Globalization and Japanese Philosophy

先日、以下の文献を拝読させていただいた。

この文献では、globalization が進展して行く中で、日本から日本人による独自で創造的な哲学を世界に向けて効果的に発信していくためには如何なる戦略が採られるべきか、このことが論じられ、二つの戦略が提案されています。一つ目の戦略は、その哲学の key term が日本語の特質に依存している場合、言い換えると、その哲学の key term が外国語に翻訳できない、または翻訳が困難な場合、その key term を外国語に翻訳することなく、日本語のまま発信していくというもの、もう一つの戦略は、その哲学の key concept が日本語や日本文化の特質に依存していない場合、その哲学を外国語に翻訳できることを前提に論述していくというものです。前者の戦略は、翻訳不可能な哲学の展開と発信であり、後者の戦略は、翻訳可能な哲学の展開と発信であると言えると思われます。前者の例は、京都学派を別にすると、大森荘蔵坂部恵両先生の哲学が挙げられています。後者の例は、黒田亘先生の哲学が挙げられています。前者の戦略についての一ノ瀬先生の意見に、私は疑問に思うところがあり、そのことを 'Globalization and Japanese Philosophy' という、先生の文の題名を英語に直した title を持つ短い文章にまとめてみました。比較的、批判的な文章です。但し、前者の戦略そのものに対する異論や反論ではなく、そこで先生が前提とされていること、及び先生のお話から帰結してくると考えられることについての批判的文章です。しかし、充分推考しているとは言えず、感想文のようなものであって、先生に失礼があってはいけないので、あるいは私が間違っていて恥をかくのもなんですから、この日記では公開しません。いずれにしても先生の文章を読むことで、いくつか考えさせられることがありました。参考になり、感謝致します。なお、先生の上記の文を読まれた方は、次の文も併せて読まれることをお勧め致します。

私の先の批判的文章は、ここでの三島先生の話にその一部を触発されています。大変参考になります。