What Does the Slogan 'No Entity without Identity' Mean?

    • No Entity without Identity.

早速だが、この Quine の slogan をどのように理解すればよいだろうか*1

その理解の内容を提示する前に、まずそこに含まれる語 'entity' とは、いかなるいみを持っているのか、そのことを確認しておく。OED ではないが、ある辞書の一つの語義にはこうある。

thing with distinct and real existence*2

また別の辞書の一つの語義にはこうある。

something that has separate and distinct existence*3

ここから、'entity' とは、(some)thing with distinct existence のことだろうと考えられる。これをそのまま訳すと、「明瞭な/判明な存在を有するもの」となるだろう。'distinct' という語を思い切って削除し、'entity' に簡潔な訳を当てるなら、通常なされているように「存在者」とすればよいように思われる。そうすると先ほどの slogan は、日本語の straight な読みでは、次のように翻訳されるだろう。

    • 同一性がなければ、存在者ではない。

この対偶を取れば、

    • 存在者であれば、同一性がある。

しかしこれは全く当たり前のことを言っているように思われる。山や雲などの vague objects の identity をどう考えるかという問題や、micro な level の粒子の identity をどう考えるかという問題はあるものの、vague でも micro でもない entities や objects に関しては、そういうものが在れば、それは同一性を持っているであろうことは、全く常識の範囲内だろうと思われる。上記の slogan は、そのような自明の理を述べたものなのかどうか、疑問がわいてくる。そこで Quine が実際に今問題にしている slogan を、どのように使っていたのかを確認してみる必要がある。私が知っている範囲では、問題の slogan が Quine 自身の著作で現れるのは、四ヶ所である。Slogan が現れる場所がどこであるかを簡便に知るには、現在 Quine の公式 homepage となっている

    • ''Willard Van Orman Quine 1908-2000: Philosopher and Mathematician,'' maintained by Douglas Boynton Quine

の中の、

    • 'Q3 - Quine Quotation Queries - already answered'

における質問2を参照するとよい (http://www.wvquine.org/#QQ3)。ここに 'LB asks (Feb 16, 2001): where did Quine write No entity without identity' とあり、この slogan が Quine の著作に三ヶ所現れることが指摘されている。それは、

the book Ontological relativity and other essays, p. 23
the book Theories and Things, p. 102
the book From Stimulus to Science, p. 75

の三つとなっている。しかし少なくとももう一ヶ所はある。The Pursuit of Truth である。他にも現れる箇所があるかもしれないが*4、以下では以上の四ヶ所を検証していく。それらを古いものから新しいものへと順番に見てみよう。



まず、

  • W. V. Quine  ''Speaking of Objects,'' in his Ontological Relativity and Other Essays, Columbia University Press, The John Dewey Essays in Philosophy, no. 1, 1969, p. 23,

である。この ''Speaking of Objects'' は1957年の学会発表に起源がある (See Ontological Relativity and Other Essays, p. v.)。問題の slogan が現れる箇所を引用してみる。なお、今後引かれる引用文中に元々付されていた原註は、すべて省いている。

ここで Quine は、属性 (attributes), クラス (classes), 命題 (propositions) という抽象的対象 (abstract objects) を措定 (posit) するならば、我々の概念枠 (conceptual scheme) に、世界へとかかわる我々の能力の増大が生じると言っているが (p. 21)、それら抽象的対象の措定を許していいものかどうかを検討している。その検討の結果、次の引用文が来る。

 Perhaps, after all, we should be more receptive to the first and least premediated of the alternatives. We might keep attributes and propositions after all, but just not try to cope with the problem of their individuation. We might deliberately acquiesce in the old unregenerate positing of attributes and propositions without hint of a standard of identity. The precept ''No entity without identity'' might simply be relaxed. Certainly the positing of first objects makes no sense except as keyed to identity; but those patterns of thing talk, once firmly inculcated, have in fact enabled us to talk of attributes and propositions in partial grammatical analogy, without an accompanying standard of identity for them.

引用の冒頭に配された文は、少しわかりにくいかもしれないので、大幅に補足を加え、意訳したものを試訳としてここに記しておくと、大体次のような感じにでもなるであろうか。「恐らく結局我々は、何を措定し何を措定しないかで異なる複数の概念枠のうち、まだ深く考えられる前の、一番原初的で一番素朴な選択肢を受け入れることのできる柔軟さを持つべきなのだろう。」

さて、上記引用文で言わんとしていることが何であるかをまとめてみるならば、大方次のようになるのではないかと思われる。
属性に対しては、一般に、その同一性を確立することができない。ある属性 F と、ある属性 G とが、同一か否かを確定せしめる基準がない。属性については、その同一性を問うことができず、つまるところ、属性は同一性を持っていない。ところで the precept ''No entity without identity'' に依るならば、同一性なきものは存在者ではない。そして属性は同一性を持っていない。よって属性は存在者ではない。故に属性を存在するものとして措定することは、正しいことではない。がしかし、日常の場面では、うるさいことを言わずに属性を暫定的に存在するものとして認めてしまうのがよかろう。科学の理論に関しては、そこで属性を措定することは、最終的には容認できないが (pp. 23-24.)、普段の談話の中では、我々の概念枠の能力が増加し、人々の間の communication を円滑かつ迅速なものとし、個々人の思考を smooth にし得るので、属性を措定してもよく*5、このこと故に the precept ''No entity without identity'' を日常の談話には厳格に適用せず、その統制力を緩めてやるのがよいのである。

