Many Philosophers Have Proposed a Number of Interpretations of Quantum Mechanics. But in the End, What Have They Disputed on for Many Years?

先日購入させていただいた次の本を読了した。

以下で、この本を読んで個人的に気が付いた点を記したいと思います。下記の話は、恐らく量子力学の哲学をされている方は皆さん知っておられるようなわかり切った話だと思います。今さらながらの話なので、珍しくも何ともない話です。


多くの人の知っての通り、量子力学の哲学は大変難しいです。私にもとても難しいので、その哲学の話題が出てきても、敬遠して参りました。とはいえ、その哲学の入門書や一般向けの読み物を私もいくつかは読んでおりました。これも多くの人の知っての通り、その種の入門書の類いを読むと、光に関する波と粒子の二重性のような不思議な話や、多数の世界が存在するというような奇妙な解釈が出てきたり、特殊な実験や物理式の論述を含んだ非常に technical な話がいくつも出てきます。私もこれら不思議な話や解釈、難しい実験や式に、首をひねったことがありました。正直に言って、それらの不思議な話や解釈、特殊な実験や式を理解するのに手いっぱいで、たとえ猫の手を借りても理解できそうにない話だったため、量子力学を哲学するというところまでは、全く行きませんでした。

ところが先日、上記の森田先生の本を拝読していると、今さらながらですが、量子力学の解釈の問題に関して、結局人々が何をやっているのか、ちょっぴりわかったような気分になりました。量子力学の哲学には、取り組むべき哲学的問題が多数あるものと思います。中でも恐らく最もよく知られ、多くの人が取り組んできた問題は、いわゆる解釈の問題だろうと推測します。量子力学の数学的理論が、物理学的、哲学的に、世界に関して何を述べているのか、という問題です。繰り返しますが、私は量子力学の哲学の入門書を読んでいて、不思議な話や難しい話に心奪われて、哲学としては何が重要で、何が哲学的争点となっており、どこをどのように哲学的に問えばよいのか、気が回らずに来ました。何故このような難しい話をしており、何故こんなにもたくさんの解釈が乱立しているのか、よくわからずにいました。しかし今回の森田先生の本を読んでいて、不思議な話に逐一感じ入ったりしないようにし、また技術的細部にもあえて拘泥せずに、距離を取りながら拝読していると、量子力学の解釈の問題で哲学者たちは、結局何を論争点としているのかが、遅まきながらわかった気がしました。

量子力学の哲学の解釈問題では、奇妙でもあり、非常に technical でもある解釈がいくつもあるようですが、これら解釈の多くがやろうとしていることは、一言で言ってしまうと、いわゆる実在論 (realism) の回復の試みだろうと思います。標準的な the Copenhagen interpretation が、いわゆる実在論的ではない世界の在り方を量子力学の理論から読み取るのに対し、様々に出てきた解釈の多くが目指していると思われることは、この標準的な解釈に対する実在論回復運動 (Reconquista, or Attempts to regain a paradise) だろう、ということです。

ところで、実在論というのが何であるのかは、難しい問題であり、「それはこれです」と、誰もが納得する手短な答えをここで提示することは、私の力量不足もあってできません。とはいえ、私が簡単ながら大体どのようなことを今「実在論」という言葉で念頭に置いているのかを一応記してみます。

ここで言う実在論とは、極めて大まかながら次のようなことです。世界は私の認識から独立して在り、私が世界のある事柄について知るにしろ知らないにしろ、そのような認識によって、世界の在り方/事実/真理が変わってしまうということは、特別な場合を除いてない。かつ、このような世界の在り方/有り様は、単なる混沌ではなく、一定の構造を持っている。加えて、世界の在り方について、私たちは (いわゆる特称的、単称的な) 個々の事実を述べ立てることができるばかりでなく、個々の事実を包括する一般的事柄を私たちは述べることができ、理解することができるのであり、その際、人は関数の観念 (notion) を使って一般法則として述べ、考えることができる。しかもここで表されている一般法則は、いわゆる確率論的なものではなく、決定論的な因果関係を述べる法則である。

今述べた実在論の概要には、一般に実在論固有の特徴とは思われないものも含まれているかもしれませんし、この他に実在論の特徴として必要なこともあるかもしれませんが、ここではそのことは置いておきます。いずれにせよ、実在論のこの概要からは、世界が私たちから独立して在ること、世界の事柄について法則によって私たちは知ることができること、この法則は決定論的であること、以上の少なくとも三点が point として浮かび上がってくることがわかります。


さて、先ほど「標準的な Copenhagen interpretation が、いわゆる実在論的ではない世界の在り方を量子力学の理論から読み取」っている、と述べました。このことを森田先生の本で確認してみます。
先生の本の68ページから72ページに、Copenhagen interpretation が最低限堅持するとされる格率が五つ、あるいは六つ、提示されています*1。それらを若干こちらの方でまとめ直しながら、以下に掲げてみます。


