: Quine’s Main Criticisms Directed to Quantified Modal Logic

この項目は、2011年8月8日の日記 ''C. I. Lewis' Logic in his ''Implication and the Algebra of Logic'' Collapses into Two-Valued Classical Logic'' の補遺として書かれたものです。


補遺: Quine's Main Criticisms Directed to Quantified Modal Logic

この批判は大変有名なので、詳しい話は一切致しません。Quine さんの批判に対する諸家の反論にも言及致しません。

さて、Quine さんによる批判点 (と思しきものに) は、大きく分けて少なくとも三つあるだろうと思われます。(1) その一つは、slingshot による批判であり、(2) 一つは、semantical な観点からの批判と言えるものであり、(3) もう一つは、いわゆる Aristotelian Essentialism による批判です*1

Slingshot による批判とは、簡潔に言うと、単なる真理と必然的真理の区別を無にしてしまう論証による批判です。どのような真理も、実はすべて必然的真理であると結論し、ただの真理と必然的真理の区別を無きものにすることで、alethic modalities を持ち出すことにいみはないと主張する批判です。Semantical な観点からの批判というのは、ごくごく簡単に言ってしまうと、様相量化文には真理条件を与えることができない、というものです。そして、Aristotelian Essentialism による批判には、少なくとも大きく二つに分けられるだろうと思われます。(3-1) それは認識論的な観点からの批判と、(3-2) 論理的な観点からの批判です。認識論的な観点からの批判とは、対象に備わる性質に、必然的なものと偶然的なものとを区別する根拠を、私たちは知ることができない、というものであり、論理的な観点からの批判とは、ある対象に、ある必然的な性質が備わってるとしても、ある論理的な原則を私たちが常時堅持しようとするならば、その場合、その対象にその性質が備わっているということを否定せねばならないことが結果する、というものです。取り合えず、まずは極めて簡単に slingshot による批判を説明してみます*2


(1) Quinean Slingshot

まず、'nec' を必然性を表す、文から文を形成する operator であるとします。さて現在、太陽系の惑星の数が仮に 9 であるとすると、

    • (a) The number of planets = the second power of 3

は真です。そして

    • (b) nec ( the second power of 3 > 5 )

は真であると思われます。したがって (a), (b) に代入則を使って

    • (c) nec ( the number of planets > 5 )

を得ることができ、これは真なはずです。しかし、実際には偽であると思われます。なぜなら

    • (d) The second power of 3 = 9

であることは必然的であると思われますが、

    • (e) the number of planets = 9

であることは必然的ではないように思われるからです。一方の (d) が必然的に真であり、他方の (e) が偶然的に真であると思われることから、(c) は真なはずなのに偽であるという苦境が生じたのでした。このような苦境を乗り越える一つの手立ては、9 を、いわば特定する 'the second power of 3 = y', 'the number of planets = y' などをすべて必然的に同値であるとしてしまうことです。これはつまり 9 について言えることは、すべて必然的に言えるとすることです。(d) も (e) も必然的に言えるとすることです。(e) が必然的に真であると言えるとするならば、そのことから (c) も必然的に真となるでしょう。そうすると、(a), (b) に代入則を使って得た (c) も真であることと整合します。そこで対象を一つ、かつ一つだけ取り出す特定化を、一般的に式で表せば、次のようになります*3

    • (f) ∀y ( Fy ≡. y = x ) ∧ ∀y ( Gy ≡. y = x ) .⊃ □ ∀y ( Fy ≡ Gy )

これは x という対象を一つ、かつ一つだけ特定化する F や G は、どれも必然的に同値であることを言っています。あるいは (f) を日常的な言葉でもう少し詳しく言い直せば、こうです。何であれ F であるものは、どれも x に等しく、かつ x に等しいものは、どれも F である。同様のことが G についても言える。そしてこれらが成り立つ場合、F と G は必然的に同値である。
さて今、'p' を任意の真である文を表すとし、x を任意の対象とし、w = x とします。特に 'p' を必然的でも偶然的でもないただの真理であるとします。するとこれらの仮定から次の二つが成り立つことがわかります。