ここで、the precept ''No entity without identity'' が実際に Quine によってどのように使われているかを反省してみる。そうすると、以下のように言えると思われる。属性が存在者ならば、属性は同一性を持っている。しかし、実際には属性は同一性を持っていない。ところで the precept ''No entity without identity'' に依り、いかなるものも、同一性を持っていないならば、存在者ではない。そして今述べたように、属性は同一性を持っていなかった。したがって属性は存在者ではない。ここから、属性は同一性を持っていない、故に属性は存在者ではない、とするならば、属性は同一性を持っていないならば、属性は存在者ではない、となる。よって今述べたことの後件部分について、その対偶を取れば、属性が存在者ならば、属性は同一性を持つ、となる。そして、上記の Quine の引用文とその前後の文脈から、属性のみならず、命題であれ何であれ、それが存在者ならば、それは同一性を持つ、というように、一般可能と思われる。故にこの場合、the precept ''No entity without identity'' は、

    • 存在者であれば、同一性がある

という、ごく常識的なことを述べた slogan として、使われているものと考えられる。



今度は次の文献に当たってみる。

  • W. V. Quine  ''On the Individuation of Attributes,'' in his Theories and Things, Harvard University Press, 1981, p. 102.

この論文は、元々1975年に刊行された (See Theories and Things, p. 100, footnote.)。

ここでは属性に同一性を確立し得る基準があるか否かが問われている。
Quine は属性に同一性を言うことを可能ならしめる基準はないと主張するが (p. 100.)、彼が名付けた架空の人物 Zedsky は、それがあると反論する (p. 101.)。
Zedsky によると、ある属性ども A, B が同一であるのは、属性からなる同一の class z に A と B が共に所属する時、かつその時に限る、とする。
しかし、Quine は反論する (p. 102.)。Class が同一であるのは、そこに所属する要素同士がすべて同一である時、かつその時に限る。したがって、class の同一性は、そこに所属する要素の同一性/同定可能性に依存する。ところで今、我々は属性の同一性を確立しようとしていた。Zadsky によると属性の同一性は、それが所属する class の同一性にかかっているとのことである。だが、その class 自身の同一性がそもそもそこに所属する属性の同一性が確立できていることを前提としているのである。手短に言うと、属性の同一性は、class の同一性に依っているとのことだが、この class の同一性は、属性の同一性を前提しているのである。これは完全に循環している。よって Zedsky の主張は受け入れられない。
これに対し、Zedsky が再反論する (p. 102.)。属性の同一性を確立するために、class の同一性が問題を引き起こすと言うのなら、属性の同一性を定義する際に、class の同一性を表すような表現を、その定義中で使わなければよい。そしてそれは簡単にできる。次のようにである。即ち、A, B を属性とし、z を class とすると、the formula ( z )( A ∈ z .≡. B ∈ z ) とすればよい。
以下の引用文は、Zedsky のこの formula を使った定義に対する Quine の、更なる反論を表している。

 What this shows is that we must look a little deeper. The real reason why the formula does not clarify the individuation of attributes is not that it mentions identity of classes of attributes, but that it mentions classes of attributes at all. [(*)] We have an acceptable notion of class, or physical object, or attribute, or any other sort of object, only insofar as we have an acceptable principle of individuation for that sort of object. There is no entity without identity. But the individuation of classes of attributes depends, we saw, on the individuation of attributes. This, then, is why we are not satisfied with an account of the individuation of attributes which, like Zedsky's, depends on the notion of classes of attributes at all.

属性に focus しながら、上記引用文中の文 (*) を意訳するなら、以下のような感じになるだろう。つまり、「我々が属性というような観念を受容し得るのは、属性というような対象に対する個体化の原理、即ち同一性の基準を受容し得る場合に限るのである。なぜなら、同一性を持たないものは、存在者としては、存在しないからである。」と。ここで注目すべきは、文 (*) の中に見える語句 'only insofar as' である。この語句 'only insofar as ... ' は、字義通りに言うと「 ... の範囲内でだけ」といういみだろう。あるいはもう少しゆるく訳すと「 ... する限りでのみ」と解せるだろう。つまり英語では 'only if' に相当すると考えられる。そうすると、(*) は、同一性の基準がある場合に限り (only if)、属性という観念を受け入れることができる、ということを述べているものと思われる。ところで、一般に、' p ' や ' q ' が文を表すとするならば、