1. 測定前に物理量は確定した値を持って実在することはない。
2. 空間的に遠く離れたもの同士が一瞬で影響し合う非局所相関はある。
3. 状態の収縮を認め、射影公理を要請する。
4. 光について、それが粒子でもあり波でもあるという二重性を認める。
5. ある物理量がある測定値を得る確率は、「ボルンの規則」と呼ばれる規則によって計算される。
(6. 観測者の意識によって状態の収縮が起きる。)


6. は、これらの格率に伴われず、採用されない場合もあるようなので、カッコ内に入れてあります。以下、これらの格率それぞれが、実在論的なものではないことを見てみます。


1. は、それ自身で実在論的ではないことが読み取れると思いますので、詳説は致しません。測定前の物理量は確定した値を持っていないということは、現在ではアラン・アスペ (Alain Aspect) さんが、ベルの不等式 (Bell's inequality) の破れを実験で示すことにより、一般的に確認されていると見られます*2
2. は 1. から帰結すると思われます。1. が成立することにより、ある系に含まれる測定対象の物理量は測定前には実在せず、測定した瞬間にその系に含まれる測定対象の物理量が決まるので、非局所相関はあるものとして認められます*3
3. について、状態の収縮を認めるということは、測定前に状態が重なり合っていることを認めるということであり、これはつまり測定前に物理量が確定した値を持って実在していないということをいみします*4
4. 光が波であるということは、状態が収縮する前の様子を表しており、光が粒子でもあるということは、状態が収縮して粒子として測定された結果を表していると考えられます。これはつまり 3. にあるように、状態の収縮を認めるということであり、よって測定前に確定した物理量は実在していないということになります*5
5. の「ボルンの規則」とは何であるかについて、森田先生の本では説明がほとんど省かれているので、私はその詳細を知りません。ここで正直にそのことを記しておきます。ただし、どうやらボルンの規則とは、波動関数の計算の規則のことであり、その規則は Born さんによる波動関数についての確率解釈というものと分かち難く結び付いているようです*6。私は波動関数についても正確に説明することはできませんので、細かい話は一切致しません。ただ、ボルンの規則に結び付いている Born の確率解釈というものは、「哲学的に見ると反実在論的仮説である。事実、ボルンの [波動関数が表す] 波動は物理的世界における実在ではない」*7そうです。そして Born の確率解釈が施された波動関数は、本質的に決定論的ではないもののようです。すなわち、このような関数によって記述される micro な物理的状況は、この世のすべての知識を持ち、完全に測定の際の誤差を除去し、無制限に高速で無制限に記憶できる計算機をもってしても、つまり全知全能の神をもってしても、予測できないものである、ということのようです*8
最後に6. は、状態の収縮が、例えば測定装置の場で起きるのか、それとも脳内なら脳内で起きるのか、ということに関係しています。収縮がどこで起こるにしても、この6. においては、何であれ状態の収縮が起きると言っているのであり、ということは状態の収縮を認めるということであって、これは上記の3. に相当し、6. からは、測定前には物理量は確定した値を持って実在しないということになります。


こうして1. から6. はすべて、実在論的ではない主張と考えられます。ところで私たちは普段、大まかには実在論的な世界の在り方を前提にして生きていると思います。私たちの身の回りの middle size の世界では、実在論的な見方が成り立つと思って生活していると思います。また、Einstein の相対性理論が示す macro な世界も、実在論的であると考えられているようです。しかし、量子力学の Copenhagen interpretation によると、micro な世界では、先述の通り、実在論が成り立たないと言っているように見えます。これに対し、測定とは無関係に物理量が実在し、それが決定論的に一般法則によって因果的に表される世界を回復したいというのが、多くの人の抱く願望だろうと思います。量子力学の解釈は多数存在するようですが、その多くはどうやらこの願望に応えるべく生み出されて来たのではないかと個人的に推測します。


今回取り上げている森田先生の本においては、量子力学の主要な解釈として、Copenhagen interpretation の他に、大きく分類すると、九つの解釈が紹介されています*9。それらを箇条書きにしてみます。各解釈の別名や各解釈の英文名は省きます。本に出てくる順に記します。解釈名の後ろの数字は、すぐあとで説明します。

  1. 軌跡解釈 110, 186-187, 217
  2. 多世界解釈 159-162
  3. 裸の解釈 166, 186
  4. 多精神解釈 166, 172-173, 186
  5. 単精神解釈 166, 178-179, 186
  6. 一貫した歴史解釈 185
  7. 様相解釈 186-189, 192
  8. 交流解釈 202
  9. 時間対照化された解釈 202, 214-217, 220


