Frege, Leśniewski and Chwistek on Empty Class: Can There Be No Empty Class?

たまたま次の文献で、若干面白いと感じた文章を見かけたので、下で引用してみます。

  • Leon Chwistek  The Limits of Science: Outline of Logic and of the Methodology of the Exact Sciences, Introduction and Appendix by Helen Charlotte Brodie, Routledge, The International Library of Philosophy/Philosophy of Logic and Mathematics Series, 2010 (First Published in 1948)

次の引用では、empty class, null class に関する Frege と Lesniewski の立場が述べられているとともに、その立場についての Chwistek による批判が語られています。若干面白いというのは、以下の引用文中の、Frege が挙げている譬えであり、それに対する Lesniewski の comment です。なお、蛇足ながら、念のために記しておくと、以下の引用文原文は Chwistek さんの文章です。引用文中で原文に付されている註は省いて掲げます。

 The late Stanisław Leśniewski did not like the concept of the null class. He cited the following passage from Frege in support of his position:


 ''If a class is composed of objects, is a set, a collective combination of objects, it must disappear if these objects disappear. By burning all the trees of a forest, we burn the forest itself. Consequently there cannot be a null class.''


 Leśniewski boasted that:


 '' ... throughout my life there was, on the whole, no time when I was not in agreement with this concise remark.''


One could tell that throughout Leśniewski's life there was, on the whole, no time when he understood the concept of a class. A forest is not a class, and a class is not a collective combination of objects, nor need it disappear if these objects disappear.
 If the concept:

     the root of the equation: x + 1 = x

is considered, it is clear that it does not denote numbers and therefore does not denote the roots of the equation: x + 1 = x. This equation has no roots. The concept is a null class.
 If null classes were rejected as illegitimate constructions, a theory of equations could not be developed. The question might be raised whether the function f(x) becomes zero at some point. To discover the answer to this question, the equation: f(x) = 0 must be investigated. This cannot be done if null classes are held to be illegitimate constructions. Similarly the so-called reductio ad absurdum proof could not be employed in geometry.

 […]

 Leśniewski spoke as if it were a common mistake to employ null classes. Actually mathematicians are to be censured only because they interpret classes as material collections. Consequently it is indeed difficult to understand what a null class is. But just as it does not follow that there are no infinitely small numbers, merely because the differentials of Newton and Leibniz were not defined precisely and intelligibly, it does not follow that there are no null classes. *1