    • p の場合に限り、q である

とは、

    • p でない場合には、q ではない

ということである。したがってこの対偶を取ると、

    • q ならば p である

となる。つまり、

    • p の場合に限り、q である

とは、

    • q ならば p である

のことである *6 *7
そうすると、文(*) 「同一性の基準がある場合に限り (only if)、属性という観念を受け入れることができる」は、「同一性の基準がなければ、属性という観念を受け入れることはできない」と直すことができ、さらにここから「属性という観念を受け入れることができるならば、同一性の基準がある」という文に書き換えることができる。そして Quine の slogan 'There is no entity without identity' の内容を勘案して、今の「属性という観念を受け入れることができるならば、同一性の基準がある」という文を再び言い直すならば、簡単には「属性という存在者があるならば、同一性を持つ」となるだろう。
以上からすると、論文 ''On the Individuation of Attributes'' に出てくる slogan ''No entity without identity'' も、最初の論文 ''Speaking of Objects'' の場合と同様、

    • 存在者であれば、同一性がある

という、ごく常識的なことを述べている文言になっているものと思われる。



続いて、

  • W. V. Quine  The Pursuit of Truth, Harvard University Press, 1990, p. 52. 邦訳、W. V. クワイン、『真理を追って』、伊藤春樹、清塚邦彦訳、産業図書、1999年、76ページ、 (邦訳は1992年の revised ed. からの翻訳。)

を見てみよう。

If we could contrive an acceptable relation of sameness of meaning, it would be a short step to an acceptable definition of meanings. For, as more than one philosopher has noted, we could define the meaning of an expression as the class of all expressions like it in meaning. Conversely, if we had the meanings to begin with, they and identity would provide sameness of meaning, there being no entity without identity. In short, meanings and sameness of meaning present one and the same problem.

この引用文で言わんとしていることは、大よそ次のようなことだろう。
最初に言語表現と同値関係の一種である同義性があれば、ある言語表現の意味とは、その表現と同義な表現すべてが属する集合/同値類のこととすればよい。逆に、意味が存在者としてまず最初にあれば、それと同一性により、同一である意味を集め、それらの意味を表す言語表現が各々の意味にあるならば、それらの意味の名前に相当する言語表現同士の間で同義性が言えることになる。なぜ意味さえあればよいのかと言えば、そもそも何かが同一性を持っていないならば、それは存在者ではなく、この対偶を取って、存在者であれば、同一性を持つのであり、よって意味という存在者がまず最初にあれば、それは同一性を持っていて、それ故結局同義性が言えるようになるからである。
上記引用文中の、'No entity without identity' が出てくる 'Conversely' 以下をもう一度簡単に言えば、意味という存在者が最初にあれば、意味と同一性によって、意味の同一性、即ち同義性が与えられるだろう。なぜなら、同一性のないものは存在せず、存在するものがあれば、それは同一性を持っているので、意味なるものが存在するなら、それは同一性を持っているはずだから、意味の同一性、即ち同義性が言えることになるだろうからである。
よって、ここでも、論文 ''Speaking of Objects'' と論文 ''On the Individuation of Attributes'' と同様に、slogan 'No entity without identity' は、

    • 存在者であれば、同一性がある

という、ごく常識的なことを述べているものと思われる。



最後に

  • W. V. Quine  From Stimulus to Science, Harvard University Press, 1995, pp. 75-76,

を見てみよう。この本は1990年と1993年に行われた講義を基にしている (See From Stimulus to Science, p. v.)。

以下の引用文で言われていることは、前回の The Pursuit of Truth からの引用文で言われていることと、原則的に同じである。

 Defining the notion of meaning for sentences may properly be said to consist simply in specifying the circumstances in which two sentences have the same meaning. We can settle for no less, because there is no entity without identity; no meaning without sameness of meaning. And we can require no more, because once we have defined sameness of meaning for sentences we can define the meaning of a sentence by ''quasi-analysis'' à la Carnap (Chapter I) as the class of all sentences like it in meaning.

補足を入れながら、意訳してみると、次のようになるであろうか。
文の意味という観念を定義することは、二つの文が同じ意味を持つという状況を、ただ特定することのうちにある、と言われるのは正しいだろう。これより少ない条件は、我々には受け入れることができない、即ちこれが意味を定義するための最低限、必要な条件である。なぜなら、同一性を持たない存在者はないからである。つまり意味の同義性が言えなければ、意味は存在せず、意味が存在するならば、同義性が言えるはずだからである。さらに加えるならば、我々にはこれで十分である。即ち同義性さえあれば意味を定義するのに十分な条件である。なぜなら、一旦文の同義性を定義してしまえば、Carnap 風の「疑似分析」によって、文の意味を、意味の点で同じであるすべての文の class として、定義できるからである。
見ての通り、ここにおける slogan 'No entity without identity' も、今までと同じく、

    • 存在者であれば、同一性がある

という、ごく常識的なことを言っているものと考えられる。


以上で slogan 'No entity without identity' が、Quine の著作中で現れる箇所を確認し終えた。結果としては、確認をした四ヶ所ともで、件の slogan は、常識的な自明の理を説いていたものとわかった。意外な結果に終わらず、驚きがもたらされず、以上の話を読んでこられた方には、若干、肩透かしを食わせてしまったようで、申し訳なく思う。でも、まぁ、仕方がない。以上の私の話が正しいとするならば、事実は事実として認めなければならない。驚くべき結果であろうがなかろうが…。