    • (g) ∀y ( p ∧ y = w .≡. y = x )
    • (h) ∀y ( y = w .≡. y = x )

(g) の丸カッコ内の左辺が成り立つとしてみましょう。すると y = w が成り立ちます。仮定により w = x でしたから、y = x です。これは丸カッコ内の右辺です。
次に (g) の丸カッコ内の右辺が成り立つとしてみましょう。つまり y = x です。仮定により、w = x でしたから、y = w となります。そして仮定により p が真でした。したがって p ∧ y = w となります。これは丸カッコ内の左辺です。
(h) も同様にして成り立つことが確認できます。
念のために (g) と (h) の内容を平たく言えば、次のようになります。すなわち、w と x が同じものならば、何であれ y が w に等しい時、y は x に等しく、かつ y が x に等しい時には、y は w に等しいのは当然です (h)。これに成立する任意の文を加えても、相変わらずそれは成り立ちます (g)。
さて、(f) の 'F' に 'p ∧ _ = w' を、'G' に '_ = w' を代入してみましょう。するとこうなります。

    • (i) ∀y ( p ∧ y = w .≡. y = x ) ∧ ∀y ( y = w .≡. y = x ) ⊃ □ ∀y ( p ∧ y = w .≡. y = w )

この式の条件法の左辺は (g) と (h) の連言になっています。そこで MP により、

    • (j) □ ∀y ( p ∧ y = w .≡. y = w )

が帰結します。
ところで一般に、何かが必然的に成り立つものならば、その何かは端的に成り立つでしょう。つまり任意の文 q について、

    • □ q

が成り立てば、

    • q

自身も成り立つでしょう。すると (j) が成り立つとするならば、その必然性記号 □ の右にある式も、

    • (k) ∀y ( p ∧ y = w .≡. y = w )

端的に成り立つはずです。ならば、(k) は例化できるはずで、y は任意であることから、y を w で例化すれば

    • (l) p ∧ w = w .≡. w = w

となり、この右辺は常に成り立つので、この式の左辺が成り立ち、

    • (m) p ∧ w = w

連言肢から成る連言文が成り立てば、それを構成する各連言肢それぞれも成り立つので

    • (n) p

が成り立ちます。
ところで振り返ってみるに、

    • (j) □ ∀y ( p ∧ y = w .≡. y = w )

の成立は、□ 右の

    • (k) ∀y ( p ∧ y = w .≡. y = w )

成立を含意しているのでした。そしてこの (k) の成立は、(k) を例化して行って

    • (n) p

を含意しているのでした。ということは、(j) の成立は、次を含意しているということになります。

    • (o) □ p

つまり最終的に □ p が証明されました。

ところで、以上の論証の最初に置いた仮定では、'p' は任意の真理を表す文としていました。したがってそれは必然的でない真理でも構わないのでした。しかし、今得られたばかりの結論を見ると、いかなる真理も必然的真理であるということになります。ということは、ただの真理を語っておけば十分であるということ、つまり古典二値論理を使っておけば、様相論理を語る十分条件を既にして満たしてしまっていることを表しています。とすると、古典二値論理とは別に、ことさら様相論理をわざわざ持ち出すことに、どれほどのいみがあるのでしょうか。これが slingshot による Quine さんの様相論理批判です。


ここまで記して、補遺の割には話が例によって長くなり過ぎていますので、残りの semantical な観点による批判と、Aristotelian Essentialism による批判は、本当に手短に済ませたいと思います。


(2) Semantic Refutation

Semantical な観点からの批判とは、次のものです*4

今仮に、太陽系の惑星の数が 9 であるとします。さて、

    • (I) nec ( 9 > 5 )

は真と思われます。しかし、

    • (II) nec ( the number of the planets > 5 )

は偽であると思われます。ところで、私たちはこれら (I), (II) から

    • (III) nec ( x > 5 )

