ていたということである。ここからして、二人の対立点ばかりを取り上げるのは史実に合わない可能性がある。両者の関係は、実はまだよくわかっていないということである。詳細な研究がまたれる。
しかし、両人が一致していたというのは、Cusanus のいわゆる the coincidence of opposites のようなものではなかろうかとも、ふと感じてしまう。あるいはいわゆる双対性が二人の間でたまたま成り立っていたのではなかろうかとも、ちょっと思ってしまう。Café で二人で‘Ja, ja’と言いながら、意見が一致しているかのように見えて、全然別のことを念頭において相槌を打っていたのかもしれない。そんなことはないのだろうか? 私にはわからない。実に、詳細な研究がまたれるところである。(そのような研究がまだ日の目を見ていないのならばですが…。そのような研究は既に出ていて、気付いていないだけなのかもしれませんけれど…。)

後日、門脇先生のご高著を、もう一度よく見てみたいと思います。寝る前に、流すように書き下したので、かつ記憶に頼って書いたので、上述の事柄につき、間違っていましたらすみません。おやすみなさい。