終りに当たって、気が付いたことや関連する事柄を、三つ簡単に記しておく。

(I) The Slogan 'No Entity without Identity' に対する正当化の欠如

今まで見てきた四つの引用文では、the slogan 'No entity without identity' が正しいとする根拠は、何も示されていないように見える。この slogan が成り立つことを示すような論証は、何もなされていないように見える。今までの引用文中では、何か別の事実なり真理なりによって、この slogan の正しさが論証されているのではなく、むしろこの slogan によって別の主張を論拠付けようとしているように思われる。例えば、属性だとか意味なるものは、まっとうなものとしては受け入れられないのだ、ということを、この slogan に基付いて、Quine は主張しているように考えられる。そうだとすると、この slogan の正当化が行われていないのは、なぜなのだろうか。今まで四つの引用文を確認してきて、そこからなぜ問題の slogan の正当化が図られていないのかという疑問に、一つの可能な答えを与えることができるかもしれない。その答えは、この slogan が、見てきた通り、広く人々が受け入れている常識を表しているからだというものである。それがよくある常識的な内容を持つために、改めてその slogan を根拠付ける必要性を Quine は感じていなかったのかもしれない。このように、問題となっている slogan に対しては、根拠が示されず、正当化が行われていないが、内容的には常識を表しているため、わざわざ正当性を証明するまでもなく、むしろくどくどとした証明を省き、印象的な箴言風の短い言い回しで人々の直観に訴えることにより、かえって誰にとっても飲み込みやすく、説得力を持つ結果となっている。このような訳で、例の slogan は、その根拠が示されていないのだろう。なお、この slogan には、その正当性を示す論証が欠けているという指摘は、既になされている。次を参照。但し、なぜ論証が欠けているのか、その理由は提示されていないようだが…。

  • グレアム・プリースト  『存在しないものに向かって 志向性の論理と形而上学』、久木田水生、藤川直也訳、勁草書房、2011年、143-144ページ。(原著、2005年刊。)

そうすると、なされるべきは、哲学の常として、根拠なきものを不問に付さず、立ち止まって反省し、それが常識として世間で認知されていようがいまいが、そんなことにはお構いなく、端的に正しいか否かを推考し直すことだろう。そして今挙げたばかりの書物では、問題の slogan が dogma であるとして、放擲されている*8。我々も考え直す必要があるのかもしれない。


(II) 存在論的コミットメントの基準との関係

Quine による、存在に関する箴言風の言い回しの中で、the slogan 'No Entity without Identity' 以外で有名なものに、the formula 'To be is to be the value of a variable' がある。両者は、いかなる関係にあるのだろうか。
'To be is to be the value of a variable' について、今ここで詳しい話をしている暇 (いとま) はないので、ごくごく手短に述べるが、この formula が言わんとしていることは、大よそのところ、次のことだと思われる。即ち、理論 (theory) や談話 (discourse) において、存在するということは、束縛変項の値となっているということである。Point は、単称名を含む有意味な文脈がある時、その単称名の指示対象 (reference) であるとされていることが、何かが存在していることを表しているのではなく、つまり、しばしば思われているように、単称名が存在に関与しているのではなく、量化の装置こそが存在に関与しているのだ、ということである。即ち、有意味な文脈における単称名の指示対象とされていることが、存在しているということなのではなく、量化装置の束縛変項の値となっているということが、その理論なり談話なりにおける存在を表しているということである。単称名の指示対象となっているならば、存在しているということなのではなく、少なくともその理論なり談話なりにおいて、束縛変項の値となっているならば、それは存在しているのだ、ということである。ここから 'To be is to be the value of a variable' は、次のように言い直すことができると思われる。つまり、「理論なり談話なりにおいて、何かが束縛変項の値となっているならば、それはそこにおいて存在しているとされているのである。」 これをもっと手短に言うと、「束縛変項の値となっているならば、それは存在するということである。」 あるいは、「何かが束縛変項の値となっているならば、それは存在者である。」*9
これを簡潔に定式化すると次のようになるだろう。以下の '→' は標準的な条件法記号である。

    • 束縛変項の値である → 存在する/存在者である。

ところで、the slogan 'No Entity without Identity' は、箴言風に言えば「同一性なき存在者はない」であるが、上記本論から「存在者であれば、同一性がある」と言い換えることができた。これも簡潔に定式化してみると、

    • 存在する/存在者である → 同一性がある。

こうして、これら二つの定式化を、一つにまとめることができる。前件や後件に番号を付けながらまとめると、次のようになる。、

    • (1) 束縛変項の値である → (2) 存在する/存在者である → (3) 同一性がある。

この (1) → (2) の部分が the formula 'To be is to be the value of a variable' に当たる。そして (2) → (3) の部分が the slogan 'No Entity without Identity' に当たる。

