A Progenitor of Resolutism Concerning Wittgenstein's Tractatus

個人的に意外に感じたことを一つ記します。
購入したばかりの次の論文集に

  • Rupert Read, Matthew A. Lavery ed.  Beyond the Tractatus Wars: The New Wittgenstein Debate, Routledge, 2011

以下の論文が巻頭論文として収められています。

  • Warren Goldfarb  ''Das Überwinden: Anti-Metaphysical Readings of the Tractatus''

この論文はいわゆる resolutism の本 The New Wittgenstein に対する論評として、元々2000年に草されたようです。この論文をざくっと流し読みしてみました。そこで私には意外に感じる事柄が一つ書かれていました。Wittgenstein の Tractatus に対する resolute な解釈を始めたのは、Cora Diamond さんと James Conant さんだったろうと思うのですが、Goldfarb さんによるとこの解釈には、Diamond and Conant さんたちの前に、先駆者がいたそうです。Goldfarb さんの文章を引用してみましょう。

My topic in this paper is dissent from this view: denying that the Tractatus is propounding realism, and denying that Wittgenstein is communicating a metaphysics. This is ''the new Wittgenstein [i.e. Resolutism],'' but it goes back farther than some recent literature indicates; the new Wittgenstein has roots over thirty years old. Realism was the focus of this kind of dissent at first, starting with a 1969 paper of Hidé Ishiguro, […] *1

という訳で、石黒ひで先生が先駆者とされています。先生の ''Use and Reference of Names'' という論文が resolutism の先駆けだそうです*2。これには個人的にちょっとびっくりしました。私はこの石黒先生の論文は持ってはいるものの未読であり、かつ resolutism についてはよく知りませんので、確たることは言えませんが、resolute な解釈の淵源に石黒先生がおられるというのは意外に感じられます。一体どうしてそのようなことを Goldfarb さんは言われるのでしょうか。その根拠は、大体次のようです。
繰り返しますが、私は resolute な解釈をよく知りませんが、その解釈によると、Tractatus では、その最後の一歩手前の6.54における有名な次の言葉「いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。」*3を真剣に受け止め、Tractatus の本文を投げ棄てねばならないと考えるようです。これはつまり Tractatus の本文での主張を真に受けないようにすること、何事かが文字通りに主張されているとは取らないようにすることを含意しているようです。例えば Tractatus の本文冒頭では、世界の在り方について、何事かが述べられ主張されているように見えます。しかし resolute な解釈によると、それは文字通りにはその通りには受け取れないと解するようです。ということは、世界についてあからさまに述べているように見えながら、実は世界について述べているのではない、あるいは少なくとも直接的には世界について述べているのではない、というようにでも捉えようというのが、恐らく resolute な読みであるようです。私たちは通常、Tractatus 本文冒頭部分を見ると、そこでは世界について何かが言われていると考えます。世界があって、Wittgenstein がいて、ドイツ語なり英語なりがあって、Wittgenstein がドイツ語なり英語なりを使って、世界の側の有り様が、かくかくしかじかですよ、と述べているように見えます。あらかじめ、世界と言語と Wittgenstein がそれぞれ独立して在って、それからそれら三者が或る関係を持つ、という様子を、Tractatus 冒頭から私たちは想像します。しかし resolute な解釈は、文字通りにはそのように受け止めるべきではないと考えるようです。つまり、実在論的に世界と言語と Wittgenstein とがまず在って、それからそれらの存在を前提に、Wittgenstein が世界の在り方について、叙述するというのが、Tractatus の冒頭部分の状況なのではない、ということです。そして私たちがよくやるありふれた実在論的な読みではなく、実在論的ではない読みこそが、Tractatus にふさわしいと言ったのが石黒先生のようです。つまり実在論的ではない読みの可能性を切り開いたのが石黒先生だったようで、このいみで先生は resolutism の先駆者と Goldfarb さんによってされているみたいです。多分ですが、石黒先生は resolutists のように、Tractatus 本文を真に受けるべきではない、という意見に賛成されないでしょうから、厳密ないみでは先生は resolutist ではないと思われるのですが*4、Goldfarb さんの言うように、素朴な実在論的解釈を退けるといういみでは、石黒先生は resolutism に一部与していると考えられ、その点で resolutism に対する先駆的業績を先生は築き上げられた、ということになるのでしょう。なお、Goldfarb さんによると*5、石黒先生が Tractatus実在論的ではない読みの可能性を切り開いたのは、Tractatus の3.3におけるいわゆる文脈原理に石黒先生が着眼され、この原理によると、Tractatus では素朴な実在論が成り立たないことがわかるからだそうです。この原理によると、名前 (names) の指示対象 (referents) は、あらかじめ存在しているのではなく、名前が文脈の中に置かれることによって、初めて対象が定まって来るのであり、このことは名前というものが直示なり命名儀式の類いによって名指しの機能を帯びるのではないとWittgenstein が考えている証拠であると理解されているようです。このようないみで、Tractatus は素朴な実在論を有しているものではなく、Tractatus 本文は、実在論的ではない観点から読まれねばならない、ということです。このような実在論的ではない解釈の立場は、その後、Brian McGuinness さん、Goldfarb さんご自身、そして Peter Winch さんを経て、C. Diamond さんへと受け継がれて行くそうです*6
恐らく石黒先生は本当のところは resolutist ではないでしょうが、resolutism を幾分支持するような読みの可能性を切り開き、そこへの道を整備した (paved the way to the resolute reading) といういみでの先駆者ということなのでしょう。Resolutism についてはよく知らないので、以上の私の話は多分ですけれど…。


上記の事柄につきまして、誤解や無理解や勘違い等が含まれているかもしれません。誤字や脱字も含まれているかもしれません。間違っているようでしたらお詫び致します。

*1:Goldfarb, p. 7.

*2:Goldfarb, p. 20, n. 6.

*3:ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫岩波書店、2003年、149ページ。

*4:先生の次の論文を読むと、私には先生が resolutist であるとは感じられませんでした。石黒ひで、「『論考』はいまどう読まれるべきか」、飯田隆編、『ウィトゲンシュタイン読本』、法政大学出版局、1995年。石黒先生にとっては Tractatus 本文内の主張は、真面目に取られるべきであり、読み終わった後に投げ棄てられるべきものではないとお考えだろうと思います。

*5:Goldfarb, pp. 7-8.

*6:Goldfarb, p. 7.