という述語を作ることができると考えられます。この述語が、学問上、有用かつ不可欠な述語ならば、この述語は任意の対象に対し、当てはまるか当てはまらないかのどちらかが、決まっているべきです。あるいはこの述語は任意の対象に対し、真であるか否かが決定されているべきです。それではこの述語は対象 9 に対し、真でしょうか。自然数としての対象 9 は、(I) からわかるように、述語 'nec ( x > 5 )' に当てはまって真です。しかし、惑星の数としての 9 は、(II) からわかるように、述語 'nec ( x > 5 )' には当てはまらず真ではありません。ということは、もしも通常の意味論を前提するならば、(III) の述語 'nec ( x > 5 )' は、同じ対象に対して、時には真で、時には真でない、ということになり、ある対象に関し、真偽不定な述語であると言え、このような述語を含んだ文は、真偽が不定、真理条件を整合的に与えられない、ということになります。このことは、次のようにも言えましょう。つまり、述語 'nec ( x > 7 )' は、ある対象に対し '9' という言い方の時は真であり、'the number of the planets' という言い方の時には真ではない、ということになり、ある対象がその述語に当てはまるか当てはまらないかは、言い方次第だ、ということになります。こういう述語は、明らかに通常の、言い方に左右されない、対象のみに/対象そのものに着眼する意味論からすると、まともな述語とは言えません。こうして通常の真理条件的意味論を堅持しようとするのなら、真理条件を与えられないというのは、ゆゆしき問題となります。(III) の述語 'nec ( x > 5 )' が、まともな述語ではないと主張する Quine さんの文章を、引用しておきます。

We can reasonably infer '(∃x) nec (x > 5)' from 'nec (9 > 5)' only if we regard the latter as telling us something about the object 9, a number, viz. that it necessarily exceeds 5. If 'nec ( . . . > 5)' can turn out true or false ''of'' the number 9 depending merely on how that number is referred to […], then evidently 'nec (x > 5)' expresses no genuine condition on objects of any kind. If the occurence of '9' in 'nec (9 > 5)' is not purely referential, then putting 'x' for '9' in 'nec (9 > 5)' makes no more sense than putting 'x' for 'nine' within the context 'canine'.*5


(3) Aristotelian Essentialism

最後に、Aristotelian essentialism による批判を二点。


(3-1) Epistemic Refutation

まずは、その認識論的観点からの批判について。これはごく簡単に述べますと、対象に備わる性質のどれが必然的に備わっており、どれが偶然的に備わっているのか、厳密に区別することはできない、その区別の根拠を説得力を持って一般的に知ることはできない、という批判です。この批判は、Quine さん本人の文章を引用した方が早いので、以下に引いてみましょう。

不透明な様相量化文脈内の、量化される argument の位置を、不透明なものから透明なものへと technical に変換してみせるということは可能であるが、そもそも様相というものを反省してみるに、必然性と偶然性という二つの様相を区別しようとするならば、ある性質なり属性なりが、必然的なものなのか、偶然的なものなのか、どちらなのか判断が付かずに当惑してしまう事態に陥ることがある。この種のことを述べた後、Quine さんはそのような窮境を、以下のような具体例で説明しています。

 Perhaps I can evoke the appropriate sense of bewilderment as follows. Mathematicians may conceivably be said to be necessarily rational and not necessarily two-legged; and cyclists necessarily two-legged and not necessarily rational. But what of an individual who counts among his eccentricities both mathematics and cycling? Is this concrete individual necessarily rational and contingently two-legged or vice versa? Just insofar as we are talking referentially of the object, wiht no special bias toward a background grouping of mathematicians as against cyclists or vice versa, there is no semblance of sense in rating some of his attributes as necessary and others as contingent. Some of his attributes count as important and others as unimportant, yes; some as enduring and others as fleeting; but none as necessary or contingent.
 Curiously, a philosophical tradition does exist for just such a distinction between necessary and contingent attributes. It lives on in the terms 'essence' and 'accident', 'internal relation' and 'external relation'. It is a distinction that one attributes to Aristotle (subject to contradiction by scholars, such being the penalty for attributions to Aristotle). But, however venerable the distinction, it is surely indefensible; and surely then the construction (9)*6 which so smoothly implements it must go by the board.*7