ここからわかることは、以下のことである。(3) 同一性は、(2) 存在することの必要条件であり、(1) 束縛変項の値であることは、(2) 存在することの十分条件である。つまり、存在するためには同一性が必要であり、かつ、束縛変項の値であれば存在するとされるのに十分である。

The slogan 'No Entity without Identity' と the formula 'To be is to be the value of a variable' は、相互に無関係な maxims なのではなく、以上のような条件関係で結ばれているものと考えられる。


(III) 'No Entity without Identity' と Frege*10

ここに至るまで、Quine の the slogan 'No Entity without Identity' について書いてきた訳だが、元々この slogan には興味を持っていたものの、今回この slogan について調べてみようと思い立ったのは、以前に Charles Parsons の Frege に関する論文のある部分に疑問を持ったことに起因している。その論文とは次のものである。

  • Charles Parsons  ''Frege's Theory of Number,'' in his Mathematics in Philosophy: Selected Essays, Cornell University Press, Cornell Classics in Philosophy, 2005 (First published in 1983), originally published in Max Black ed., Philosophy in America, Cornell University Press, 1965, reprinted in Hans Sluga ed., Logic and Foundations of Mathematics in Frege's Philosophy, Garland, The Philosophy of Frege, vol. 2, 1993, and William Demopoulos ed., Frege's Philosophy of Mathematics, Harvard University Press, 1995, 邦訳、チャールズ・パーソンズ、「フレーゲの数の理論」、小川芳範訳、岡本賢吾、金子洋之編、『フレーゲ哲学の最新像』、双書 現代哲学 5, 勁草書房、2007年*11

この論文の中で、Parsons は、Quine の the slogan 'No Entity without Identity' と同じ内容の事柄を Frege が Grundlagen で主張していると述べている。Parsons の手になるその一節を読んだ時、不思議にも思い、いぶかしくも思った。「本当にそうなのだろうか?」と。その時はそう思ったきりで、その後この点を確認してみたことはなかったが、今回、暇つぶしと言っては何だが、調子が上がらず、大したこともできなかったので、まずは Quine が例の slogan で正確なところ、何と言っているのかを調べてみて、それが確認できた場合、Parsons の言い分が正しいかどうか、判断してみようと考えた。さて、上述の通り、一応ながら、Quine の slogan の実質を確認できたので、それに基付き、今度は Parsons の言い分を取り合えず簡単に見てみることにする。

以下で Parsons による問題の一節を引用するが、その前に、そこで Parsons が何をやろうとしているのかを述べておく。問題の一節は Parsons 論文の section II に出てくる*12。この問題の section では何が行われているのだろうか。それを示唆してくれるのが、section III の先頭に置かれた次の文である。

I have been very careful to speak of criteria for expressions to purport to refer to objects*13.

Frege にとって、(言語) 表現どもが諸対象を指示する見込みである諸基準は何か、あるいは Frege にとって、(言語) 表現どもが諸対象を指示するはずである場合、それを教えてくれる目安となるものは何か、このことについて、Parsons は section II で語っていたということがわかる。それでは Frege にとって、その基準・目安とは何だったのか。Parsons が挙げる目安は次のものである*14

    1. その言語表現が、論理的主語になっていること。
    2. その言語表現が、定冠詞を伴っていること。
    3. いつでもその言語表現に対し、同一性言明が言えること。
    4. 何かが同一性言明になっているかどうかは、その同一性言明と推測される言明 I に含まれている或る言語表現 'a', 'b' について、表現 'a' が現れている任意の文脈 S のうちで、その 'a' を表現 'b' に置き代えても S の真理が保存されているならば、言明 I は確かに同一性言明と判断してよく、このような判断を下すことができたならば、I における言語表現 'a', 'b' は対象を指示しているはずのものとなっている。*15
    5. その言語表現が量化可能な位置にあって、存在汎化が可能なこと。

但し、Parsons はこれらの目安すべてが、Frege にとって、対象を指示するはずである場合の必要条件なのか、十分条件なのか、必要十分条件なのか、明らかにはしていない。また、最後の目安を、Frege 自身は approve しないだろうという主旨のことを Parsons は述べている*16

これらの但し書きはよいとして、Parsons によるならば、Frege は Quine の slogan と同じ内容のことを語っていると言うが、そのことに関係してくる目安は、上の五つの目安のうち、三番目と四番目の目安である。それら三番目と四番目の目安を述べている部分を引用してみよう。以下の引用文で、三番目の目安を述べているのは、冒頭部分の、同一性があらゆる種類の対象に対し意義を持たねばならないと記している部分であり、四番目の目安を述べているのは、その少しあとで出てくる代入則の部分である。なお、引用文の中ほどの 'Now for every object' から始まる段落は、Frege の Grundlagen, sections 106-107 からの引用 (正確には、Austin 訳からの引用) である。Parsons によって付されている原註は省いて引用する。

 Another criterion of great importance in the Foundations is that identity must have sense for every kind of object.
 Frege took this in a very strong sense: if we think of ' _ ' and ' ... ' as object-expressions, then ' _ = ... ' must have sense even if the objects to which they purport to refer are of quite different categories, for example, if ' _ ' is 'the Moon' and ' ... ' is 'the square root of 2'. Moreover, the principle of substitutivity of identity must be satisfied.


