Frege on Hippias, or the Content of a Statement of Number is an Assertion about a Concept.

(以下では全く個人的な感想を記します。学問的な根拠や妥当性は、全くありません。思い付きを memorandum として走り書きするだけですので、間違っているはずです。間違っているはずですから、決して真に受けないで下さい。ただ、もう少し正確なことを、後日可能ならば、この日記に記したいと思っています。但し、実現するかどうかは定かではありません。)

  • プラトン  「ヒッピアス (大) 美について 299C - 303D」、北嶋美雪訳、『プラトン全集』、田中美知太郎、藤沢令夫編、第10巻、岩波書店、1975年

Frege は、今回入手した上記の Plato による Greater Hippias の該当箇所辺りを読んでいたようです。しかも単に読んでいたのみならず、そこから大変重要な着想を得ていた可能性があります。


数に関する Frege の有名な見解に、「木星は四つの衛星を持つ」などの個数言明は概念についての言明である、というものがあります。このような考えを Frege はどこから得てきたのかについては、研究者の間で検討されており、一つの有力な説によるならば、Frege はこの見解の idea を Johann Friedrich Herbart (1776-1841) から得ているのではないか、と言われています (e.g., D. Sullivan, G. Gabriel)。この idea が Herbart に由来しているとは恐らく Frege は明言していないようですが、Herbart の名前を挙げて、この idea が Herbart に起源を持つかのように思わせる記述を残しています。Frege の Grundlagen の p. III で Frege は Herbart に言及し、正の整数に対する正しい理解が今までにも獲得されていたことがあったにもかかわらず、失われてしまっており、正しい理解を得ていたとされる Herbart の言葉をそのページの註で引用しています。調べて見ると、私には驚いたことに、Herbart は Frege と大変よく似た見解を抱いていたようです (D. Sullivan)。非常に似ていると言ってよいかと思います。ちょっと驚きました*1


しかし一方で、Frege は個数言明が概念についての言明であるという自らの考えが Greater Hippias に見られると、明言しています (「Darmstaedter への手記」冒頭)。単にその考えが Greater Hippias に見られるというだけでなく、そこに自説の由来があるかのような書き方をしているように思われます。但し、Greater Hippias の該当箇所を、さらりとですが、読んでみますと、そこに Frege の見解とそっくりの考えが明示されているという印象は私は持ちませんでした。(しかし、Greater Hippias には Frege の説へと至る一歩か二歩手前まで来ているという印象は持ちました。)


つまり、個数言明が概念についての言明であるという Frege の見解が、Herbart に由来すると明言されているのではなく、それは Grundlagen で高々示唆されているだけであり、その一方で、Frege の件の見解の由来が、Greater Hippias には明確な形では現れていないにもかかわらず、それでもあたかもその見解が Greater Hippias に由来しているかのようなことを Frege が「Darmstaedter への手記」で明言しているように見えるのです。(なぜ Frege は「Darmstaedter への手記」冒頭で、個数言明に関する自身の見解について、その見解にそっくりな Herbart の名を挙げず、それほどそっくりでもない Greater Hippias の名前を挙げているのか、いささか疑問です。Frege は自身の見解と Herbart の見解がそっくりであることに自分でも気が付いていたはずです。自分の見解とそっくりなことを述べている Herbart の文章を読んでいた形跡があるのですから。See, D. Sullivan.)


はたして Frege は、個数言明が概念についての言明であるという idea を自力で得た後に、Herbart の考えを知ったのか、あるいは Herbart の考えにまず触れてから自説を深化、発展させて行ったのか、それとも Frege はこの idea を自分で獲得した後に、Greater Hippias を読んだのか、それとも Greater Hippias を読んで、件の idea を思い付き、育んで行ったのか。あるいはそうではなくて、Frege は Herbart の教説によってでもなければ、Greater Hippias によってでもなく、それら以外の別の誰かの見解から、個数言明は概念についての言明であると思い至ったのか、はっきりしたことは恐らくまだ完全にはわかっていないものと推測します。