先生の本を調べてみると、これら各解釈はすべて実在論的な解釈であると考えられているようです。Copenhagen interpretation は実在論的な解釈ではないのに対し、今挙げた、量子力学の主要な解釈と思われる九つの解釈は、全部実在論的であるようです。あるいは少なくとも実在論を志向していると解することができるようです。それぞれの解釈が実在論的である理由としては、色々あるようで、例えば状態の収縮を認めないから実在論的であるとか、状態の収縮を巧妙に回避しているから実在論的であるとか、測定前も物理量が確定していると見なしうるから実在論的であるとか、測定装置が測定しようとしている物理量は、測定前に確定した値を持っていると考えられるので実在論的であるとか、測定が理想的状況下でできるならば、その測定装置が測定しようとしている物理量は、確定した値を持っていると考えられるので実在論的である、などが実在論である理由として挙げられています。上記各解釈名の後ろの数字は、森田先生の本でそれらの解釈が実在論的であるとの主旨の記述が見られるページ数のことです。ただし、森田先生がそれぞれの解釈について実在論的であるとおっしゃっておられるからといって、本当にそれぞれの解釈が実在論的なのかどうかは、きちんと検討してみる必要はありますが。


こうして、量子力学の解釈には色々あるようですが、恐らくその主要なものは、Copenhagen interpretation と異なり、実在論を志向している、実在論潜在的に回復しようとしているものと見ることができると思われます。奇妙で、しかもかなり technical な各解釈も、どうやら実在論回復のために手を変え品を変えて考え出されていると推測されます。量子力学の哲学においては、えてしてそこでの話題の奇妙さや、難解さの荒波の中にしばしば沈没してしまうところですが、哲学的に見て、最終的に問題となっているのは、実在論的感覚に合った解釈を奪還しようとしていること、決定論を回復しようとしていること、常識的な因果律を堅守しようとしていること、これらのことが大抵の解釈に見られるのかもしれません。そのいみで、量子力学のたくさんある解釈も、特に実在論の回復運動であると見るならば、繰り返しなされる様々な解釈の提案も、統一的に捉えることができるように森田先生の本から感じられました。ただし、実在論や実在性の概念だけで、今までの各解釈のすべてを完全に俯瞰できる訳ではありませんから、これはあくまで便宜的で暫定的な観点とお考え下さい。


ちなみに実在論という観点を持ち出して各解釈の狙いを説明するこのような私の見解は、別段特別なものではないようです。例えば、Wikipedia, the free encyclopedia, entry ''Interpretations of quantum mechanics'' の冒頭においても、様々な解釈の論争点としては、実在性や決定論が問題となっていたことが述べられています。Wikipedia の記述をそのまま鵜呑みにすることはできませんが、一つの見解としては、参考にできるかもしれません。引用してみます。

An interpretation of quantum mechanics is a set of statements which attempt to explain how quantum mechanics informs our understanding of nature. Although quantum mechanics has held up to rigorous and thorough experimental testing, many of these experiments are open to different interpretations. There exist a number of contending schools of thought, differing over whether quantum mechanics can be understood to be deterministic, which elements of quantum mechanics can be considered "real", and other matters.*10

また、同じ entry の section 'The nature of interpretation' では、次のようにあります。

The ingredients that vary between interpretations are the ontology and the epistomology, which are concerned with what, if anything, the interpreted theory is "really about".*11

これらを読むと、いかに私が量子力学の哲学における解釈の問題を今まで理解していなかったかが、よくわかります。森田先生の本を読んだことをきかっけに、もう少しぐらい勉強してもいいかなと感じました。