Now for every object there is one type of proposition which must have a sense, namely the recognition-statement, which in the case of numbers is called an identity .... When are we entitled to regard a content as that of a recognition-judgement? For this a certain condition has to be satisfied, namely that it must be possible in every judgement to substitute without loss of truth the right-hand side of our putative identity for its left-hand side.


This is a view which Quine expresses succinctly by the maxim, ''No entity without identity.'' One of the main efforts of the positive part of the Foundations is to explain the sense of identities involving numbers.
*17

なぜ Frege のここでの主張が、Quine の例の slogan になっていると Parsons は考えるのだろうか。それは大よそ、次のような理屈から来ているものと思われる。

Frege は Grundlagen の section 62 で、数詞を自存的対象と解さねばならないと言い、それ故に、数詞に対しては再認命題・同一性言明が言えねばならぬと述べている。その理由として Frege が考えていると思われるのは、常識的に考えて、a が対象なら、対象 b と a が同一であるか否か、どちらかであるはずだから、というもののようである*18。そして数詞のいみを問う場合には、文脈原理により、同一性言明中の数詞のいみを問うのが最もよいと Frege は考えている。その際、その数詞や「数」という表現を使わずに、その同一性言明と同じ内容のことを述べる別の文を提示できたなら、元の同一性言明の数詞のいみは明らかになっていると Frege は考える。
さて、そうだとすると、Frege は section 62 において、対象があれば同一性を持っていて、任意の対象と同一であるか否かが問い得ると考えていることがわかる。加えてFrege は、いかなるものも、自分自身と同一であると考えていた節 (ふし) がある。Grundlagen の section 74 で 0 を自分自身に等しくないという概念に帰属する基数のことであると定義しているが、その理由として、自分自身に等しくないという概念には何ものも属さないからだ、と述べている。ここからわかるのは、Frege がどんなものも自分自身に等しいと考えていたであろうということである。
以上が正しいとするならば、Frege にとり、対象がある場合には、それは同一性を持っていると考えていたと言ってよいだろう。ここで対象 (object) を存在者 (entity) と解するならば、これは Parsons の言う通り、Quine の the slogan 'No Entity without Identity' の内実と確かに軌を一にしている。

しかし私が疑問に思うのは、何かが対象/存在者であれば、それは同一性を持っているという、ごく常識的なことだけを Frege は考えていたのか、ということである。むしろ Frege は、そのような常識的見解を持ち合わせていた上で、さらになおその逆、つまり同一性を持っているものが対象なのだ、何かについて同一性が言えれば、それは直ちに対象であると言えるのだ、と考えていたのではないか、ということである。対象だから同一性を持つと言えるのみならず、同一性を持っているから対象なのだ、と Frege は考えていたところがあると思われるのである。その根拠は、数詞のいみを対象と解する最終的根拠として、文脈原理により、数詞らしき表現を含む同一性言明と推測される命題に対し、再認命題を供給し得た後に初めてその数詞らしき表現は固有名・単称名と認められるのであり、それ故にその数詞とされる表現のいみは対象と解し得るのだと Frege が述べていることによる。数という自存的対象をいみするからその数詞は固有名・単称名になっているというのではなく、その逆に、ある文脈 aRb とその数詞らしき表現 a, b に関し、∀f (fa ≡ fb) が成り立つことによって数詞らしき表現同士を入れ替えても真理が保存されるとするならば、それによりそれら表現同士は、同一性言明と当初推測されていた文脈 aRb において、確かに等号 R で結ばれていると判断してよく (つまり R は実際のところ = のことであり)、しからばそれらの表現は固有名・単称名として振る舞っているのであり、それ故にそれら固有名としての数詞は対象をいみしているはずだと解してよいのである、と Frege が述べているようだからである*19。このことを根拠付ける Frege の文を引用しておく。Grundlagen の section 62 から引き、邦訳も掲げておく。

In unserm Falle müssen wir den Sinn des Satzes

   „die Zahl, welche dem Begriffe F zukommt, ist dieselbe, welche dem Begriffe G zukommt‟

erklären; d. h. wir müssen den Inhalt dieses Satzes in anderer Weise wiedergeben, ohne den Ausdruck

   „die Anzahl, welche dem Begriffe F zukommt‟

zu gebrauchen. Damit geben wir ein allgemeines Kennzeichen für die Gleichheit von Zahlen an. Nachdem wir so ein Mittel erlangt haben, eine destimmte Zahl zu fassen und als dieselbe wiederzuerkennen, können wir ihr ein Zahlwort zum Eigennamen geben.*20


目下の場合では、我々は命題

   「概念 F に帰属する数は概念 G に帰属する数と同一である」

の意義を説明しなければならない。つまり、我々はこの命題の内容を、

   「概念 F に帰属する基数」

という表現を使わずに、別の仕方で再現しなければならない。それによって我々は、数の相等性に対する一般的な規準を提供することになる。このように、一つの特定の数を把握して、同一のものと再認する手段を獲得したときに初めて、我々はその数に数詞を固有名として与えうるのである。*21