例えば、Peter Frankl さんは、必然的に mathematician なのだろうか、偶然的に juggler なのだろうか。あるいはその逆なのだろうか。Frankl さんが必然的に mathematician であり、偶然的に juggler であるならば、Frankl さんは必然的に rational だろうけれど、偶然的に two-armed だということだろうか。しかしそれはどうしてそうだとわかるのか。それは誰が決めるのか。Frankl さん自身だろうか、それとも他の誰かなのだろうか。 But who knows?


(3-2) Logistic Refutation

必然性、偶然性などの alethic modalities に対する Aristotelian essentialism に基付く論理的な観点からの批判とは、もしもある対象に、ある必然的な性質が備わっているとしても、ある論理的な原則を常に堅持しようとするならば、その時、その対象にその性質が備わっているということを否定せねばならなくなり、必然的性質なるものの存在を認めることができなくなる、というものです。このことを以下で論証してみます。

その前にまず、Quine さんにとって Aristotelian essentialism を表す典型的な式は、次のものであることを確認しておきます*8

    • (∃x) ( nec Fx . Gx . ~ nec Gx ).

日本語でこの式が表していると思われることを記してみるならば、「あるもの x があって、それは必然的に F であり、かつ G であるが、必然的には G ではない」、または「あるもの x があって、それは必然的な性質 F を持ち、かつ性質 G を持つが、この G は必然的な性質ではない」とでもなるでしょうか。この例のように、あるもの x が、必然的な性質を持つとするならば、そしてこの必然的な性質が、その他のありふれた性質と同様のものであり、かつ私たちがある論理的な原則を保持しようとするならば、その結果、矛盾が帰結するので、何かが必然的性質を持つと仮定することはできない、つまり必然的性質などない、と主張するのが以下の論証です*9。それではその論証を始めます。


(Q1) この世界には様々なもの、様々な対象があります。そしてそれらのうちのある対象は、色々な性質を持っています。そのある対象は、可燃性という性質を持っているかもしれません。展性という性質を持っているかもしれません。あるいは有毒であるという性質を持っているかもしれません。その対象が有毒であるという性質を持っている場合、そのような性質を持っているのは、その対象がそういう在り方をしているからです。当たり前の話ですけれど…。ところで、次のように仮定してみます。つまり、対象に備わる様々な性質のうち、必然的に備わっている性質、必然的な性質があるとしましよう。対象に備わっている諸性質のうち、あるものを必然的であるとするならば、その性質がその対象に対して必然的に真であるのは、その他の性質と同じく、その対象の在り方によってでしょう。

(Q2) 対象に備わっている諸性質のうち、あるものを必然的であるとするならば、その性質がその対象に対して必然的に真であるのは、その他の性質と同じく、その対象の在り方によってだとすると、その対象をある言い方で表そうが、別の言い方で表そうが、その性質がその対象に対し、必然的に真であることには変わりはないでしょう。例えば、ある対象 a があって、これが有毒である場合、この対象を 'a' ではなく 'a’' と呼んだところで有毒な性質が無毒化されるということはないでしょう。通常、対象の呼び方は、その対象の性質に影響を与えないはずです。

(Q3) 対象をある言い方で表そうが、別の言い方で表そうが、それに備わる必然的な性質がその対象に対し、必然的に真であることに変わりがないとするならば、必然性に関する様相文脈の中で、同じ対象を表す二つの異なった表現は、その文脈全体の真理に影響を与えることなく、常に入れ替え可能なはずです。つまり対象 a, b が同一のものであるならば、必然的である任意の性質 F について、'Fa' と 'Fb' はいつも同値になるはずです。式で書けば 'a = b → ∀F (Fa ≡ Fb)' となって、これは論理学で多用されていると思われる代入則の成立、一種の論理的な原則と言えるであろう代入則の普遍的堅持をいみしています。

