Did Ptolemy's Cosmology Dominate Western Europe Through the Middle Ages?

以下では、西洋の科学史を勉強している人なら皆知っているであろう基本事項を記します。それは、残念ながら、つい先日まで私が知らなかったこと、私に意外に思われたことです。


この間、調べ物をしていて初めて気が付いたことがあります。
分析哲学を学んでいると、科学哲学や科学史についてもいくらか学ばねばなりません。そうすると西洋の宇宙観の流れに関して、幾分かの知識を要求されることがあります。西洋の宇宙観の歴史については、私は次のような変遷があったものと、漠然とながら考えていました。


まず古代の地中海世界では、Aristotle の天動説が支配的であり、古代の終わりごろに Ptolemy の Almagest が出て彼の宇宙観が西欧世界で中世を通じて支配的となり、中世の終わり、あるいは近世の初期に、Copernicus が地動説を唱え、その後、Galilei, Kepler が出て、次に Newton と来て、Einstein へと至る、というのが大体の流れと私は理解しておりました。簡潔に書くと次の通りです。

    • 古代 Aristotle → 中世 Ptolemy → 近世初期 Copernicus → 近世 Galilei, Kepler → 近代 Newton → 現代 Einstein


しかし、これははっきり言って、間違っていると最近になって知りました。この流れについて細かいことを言えば色々とあるでしょうが、今回特に問題にしたいのは、Ptolemy です。私は西欧のラテン世界で、中世を通じて Ptolemy の天動説が支配的であったとなんとなく思ってきました。しかしながら、これは間違いのようです。なお、先ほどから「古代」とか「中世」とか「西欧世界」などと記しておりますが、そもそも正確に言って、中世とはいつからいつまでであり、西欧世界とはどこからどこまでなのか、この種のことを、特定せず話を進めております。詳細を詰めて行くと話がすごく長くなるので、今は大体の話でお許しいただければと思います。私の念頭にある中世の期間は、紀元後4世紀ごろから14世紀ごろ、西欧世界とは西ローマ帝国があった辺りのことです。これらが妥当かどうかは異論があるかもしれませんが、大まかにはこれでお許しいただけるものと考えております。


さて、西欧世界の中世を通じて支配的であった宇宙観は Ptolemy の天動説であると、私は思ってきた訳ですが、調べ物の最中に以下の文献を読んでいると、私には意外に思われることが書かれていました。

この本の100ページには、次のように書かれています。

天文学については、西欧ラテン世界では中世を通じてプトレマイオスが常に最高の権威として君臨していたというのは正しくない。プトレマイオスは十二世紀まで翻訳されず、それ以前はむしろこのカルキディウスに始まるプラトニズムの伝統が支配していたのである。

カルキディウス Chalcidius という方は4世紀前半に活躍した、教育的著述家 didactic authors の一人とされる人で、Plato の Timaios をラテン訳し、その注釈書を著した方のようです*1。Chalcidius は彼の注釈書で、天動説を記していますが、その天動説は「部分的太陽中心説」と呼ばれるもののようでした*2。大まかに言うと、Chalcidius の部分的太陽中心説とは、地球が宇宙の中心で、その周りを太陽が回っているのですが、この太陽の周りに水星と金星が回っているとするものです。また、上記引用文中の「カルキディウスに始まるプラトニズムの伝統」、すなわち、Chalcidius 以降、彼に続く人としては、Macrobius (A.D. 4C.-5C.), Martianus Capella (A.D. 4C.-5C.), Scotus Eriugena (ca. 9C.) がいるようです*3。Chalcidius と Macrobius の部分的太陽中心説は、少し正確に言うと、地球の周りをまわっている太陽の周りを水星と金星が回っていることは回っているのですが、地球の周りの導円上の点を中心に、太陽と水星と金星が周転円を回っているというもので、一方 Capella の部分的太陽中心説は、地球の周りを太陽が回り、この太陽を中心にして水星と金星が回るとするもので、Chalcidius と Macrobius に比べ、Capella の model の方が simple です*4。そして Eriugena, 彼は哲学を学ぶ私たちも知っているあの Eriugena ですが、彼は地球を中心にその周りを太陽が回り、この太陽を中心に、当時知られていたであろうその他のすべての惑星、つまり水星、金星、火星、木星土星が回るとする部分的太陽中心説を唱え、これは地球以外の惑星がすべて太陽の周りを回るとする、地動説にあと一歩までという model を考えており、これは16世紀の Tycho Brahe と全く同じ考えだそうです*5
西欧世界の中世を通じて支配的であった宇宙観は Ptolemy の天動説であると、私は思ってきたのですが、中世を紀元後4世紀ごろから14世紀ごろと取った場合、Ptolemy が西欧世界で知られるようになったのは、中世の終わりごろの12世紀以降だということで、それまでは Chalcidius, Macrobius, Martianus Capella, Scotus Eriugena の著作がよく読まれ、彼らの宇宙観が支配的であったということです。これは私は全く知りませんでした。てっきり「中世の宇宙観といえば Ptolemy だ」とばかり思っていました。そうではないということは、分析哲学を学ぶ者として、一応知っておいた方がよいと思われます。


なお、伊東先生の次の著作においても、

Ptolemy が西洋世界で知られるようになるのは中世も遅くになってからだという主旨のことが、いくつかの箇所で触れられていますが、以下の文章もその内容を覚えておいてよいことと思われます。

そのとき [12世紀] までは、実は西欧は、ユークリッド (Eukleidēs) も知りません。ユークリッド幾何学を皆様はごぞんじですね。そのユークリッド幾何学の体系も知らない。アルキメデス (Archimēdēs) という有名な科学者のことも知らない。プトレマイオス (Ptolemaios) という、ギリシア最高の天文学者 −コペルニクスが出る以前に天動説の数学的体系を精緻に築きあげた天文学者、これも知らない。ヒポクラテス (Hippokratēs) やガレノス (Galēnos) も知らない。さらには、有名なアリストテレス (Aristotelēs) の著作のほとんども知られていなかったのです。*6

Aristotle があまり知られていなかったというのは、知っていましたが、今の引用文に見られるような多くの人々が知られていなかったというのは意外です。随分知られていなかったのですね。これらの人々の考えは、古代ギリシアから西ローマ世界には行かず、東ローマの世界へと行き、Arab の世界を経て、ずっと後になって西欧世界へとやって来るという訳です。


最後に、次のこともちょっと意外なので記しておきます。以下の文献を見ると、

  • 矢島道子  「コペルニクスは地動説を証明したのだろうか?」、中根美知代他、『科学の真理は永遠に不変なのだろうか: サプライズの科学史入門』、ベレ出版、2009年

近現代的な地動説は、16世紀に Copernicus が唱え、Galilei, Kepler を経て、Newton で確立されると私は思っていますが、地動説が観察に基付いて実証されたのは、19世紀の1838年だそうです*7。これもまた随分遅くになってからですね。


以上の記述について、誤解や無理解、誤字、脱字等が含まれていましたらすみません。お詫び致します。

*1:伊東、99-100ページ。

*2:伊東、100ページ。

*3:伊東、102-108ページ。

*4:伊東、100-105ページ。

*5:伊東、105-108ページ。但し、Eriugena の中に Tycho を見ることに反対する人もおられるようです。伊東、108ページ。

*6:伊東、『十二世紀ルネサンス』、21-22ページ。

*7:矢島、80ページ。