以上の私の記述が、大筋ではあれ正しい方向を向いているとするならば、一見華やかに見え、最先端の知的 frontier に見える量子力学の解釈問題も、結局のところは古くからある哲学的問題、つまり、実在するとはいかなることか、因果関係があるというのはどのようなことか、などの伝統的問題を充分解明せずには解決し得ない問題であろうと推測されます。そうだとするならば、最新の知見と思える量子力学の哲学をあわてて catch up しようとせずに、まずは自らの持ち場で実在論とは何か、因果律とは何かの解明を行い、そこで一定程度得られた見解に基付いて、量子力学の解釈問題を振り返り、分析を加えるというような route を取るならば、迂遠に見えて、その実最短路を取っていることになるのかもしれません。ですから焦って量子力学の哲学に必死になって追いつこうとするよりも、Aristotle をやっている人ならば Aristotelian な実在の観念とは何かを捉え、あるいは Kant をやっている人ならば Kantian な実在の観念とは何であるかを捉え、そこから実在とは何かの一般的見解を自分なりにつかみ出し、よってもって量子力学の解釈問題における実在の観念と突き合せてみて、実在の観念をより global な観点から再考してみることが、哲学から見て王道となるのかもしれません。
しかし一方で、次のようにも思います。すなわち、古来の哲学的問題の解明をまたずしては、量子力学の解釈問題に対し、哲学的な解決が充分には得られないと感じられもするが、実は量子力学の哲学こそが、従来からある実在の観念の理解に対し、変更を迫っているのであり、量子力学の知見を、古来からの実在論や、昔からある普段の実在観に付き合わせて、素朴な実在論や素朴な実在観の再考、改変を促しているのが、現今の量子力学の哲学なのだ、と捉えることもできるかもしれません。相対性理論によって、今までの時空の観念が大きく変容してしまい、時間や空間の観念を考える際には、恐らく相対性理論を無視して語ることはできないであろうのと同じように*12量子力学によって、今までの実在の観念、因果の観念が大きく変容してしまい、実在や因果の観念を考える時には、量子力学を無視して語ることはできなくなっているのかもしれません。この場合、古来の哲学的見解を使って、量子力学を反省するのではなく、その逆に、量子力学の哲学を使って、従来からある実在の観念を反省し直す、ということになります。これが正しいとするならば、私たちは新しい実在論の夜明け (morgenrot) に立ち会っているのかもしれません*13
伝統的哲学から量子力学を反省すべきなのか、あるいは量子力学から従来の哲学や普段の思いなしを反省すべきなのか、今の私にはどちらの方向性を取るべきなのか、よくわかりません。恐らく一番正しく望ましい態度は、一方から他方へ、また他方から一方へと、時に応じて立ち位置を切り替えて、複眼的に見る姿勢を保ち続けることだろうと思います。技術的細部に流れやすい量子力学の解釈問題に対し、古くからの哲学的知見をもって、距離を取った perspective を導入するとともに、従来の哲学的な考えや普段から抱いている観念が、実は不整合であるかもしれず、限定された適用領域しか持たないかもしれないと、最新の量子力学的観点から相対化して反省してみせること、これらが私たちに求められていることなのかもしれません。


最後に。私は量子力学には無知であり、量子力学の哲学についても無知であるため、以上の記述に誤解や無理解、勘違いや完全な間違いが含まれているかもしれません。その可能性が高いので、ここでお詫びを申し上げます。取り分け、本文最後の「以上の私の記述が、大筋ではあれ正しい方向を向いているとするならば」以降の結論と思しき部分は、完全に個人的見解であり、極私的な感想ですので、真に受けないようにして下さい。また、ここまでよく読み返していませんので、誤字や脱字も含まれているかもしれません。こちらについてもあらかじめお詫び致します。どうかお許し下さい。

*1:但し、Copenhagen interpretation が何であるかは、必ずしも明確で完全に確定しているという訳ではないようです。森田、71ページ。

*2:森田、21-27ページ。

*3:森田、34ページ。

*4:森田、42ページ。

*5:森田、66-68ページ。

*6:森田邦久、『理系人に役立つ科学哲学』、化学同人、2010年、195-196ページ。今回の日記では、この本はここでしか取り上げていません。以下で森田先生の本に言及していても、それはこの本のことではなく、『量子力学の哲学』のことです。

*7:フランコ・セレリ、『量子力学論争』、櫻山義夫訳、共立出版、1986年、77ページ。

*8:並木美喜雄、『量子力学入門 現代科学のミステリー 』、岩波新書岩波書店、1992年、99-101, 197ページ。

*9:なお、私はこれらの解釈それぞれを完全に理解しているという訳ではありません。また、これ以外にも見るべき解釈は存在するようです。今までに提案されたすべての解釈を調べている時間が今の私にはありませんので、取り合えず、森田先生が提示されている解釈だけを今回は取り上げます。

*10:See http://en.wikipedia.org/wiki/Interpretation_of_quantum_mechanics

*11:Ibid.

*12:ただし、時空の観念を哲学的に考える際に、相対性理論は必要ないとする立場もあるかもしれません。時空の観念は、最終的には各人の意識に根ざしているのであって、時空の観念の詳細を調べるには、宇宙の構造を調べても無駄で、意識や主観性の構造を調べてこそ、それはわかるのである、とするような立場もあるかもしれません。

*13:かつて Pauli さんは Heisenberg さんの、量子力学建設の試みを評して「量子論に新時代の夜明け (モルゲンロート) が来た」と述べたそうです。それにかけて「新しい実在論の夜明け (morgenrot)」という表現を使ってみました。村上陽一郎、『ハイゼンベルク 二十世紀の物理学革命』、講談社学術文庫講談社、1998年、原本1984年、208ページ。