この引用文中で、特に注目したいのは、最後の文の出だしの 'Nachdem' である。通常、'Nachdem p, q' とあれば、「p した後で、q する」と訳されるだろう。まず p が行われ、その後になってから、q が初めて行われるという訳である。p がまず最初に行われなければならず、その後に初めて q がくる訳である。上記の引用文の場合では、再認命題が与えられた後になって初めて数詞は固有名だとされるのである。そして数詞が固有名だとされて初めてその数詞のいみは対象とされるのである。まず最初に対象があって、その後にそれをいみする言語表現が数詞として固有名になり、それからそれら固有名に挟まれている言語表現が等号となって、最後にそれら固有名と等号から成る表現が同一性言明となるのでは、ない。逆である。ここでは再認命題から同一性言明、同一性言明から固有名、固有名から対象へと進んで行く流れになっているのである。
ところで Quine の the slogan 'No Entity without Identity' の内実は、存在者であれば、同一性を持つ、であった。今挙げたばかりの Frege の引用文中最後の文においては、同一性が確立された後になって初めて、いわば対象となる、ということである。存在者であれば、同一性を持っているとするのは、大方のところ、常識であろう。しかし、Frege はそればかりでなく、その逆に、同一性が言えれば、それは対象である、と考えていると思われるのである。これは恐らくあまり常識的なことではなく、通常はなかなか思い付かれないことのように思われる。なお、その同一性言明が真であった場合にのみ、その同一性言明中の固有名がいみする対象が存在するとされるのであって、同一性言明が真でない場合には、件の対象の存在は保証されていないと Frege は考えていた可能性があるだろう。
従って Parsons は、Quine の the slogan 'No Entity without Identity' と同じ内容の事柄を Frege が Grundlagen で主張していると述べているが、それは半分は正しい。あるいは、半分しか正しくなく、同一性が言えれば対象と言えるのだ、という文脈原理に基付いた Frege の斬新な見解を捉え損っているという点で、Parsons の記述は Frege の重要な論点を描き切れていないと言えるであろう。


以上で終わります。理解の不足、端的な間違い、浅はかな点や見当違いなところ、それに誤字・脱字などがあると思われますので、決して今回の記述を真に受けないで下さい。色々と引用文を掲載したり、参照文献情報を載せておいたので、それらを参考にし、読者の皆さんでお考えになられた上で、正しいことが述べられているか、判断して下さい。特に、終り部分の (III) では、できるだけ客観的であろうとしましたが、一部分にかなり個人的な解釈が入っているものと思われます。私も充分推考できているとは思っておりません。間違っておりましたら謝ります。大変すみません。今後も勉強を続け、理解を深め、間違いを正して行きたいと思います。

*1:以下では、ここでの文体として「である・だ」調の常体を使用し、「です・ます」調の敬体は使用しない。Blog で常体を使用すると、時に独善的に響くこともあり、私は個人的に好みではないが、今回は文体にこだわらず、ただ便宜的に常体を採用する。全く他意はないので、ご了承をお願いしたい。加えて人名に対する敬称の類いもすべて省いて記述するが、これも全く他意はない。敬称の類いが省かれていても、尊敬の念まで省いている訳ではない。こちらもご了承をお願いしたい。

*2:Entry, 'entity,' in A. S. Hornby and A. P. Cowie ed., Oxford Advanced Learner's Dictionary of Current English, 4th ed., Oxford University Press, 1990.

*3:Entry, 'entity,' in Robert Allen ed., The New Penguin Compact English Dictionary, Penguin Books, 2001.

*4:例えば、Quine の記した書簡中や大学での講義において、問題の slogan が現れているということはあるかもしれないが、私は残念ながらそこまでは確認できていない。

*5:属性などの抽象的対象を措定することの有用性については、次も参照。W. V. O. クワイン、『ことばと対象』、大出晃、宮館恵訳、双書プロブレマータ 3, 勁草書房1984年、第25節「抽象名辞」の後半、197-202ページ。

*6:今、' p ' や ' q ' は文を表すとした。例えば「雪は白い」や「雪はまぶしい色をしている」である。しかし、これらの文をここでの ' p ' や ' q ' にそのまま代入すると、奇妙な日本語になる。例えば「p の場合に限り、q である」の ' p ' に 「雪は白い」を、' q ' に「雪はまぶしい色をしている」を代入すると、次のようになる。「雪は白いの場合に限り、雪はまぶしい色をしているである。」 これは明らかに、日本語としては非文である。したがって厳密には、「p の場合に限り、q である」とか、「q ならば p である」の ' p ' や ' q ' に、無修正なまま文が入る訳ではないし、無修正なまま文が入ると主張してはならない。しかし今は ' p ' や ' q ' に、適切な修正が施されて文が入るものと考えておくことにする。この種のことに関しては、アルフレッド・タルスキ、「真理の意味論的観点と意味論の基礎」、飯田隆訳、坂本百大編、『現代哲学基本論文集 II』、双書プロブレーマタ 8, 勁草書房、1987年の116-118ページに付された、タルスキ論文の訳者による訳註の * と ** を参照。