Frege の譬え話はなかなか面白いですね。これは譬え話であって、論証ではないので、自らの論点の決定的な論拠とはなりませんが、わかりやすくて面白いです。この譬え話は Frege の ''Kritische Beleuchtung einiger Punkte in E. Schröders Vorlesungen über die Algebra der Logik,'' in: Kleine Schriften, Zweite Auflage, Herausgegeben und mit Nachbemerkungen zur Neuauflage versehen von Ignacio Angelelli, Georg Olms, 1990, s. 195 に出てきます。多分この譬え話は割と有名かもしれません。次にも出てきますので。三平正明、「フレーゲカントールの対話」、『思想』、岩波書店、no.954、2003年第10号、135ページ。
それにしても Lesniewski が Frege の譬え話に自信満々で言及しているところは、Lesniewski の Frege に対する全幅の信頼感を表しているのでしょうか。何だかちょっと微笑ましい気もします。Lesniewski の言明は彼の ''O podstawach matematyki,'' in: Przegląd filozoficzny, vol. 30, 1927, p. 196 に現われているようですが、こちらは私は未確認です。
いずれにせよ、対する Chwistek さんは、この二人の立場に関し、随分批判的な感じです。ただ、私個人の印象を言えば、Chwistek さんの批判は、少なくとも Frege に対するものとしては、当たっていないと思います。Frege は、いわゆる空な class も、空な集合も、何も帰属しない概念も、何であれ何かその種のものを、一切認めないと言っている訳ではないです。Frege ならば、空な class, 空な集合、何も帰属しない概念のうち、最後のものを一番基礎的なものと取るでしょう*2。Frege は class や set を、数学や論理学の基礎的な概念としては認めないようですが、今の文脈に限って言えば、対象 (objects) の存在を前提に class や set の成立を考える場合、その場合には空クラスや空集合を整合的に理解できないと、Frege は、何はさておきまずは言いたいのだろうと思います。そのことを譬え話で表したのが、上記引用文中の Frege のお話です。こうして、対象の存在を前提にすると、空クラスや空集合をうまく理解できないので、Frege は対象ではなく、概念を前提にして、そこからその概念に帰属するものの全体を考えようとしたのだろうと思われます。つまり概念の外延、値域です。この概念の外延、値域は、class でも set でもありませんが、それに近似的なものだろうと思われます。ですから結局、Chwistek さんが恐らく考えておられるように、Frege は空な class も、空な集合も、何も帰属しない概念も、何であれその種のものを、全く認めないと言っている訳ではないです。だから Chwistek さんが心配されずとも a theory of equations は安心して展開できます*3
むしろ気になるのは、Chwistek さんが null class を認める積極的な根拠に、どれほど説得力があるのか、という点です。Chwistek さんが null class を認める積極的な根拠は、上記引用文の一番最後の文に出てきます。ここでは Newton, Leibniz微分法に事寄せて、null class の存在が主張されています。そこで言われていることの大よそは、次のようになるでしょうか。Newton と Leibniz微分法においては、ある関数 f(x) に関し、x = a の時、a でこの関数を微分して微分係数が求まるならば、その計算の際に無限小を要請、想定、措定しても、それほど不合理なことではないと考えられるように、x + 1 = x のような方程式を解く際に、解がない場合、空集合を要請、想定、措定することも、さして不合理なことではあるまい、と。
しかし、Newton と Leibniz微分法を持ち出すのは、いただけないと感じられます。Cauchy や Weierstrass によって、ε-δ 論法が考え出されて、極限 (limit) の概念が整備され、また、私は全然知らないのですが、nonstandard analysis がある現在からすれば、微分法で無限小の存在を認めることは、通常の場合、それを厳密に定義された「極限」と言い換えることによって、一応許されるのかもしれませんが*4、Newton と Leibniz の当時に、「計算がうまくいくのだから、いささか不明瞭なところはあるものの、何にしろ、無限小が存在するとしていいではないか」と言ったところで、George Berkeley や Bernhard Nieuwentijt を黙らせることはできなかったでしょう*5
無限小に関し、一通りのところ、問題がなくなったとされる今だからこそ、微分法において、無限小の存在を認めても、それほどとがめられることもないかもしれませんが*6、Newton, Leibniz の当時に、「Practical にはうまくいくのだから」と言って、よくわからないものを posit して「はい、おしまい」とし、そのまま無限小の存在を容認することは、Berkeley や Nieuwentijt の話に見えるごとく、無理でしたでしょうし、もしも posit して即おしまいとしてしまうと、その後の Cauchy, Weierstrass にどのようにつながって行くのかも、全然わからなくなります。Chwistek さんとしては、微分法の例を持ち出すのではなく、別の、数学的、科学的成功例を持ち出すことで、何らかの奇跡論法 (argument from miracles) のようなものを展開し、null class の存在を擁護した方がましだったように思います。もちろん奇跡論法も、完全無欠という訳では全くないので、この論法を持ち出せば、万事うまくいくということではありませんが…*7


以上の記述に対し、誤解、無理解、誤字、脱字等がございましたら、申し訳ありません。どうかお許し下さい。

*1:Chwistek, pp. 136-37.

*2:このことを根拠付ける出典情報は、こんなことを言っては何だが、面倒なので記しません。Frege による概念の外延や値域に関する基礎的考察を展開した文章をお調べ下さい。

*3:Russell Paradox の話は、取り合えず別にすればですが。

*4:私は nonstandard analysis について、全く知らないので、本当に本当のところ、現在、無限小の存在を哲学的に容認することが、問題なく許されることなのかどうか、確信をもって言うことができません。また、無限小と言わずとも、極限の存在を認めることは、何らかの無限の存在を、この世界において認めることになるのかどうか、もしも極限が何らかの無限だとするならば、それは実無限なのか可能無限なのか、あるいは弱い無限 (Edward Nelson's infinite) なのだろうか、私は現時点では以上のような疑問に対し、不勉強なため、答える術を持ち合わせておりません。素直にこのことをここで明らかにしておきます。なお、弱い無限については、次を参照下さい。岡本賢吾、「無限」、永井均他編、『事典 哲学の木』、講談社、2002年、907-908ページ。

*5:Berkeley による批判については、例えば、足立恒雄、『無限のパラドクス 数学から見た無限論の系譜』、ブルーバックス B-1278, 講談社、2000年、170-75ページ。Nieuwentijt による批判については、林知宏、「一七-一八世紀における無限小をめぐる論争 ライプニッツを中心に」、『現代思想』、総特集 数学の思考、青土社、2000年10月臨時増刊号、185-87ページ。大雑把に言うと、Berkeley は主として Newton 系統の人々を批判し、Nieuwentijt は主として Leibniz 系統の人々を批判していたと言えるようです。

*6:本当におとがめなしなのかどうかについては、二つ前の註を参照下さい。

*7:奇跡論法と、その問題点についての解説に関しては、戸田山和久、『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる』、NHKブックス日本放送出版協会、2005年、163-73ページ、および、戸田山和久、「訳者解説」、ラリー・ラウダン、『科学と価値 相対主義実在論を論駁する』、小草泰、戸田山和久訳、双書 現代哲学 8、勁草書房、2009年、262-70ページ。