Frege's Blunt Refutation of the View That the Meaning of a Sentence Is its Corresponding Fact.

先日、次の文献を読んでいると

  • Enzo De Pellegrin ed.  Interactive Wittgenstein: Essays in Memory of Georg Henrik von Wright, Springer, Synthese Library, vol. 349, 2011

面白い文章に出会った。その文章を紹介してみようと思います。


それは元々次の文献に載っていた文で

  • Brian McGuinness  Wittgenstein, A Life: Young Ludwig 1889-1921, University of California Press, 1988, p. 164

De Pellegrin 編集本の7ページに出ています。この編集本からそのまま孫引いて以下に引用してみます。この引用文中で私が面白いと感じたのは、Frege が Wittgenstein に語っている Russell に対する反論、批判です。

It seems very probable that it was on this occasion that Frege put to Wittgenstein a general objection to Russell's talk about complexes, to which Wittgenstein reverted many times in conversation and alluded also in his notebooks. Frege asked him whether, if an object is part of a fact about it, the fact will be bigger than the object. At the time he thought the remark silly, but later he came to see the point of it. It was in fact an attack on the whole notion of explaining the meaning of propositions by saying that there were complexes corresponding to them - a way of speaking that Wittgenstein did in fact abandon in the course of 1913.

'[I]f an object is part of a fact about it, the fact will be bigger than the object.' 身も蓋もない批判ですね。遠慮会釈のない反論ですね。Grundlagen の前半で展開されているような、あからさまな批判、反論を思い出させて、痛快です。

この批判の詳細な論証はここでは何も記されていないようです。そこで少しその批判の内容、idea を私の方で個人的に敷衍してみます。次に掲げるその敷衍が、適切で正しいものなのかどうか、重々考えたという訳ではないので、あまりうまい説明ではないかもしれませんが、取り合えず敷衍してみます。


The Meaning of a Sentence Is Not its Corresponding Fact: Fregean Version

以下では「いみ (meaning) 」という言葉を、前理論的に、素朴に使います。

さて、例えば台風八号が発生し、現在北上中であるという事実 (fact) や、新幹線ののぞみの方がこだまよりも速いなどの事実が存在するとしよう*1。そして、平叙文、叙述文 (declarative sentence) は事実をいみする (mean) としよう*2。また、東京や富士山や Obama 大統領のような「対象 (object) 」と呼ばれるものが存在するとしよう*3。そして、平叙文の主語はある対象をいみするとしよう*4。加えてその対象はそこでの事実に含まれる (contain) としよう*5。さらに x が y に含まれる時、(無限について語るのでもない限り) x の方が y よりも必ず小さいとしよう。x < y.


このことを記号を少し使って言い直してみよう。
今、「A は B である」という文はある事実 C をいみしているとしよう。この C には A が含まれるとしよう。C に A が含まれるということは、A の方が C よりも小さいということである。A < C.


具体例を使って考えてみよう。

  • Mont Blanc は 4,810m の高さである  (*)

という文はある事実 S をいみしているとしよう。この文の主語は対象 Mont Blanc をいみしているとしよう*6。そしてこの Mont Blanc は事実 S に含まれるとしよう。この時、Mont Blanc の方が事実 S よりも小さいはずである。MB < S.
つまり事実 S の方が Mont Blanc よりも大きいはずである。ならば文 (*) を使って人は 4,810m よりも大きな何について語っていると言うのだろうか。Mont Blanc を目の前にしながら、文 (*) を発話する時、その文を使って目の前のことを述べているように見える。目の前にはある山が 4,810m の高さでそびえている。文 (*) はそのことを述べていると思われる。しかし、文に含まれる対象よりも、文がいみする事実の方が大きいとするならば、この文 (*) は 4,810m よりも大きな何かについて述べていることになるが、それは何であろうか。その何かとは事実 S のことであろう。ではその事実 S は何m の大きさなのか。4,810m よりは大きいはずであるが、何m だというのだろうか。


このことを一般化すれば、人はある大きさ x について語る時には、必ず図らずも x よりも大きな x' について語ることになるのかもしれない。だとすると、4,810m について語っていても、4,810m よりも大きいものについても語ってしまうことになるのかもしれない。あるいは 4,810m について語っていても、4,810m について語ってはいないことになるのかもしれない。しかしそうだとするならば、これは矛盾になるのではなかろうか?


以上のようなことを Frege が Wittgenstein に語ったのかどうかはわかりません。もっと洗練されたことを語ったことでしょう。私のような者のその場限りでの思い付きにすぎない上記の説明が、実際に Frege が Wittgenstein に話したことだとは、とてもではないが私自身も思えません。もっと洗練された考えを思い付いたら、またここに記します。但し、思い付くかどうかはわからないし、このことを再び考え直す時が来るのかどうかもわからないけれど…。とにかく、実際にどのような内容のことを語ったにせよ、'if an object is part of a fact about it, the fact will be bigger than the object' という批判は身も蓋もなく、面白くて印象的でした。


上記の説明に間違いが含まれていたら謝ります。ごめんなさい。

*1:「事実」ではなく、「事態」や「状況」と呼んでもよい。差し当たり何と言ってもよい。

*2:「いみする」ではなく、「表す (express) 」と言ってもよい。差し当たり何と言ってもよい。

*3:「対象」ではなく、「もの (things) 」や「存在者 (entity) 」と呼んでもよい。差し当たり何と言ってもよい。

*4:「いみする」ではなく、「指示する (refer) 」と言ってもよい。差し当たり何と言ってもよい。

*5:「その対象はそこでの事実の構成要素 (element) である」と言ってもよい。その他、類似する言い方を使ってもよい。

*6:Mont Blanc が対象だとしても、それは vague object であって、vague object はそもそも存在しない、だから Mont Blanc を、文の主語がいみする対象だとすることはできない。以上のような反論があるかもしれないが、これは vagueness の話に深入りして行くことになるので、今は扱わない。ここでは 'Mont Blanc' を使ったが、別の言葉を使った例を取り上げてもよい。