*7:通常は、p の場合に限り、q であるとは、p でない場合には、q ではないということなので、q ならば p のことであるとされている。つまり、q only if p とは、if q, then p のことであると、一般にはされている。しかし、日常の場面で q only if p をすべて if q, then p と読み替え得るかは疑問である。もしも q only if p と if q, then p が同じことならば、例えば後者の文が出てくる時、それをすべて前者の文に言い直してみるとよい。両方の文が同じことを言っているのなら、いつでも後者の文を前者の文に置き代えることができて、そこでは何ら問題は生じないはずである。例えば、英語では 'if q, then p ' という形をした「女性ならば入場可能である」という文を、英語では 'q only if p' という形をした「入場可能な場合に限り、(その人は) 女性である」という文に直すと、我々はこれら二つの文に何か大きな違いがあると感じ、このような書き換えには、どこか容易には肯んずることができないものがあると思われるだろう。このように q only if p とは、if q, then p のことであると、無頓着に同一視することはできないが、最も論理的に単純な場面では、つまり古典命題論理の範囲内で表現することに問題が生じない場面では、q only if p とは、if q, then p のことであるとしてよいと考えられる。そして今取り上げている 'only insofar as' という語句を含んだ Quine の文章も、古典命題論理の範囲内で取り扱うことができると考えられるので、q only insofar as p を q only if p とし、この後者を if q, then p のことであるとしてよいと思われる。よってその線に沿って、以下、論述を進める。なお、q only if p とは、if q, then p のことであると、単純に同一視できないという点に関しては、次を参照。David H. Sanford, If P, then Q: Conditionals and the Foundations of Reasoning, 2nd ed., Routledge, 2003, pp. 201-202. 及び、Andrew Brennan, ''Necessary and Sufficient Conditions,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2003/2011, Section 3. Problems for the Standard Theory. http://plato.stanford.edu/entries/necessary-sufficient/#FurProForStaThe

*8:プリースト、144-145ページ。

*9:この逆が成り立つのかどうか、今の私には、正直に言って、確信が持てないでいる。差し当たり、逆が成り立つか否かは、置いておこう。

*10:この (III) の論述は、全くの試論である。充分練られた論ではない。読まれる場合は、注意が必要である。暫定的なものとして割引きつつ、半ば間違っているものと思いながら、話を聞いていただければと思う。

*11:以下、書名を次のように略記する。Mathematics in Philosophy は 'MP', Philosophy in America は 'PA', Logic and Foundations of Mathematics in Frege's Philosophy は 'LFM', Frege's Philosophy of Mathematics は 'FPM', 『フレーゲ哲学の最新像』は「邦訳」。

*12:M. Black 版と Sluga 版では、section による論文内容の区分けがまったくなされていない。1983/2005年の版と Demopoulos 版、及び邦訳ではそれがなされている。

*13:MP, p. 153, PA, p. 183, LFM, p. 89, FPM, p. 185, 邦訳、42ページ。

*14:MP, p. 152, PA, pp. 181-182, LFM, pp. 87-88, FPM, pp. 184-185, 邦訳、40ページ。

*15:この四番目の目安は、私の解釈がかなり入っている。Parsons は、ここまで詳しくは語っていない。このように四番目の目安を理解することには異論があるかもしれない。個人的に再考の余地があると考えているので、後日、この四番目の目安に対し、このように表現していることを、撤回するかもしれない。特に注意を喚起しておく。

*16:MP, pp. 152-153, PA, p. 182, LFM, p. 88, FPM, p. 185, 邦訳、40-41ページ。その理由として、Frege はいわゆる二階の量化を許すので、今日的観点から見た場合、それは関数への量化であり、対象への量化ではないからであろう。

*17:MP, p. 152, PA, pp. 181-182, LFM, pp. 87-88, FPM, pp. 184-185, 邦訳、40ページ。

*18:Section 62 で Frege は、a を記号であると述べた直後に、a を記号によっていみされる対象であると実質的に解して話をしており、use/mention distinction を破ってしまっている。ここではこれを正しく修正して記しておく。なお、「いみ」という言葉は、前理論的に、ごく素朴に、非専門的に使っている。''Über Sinn und Bedeutung'' における Sinn だとか Bedeutung などのこととして使っている訳ではない。以下、同様である。

*19:この文章も、再考の余地がある。読者はそのまま鵜呑みにせず、正しいことを私が述べているか、考えてほしい。後日、間違っているとして、撤回させていただくかもしれない。これに対しても、読者に特に注意を喚起しておく。

*20:Gottlob Frege, Grundlagen der Arithmetik, Centenarausgabe mit ergänzenden Texten kritisch herausgegeben von Christian Thiel, Felix Meiner Verlag, 1986, §62.

*21:G. フレーゲ、『算術の基礎』、野本和幸、土屋俊編、フレーゲ著作集 第2巻、勁草書房、2001年、§62.