(Q4) しかし、必然性に関する様相文脈の中で、同じ対象を表す二つの異なった表現は、その文脈全体の真理に影響を与えることなく、常に入れ替え可能なはずなのに、そうではないような反例が存在します。例えば、'nec' を必然性を表す operator として、'nec ( x > 5 )' をある必然的な性質を表す述語とするならば、2011年現在、'8 = the number of the planets (in the solar system)' は真であるのに、'nec ( 8 > 5 )' と 'nec ( the number of the planets > 5 )' は同値になりません。

故に、

(Q5) (Q3) における代入則を常に堅持するならば、最初の (Q1) で立てた仮定、つまり対象に備わる様々な性質のうち、必然的に備わっている性質、必然的な性質がある、という仮定は否定されねばなりません。つまり、必然的に備わっている性質などない、必然的な性質などない、ということです。


このようにして、Aristotelian essentialism が、対象に必然的な性質を内在化させる見解であるとするならば(modality de re)、論理的とも言える代入則を常時堅持する限り、そのような見解は否定せざるを得ない、ということになります。


以上が Quine さんによる様相量化論理批判の主要な point と考えられるものです。


上で述べたことに対し、誤解や無理解や見当違いがあるかもしれません。誤記も脱字もあるかもしれません。そうでしたらお詫び致します。何卒お許し下さい。

*1:もちろんその他にも、Quine さんによる様相論理批判で、様相論理に対して批判されている事柄は、いくつかあるのですが、その全部をこの補遺で扱う訳にはいきませので、詳しくは次を参照下さい。Dagfinn Fφllesdal, ''Quine on Modality,'' in Roger F. Gibson Jr. ed., The Cambridge Companion to Quine, Cambridge University Press, Cambridge Companions to Philosophy Series, 2004.

*2:Willard Van Orman Quine, Word and Object, The MIT Press, 1960, pp. 197-98. 邦訳、W. V. O. クワイン、『ことばと対象』、大出晃、宮館恵訳、双書プロブレマータ、勁草書房1984年、331-333ページ。

*3:これ以降の論証は、先に註で言及した Fφllesdal, pp. 206, 208 に沿っています。

*4:この批判の説明については、次を参照しました。飯田隆、『言語哲学大全 III 意味と様相 (下)』、勁草書房、1995年、47-50ページ。及び、Leonard Linsky, ''Reference, Essentialism, and Modality,'' in: The Journal of Philosophy, vol. 66, no. 20, 1969, p. 690, section III. 取り分け後者の Linsky さんの説明に多くを依っています。

*5:W. V. Quine, ''Three Grades of Modal Involvement,'' in his The Ways of Paradox and Other Essays, revised and enlarged ed., Harvard University Press, 1976, pp. 172-73.

*6:'the construction (9)' とは、次の文のことです。'x[ x > 4 ] is necessary of 9.' この文は、'[ 9 > 4 ] is necessary.' という文から作られます。'[ 9 > 4 ]' は '9 > 4' という文が表す命題のことです。'9 > 4' から 'x ∈ { x | x > 4 }' というクラス抽象が作られるように、'9 > 4' という文が表す命題 '[ 9 > 4 ]' から抽象によって作られるのが内包的抽象 (intensional abstraction) 'x[ x > 4 ]' です。''9 > 4' is necessary' の '9' の位置は不透明ですが、内包的抽象を使って、様相文脈内の argument に位置していた 9 を、次のように様相文脈外へと逃がしてやると、'x[ x > 4 ] is necessary of 9' の '9' の位置は透明にすることができます。

*7:Quine, Word and Object, pp. 199-200. 邦訳、 クワイン、『ことばと対象』、334-35ページ。

*8:Quine, ''Three Grades,'' p. 176.

*9:この論証は、次の文献の該当ページにある論証を、色々補足したものです。Michael Morris, An Introduction to the Philosophy of Language, Cambridge University Press, Cambridge Introductions to Philosophy Series, 2007, p. 127. 以下の論証中の '(Q1)' なのど名称は、Morris さんの論証にあるものです。