いずれにせよ、Frege の件の idea はとても興味深いものがあります。今回、Greater Hippias の該当箇所を読んでいて、個人的にですが、なぜ Frege が Grundlagen の冒頭三大原則のうちの一つに見られる原則「概念と対象とを鋭く厳しく区別せよ」を固守するのか、初めて実感としてわかったような気がしました。一応 Frege は概念と対象を区別すべき理由を Grundlagen の§97で述べています。そこではいわゆる空な概念が、まるで存在している対象を表すかのように理解されていることが数学においてしばしばあり、これは概念と対象とをきちんと区別していないことからくる誤りだ、との主旨の発言を記しています。ただ、私には今までは Frege 自身による、概念と対象とを区別すべしというこの理由がピンと来ませんでした。この理由も概念と対象を区別すべき一つの理由とはなっているのでしょうが、個人的には実感としてあまり重みを感じられませんでした。しかし、Frege も目を通していた Greater Hippias を読んでいて思ったのは、古代の Hippias から Frege に至る時代を通じて、個数は一般には個物や個体について言われるべきではなく、概念について言われるべきなのだということに、人々が充分気が付かなかったことからくる混乱、Hippias 自身に見られるこの混乱の影響の根深さとしつこさが、計り知れないものであるということを感じました*2。これは私自身感じた印象であるとともに、きっと Frege も同様に感じていたことなのではなかろうか、と思ったのです。このことから、Frege は Greater Hippias で Hippias が概念について言えることと個物などの対象について言えることをしっかりと区別できていなかったことが、今に至るまでの数に対する無理解をもたらし続けたと考えて、概念について言えることと対象について言えることとを鋭く厳しく区別する必要があること、つまり概念と対象とを鋭く厳しく区別すべし、と思うようになったのではなかろうかと感じました。もちろん、この印象は文献上の根拠を欠いています。Frege は今言った理由で、概念と対象とを区別しなさいとは、恐らくどこにおいても記していないものと思われます。ですので私の抱いた印象は、学問的には全く無価値です。ただしかし、そうではあっても個人的にはとてもしっくりとくるものがあったのです。概念と対象の区別など、Grundlagen の冒頭に掲げられている三大原則のうちのその他の二つの原則に比べれば、それほど大した区別でもなかろうと、内心軽く考えていましたが、Greater Hippias を読んで、「概念と対象をしっかりと区別しなければ、私たちはいまだに Hippias の域を出れないのだ、これはとても根深いな」と感じたのです。概念と対象の区別は、Frege の存在論の根幹ですが、この区別は Frege 個人の単なる思弁的な形而上学に尽きる話ではなく、1 や 2 などのありふれた数について、人類が長年に渡り、あまりにも無知であり過ぎたことに対する Frege なりの強い反省からくる区別なのではなかろうか、例え人類は何世紀にも渡って数を使い、色々な計算ができていたとしても、いかに私たちが数について実のところわかっていなかったのか、それを痛切に Frege が感じたことに件の区別は由来しているのではなかろうか、ということです。この区別は Frege 個人の単なる好みからくるものではなく、人類の苦い歴史を反省してのことではなかろうか、ということなのです。

この感想に、学問的な根拠も妥当性も全くありません。ごく個人的な印象を記したまでです。しかし何だか自分としてはちょっと印象に残りましたので、気になってここに記しておきました。まぁ、間違っているにせよ、これを踏み台に、Frege の概念と対象と数に関する考察を、私なりに進めて行ければと思っています。もう少し正確なことを、後日ここに記すことができればと考えています。しかし他にしなければならないこともありますので、できるかどうか現時点ではわかりません。

*1:以上は私が独自に調査した結果では全くなく、Frege と Herbart の関係を分析した他の人の論文 D. Sullivan, G. Gabriel をただ読んで言っているだけです。

*2:もっとも、個数言明が概念についての言明であるということが、本当に正しいのかどうかは、よくよく考えてみなければなりません。そのような考察の一助となりうる文献が、Byeong-uk Yi さんによって刊行されています。その文献名については、本日の日記項目「入手文献」を参照下さい。