飯田隆先生の次の著作
と、その続巻が、非常に高く評価されていることは、衆目の認めるところです。私も大変お世話になりました。今もお世話になっております。ところでしばらく前に、上記の巻の一部を読み返していると、先生のある重要な論証の一部に不備 (と思われるもの)*1 があることに気が付きました。まさか先生の論証に不備があるとは思っていなかったので、その不備に気が付いた時、ちょっと信じられませんでした。自分の方が間違っているに違いないと思いました。とはいえ、その不備を、一応自分なりにまとめた文を書いてみました。しかし書いてはみたものの、やはり自分の方が間違っているに違いないと思っていましたので、書いた文章をそのままにしていました。
そうやってしばらく経ち、本日、何の気なしに次の文献を読んでみました。
すると、野本先生も飯田先生の本が出た直後の今記した書評で、既に同じ不備を指摘されているのに気が付きました。脱帽です。その不備とされている事柄を、野本先生の書評から引用してみます。
文の Bedeutung をフレーゲが真理値と見做した経緯についての評者 [野本先生] の理解と pp.108〜111 の [飯田先生による] 議論に微妙な違いがある. 対比の為に評者の理解の大筋を記す. pp.108〜9 では複合文の真理値と構成要素文の真理値との関係と [原則] (合成B) との並行性が述べられているのみで, 未だ文の意味を真理値と確定したことにはならない. 文の思想に関してもやはり合成原理が成り立つからである. [原則] (文脈B,S) も文の意味・意義が何かが確定しなければ, それだけでは空虚である. そこで問いは, 文の意味とは真理値なのか思想なのかとなる. さて単文の真偽を問い得るのは, その文中の単称名が指示対象をもつ場合その場合に限る. ここで代入則による検証機能が働く. 同じ指示対象をもつが異なる思想部分を表現する単称名同士を交換しても, 影響を受けないのは, 思想ではなくて真理値である (cf.p,110). かくてもし真理値を文の意味と取り決めれば, 文中の単称名の意味はその指示対象となる. だがこのフレーゲの議論の最後のステップには間隙が指摘されてきた. 即ち, 一意的に指示対象には決まらない*2. ここで著者のいうフレーゲの実在論的性格があらわになる. フレーゲは単称名の指示対象をその意味とするのである. するとここで初めて自動的に, 文の意味は代入則及び (合成B) を充たす真理値に決まるのではないか.*3
飯田先生著、『言語哲学大全 I 』の「pp.108〜9 では複合文の真理値と構成要素文の真理値との関係と (合成B) との並行性が述べられているのみで, 未だ文の意味を真理値と確定したことにはならない. 」 これが、私が最初に述べた、私自身気が付いた飯田先生による論証の不備です。
私自身も気が付いた、飯田先生の論証の不備をまとめた文章を、以下に記してみたいと思います。この文章は、実は元々私が書いた別の文章の補遺として書かれました。その別の文章は、ほぼ書き上がっているのですが、完成はしておらず、この日記上にも up しておりません。その、元々私が書いた別の文章とは、次の題を持つものです。(題名は英語ですが、本文は日本語です。)
- ''What Problem Did Frege Argue in his "Über Sinn und Bedeutung"? More Precisely, What Problem Is a Great Part of his Most Famous Paper Devoted to?''
この文章の補遺 (の一つ) が、飯田先生による論証の不備を指摘した文章で、次の題をしています。
- 補遺 2: Frege における文の Bedeutung を真理値であると立証するのに、複合文の Bedeutung が真理値であることを立証するだけで充分で、単文の Bedeutung が真理値であることを立証することは不要か?
この文章も、先の ''What Problem Did Frege Argue in his "Über Sinn und Bedeutung"? …'' に続き、日記に up する予定にしておりましたが、まだ up していません。しかし今ここで、項目を新たに立て直してその文章を up してみます。