Anecdotes about Sir Michael Dummett, 5

2012年5月19日、23日、24日、6月2日の日記に続き、今日も Dummett さんについての逸話を、以下の文献から抜き出してご紹介致します。今日で Dummett さんの逸話の紹介を終わります。

  • ''Remembering Michael Dummett,'' in: Opinionator: Exclusive Online Commentary from The Times, The Opinion Pages, The New York Times, January 4, 2012, 3:30 pm, http://opinionator.blogs.nytimes.com/2012/01/04/remembering-michael-dummett/.

今日は逸話を一つだけ紹介致します。Dummett さんの square な側面を伝える逸話です。英語原文の後に、試訳を掲げます。試訳は私によるものなので、信用置けませんから、真に受けないでください。誤訳が含まれているはずです。試訳を参照される場合は、英語原文と突き合せて、間違っていないかどうか、確認しつつ参照して下さい。この試訳は、直訳・逐語訳ではなく、文意を把握しやすいよう、幾分開いて訳しているところがあります。ご理解いただければと存じます。なお、含まれている誤訳に対し、あらかじめこの場でお詫び致します。誠に申し訳ございません。

An Oxford Greeting

This anecdote will illustrate the more formal, Oxonian side of his complex character.


We were on first-name basis only after my viva, as was the custom; once I was introduced at high table to the man on my left and naturally extended my hand but he moved back, horrified, and Dummett, on my right, complained: “I see you have not entirely shaken off your old habits.”


In Oxford, one never shook hands.


Mathieu Marion, University of Québec

この逸話を、彼 [Sir Michael Dummett] の複雑な性格のうち、より形式ばった Oxonian の側面を描くことで締め括ることにしよう。


私たちがようやく first-name で呼び合うようになったのは、私の学位審査のための口頭試問が終わってからのことである。それは慣例通りのことではあったのだが。またある時、high table で、左に座っている男性に紹介され、自然と手を出して握手しようとしたところ、男性が怖がって引いてしまったことがあった。右側に座っていた Dummett が不満そうに言った。「昔からの習慣を十分手放せてはいないようだね。」


Oxford では、誰も握手をしないのだ。*1 *2


Mathieu Marion, Québec 大学

先日ある学会に行ったのですが、そこで Oxonian である某先生に挨拶をした。その時、「本当に Oxonian は、握手をしないのでしょうか?」と、聞いておけばよかったのだが、忙しくて質問することを忘れていた。後になって思い出した時には遅かった。もう先生はお帰りになられていた。


ところで Dummett さんが大きな影響を受けた Wittgenstein は、大学に見られる伝統的形式的儀礼を、Dummett さんとは違って、ひどく嫌っていたようです。次の文をお読みください。

音楽、美術それに文学における無意味な装飾やむだは、クラウスやロースのような人の心を、道徳的な嫌悪感でいっぱいにしたであろう。社会の因習や個人的な関係が儀礼化されると、ウィトゲンシュタインはそれらに対して、本当にいや気がさしたのである。初めてケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジの特別研究員(フェロー)に選ばれた時、彼は、どうしても上席で食事をする気になれなかった。それは、特別研究員の食事の量が多いとか、上等なものが出るとかいうこととは、特に関係がなかった。また、学部学生に混じりたいという庶民的な希望から発したものでもなかった。上席そのものが食堂のメイン・フロアーよりも六インチほど高い壇上にあるという象徴的な事態が、彼にはむしろいやだったのである。そこで、カレッジは、しばらくの間、彼だけを独りにして、低い階の小さなトランプ用テーブルで食事を出すことに同意した。*5 (後に、彼は食堂ではほとんど食事をしなかった。) 彼がひどく不快に感じたのは、社会的因習の不自然さだけではなかった。どちらかといえば、知的な生活の不自然さのほうがもっとひどかった。*3

*5 Richard Braithwaite からの私信による (S. E. T. [= Stephen Toulmin])。

この引用文中の「上席」とは、たぶん 'high table' の訳だろうと思われます。Wittgenstein も Marion さんも、high table という制度や high table に見られる儀礼に対し、違和感を覚えていたようですが、Dummett さんは、そうでもなかったということでしょうか? このことがこれらの人々の哲学する姿勢に、何か違いをもたらしていたということは、ありうるでしょうか? どうだかよくはわかりませんけれど…。


最後に。私の試訳は間違っていたり、訳し過ぎていたり、誤解を招くような表現になっているかもしれません。大変すみません。お許しください。

*1:この最後の文は、正しくは「Oxford では、誰も一度も握手をしなかった。」とすべきところだろうと思います。つまり本来は過去形で訳すべきところだろうということです。しかし、わざとここでのように訳出しました。よくないことではあろうと思いますが、個人的好みからわざとこのように訳したのです。このように訳した方が、何だか説得力が増すように思えたのです。何だが勢いよく文章全体を締め括ることができるように感じられたのです。このように訳した時、私の念頭にあったのは、清水俊二先生の訳された Raymond Chandler の『長いお別れ (The Long Goodbye)』に見られる文体です。この小説はいくつもの section, または chapter から成りますが、初めの方の section 末尾では、しばしば「しかじかなのだ。」という感じの文体の翻訳で締め括られています。それが潔く、気持ちがよく感じられるのですが、半ば無意識的に清水先生のこの文体を模倣するかのように、今回の逸話の最後に私はその文体を流用していました。そしてそれが何だかうまくはまっているように思われたので、厳密には過去形で訳出すべきところを、今回のここでのように訳したわけです。少し訳し過ぎの感はありますが、学術文献の翻訳ではないので、また何となく文章全体の流れにも沿っているので、このように訳しましたことをお許しください。

*2:この最後の文の一つ前の文は、'I see you have not entirely shaken off your old habits.' となっており、今の最後の文は 'In Oxford, one never shook hands.' となっています。一つ前の文の動詞 'shaken off' と最後の文の動詞 'shook' が対応しており、一つ前の文の文末 'habits' と最後の文の文末 'hands' が韻を踏みながら対応しています。この文の著者の Marion さんは、もしかすると意図的にこのように何か技巧を凝らしているのかもしれません。これを日本語に移すことは私には無理でした。しかし一応一つ前の文 'I see you have not entirely shaken off your old habits.' を「昔からの習慣を十分手放せてはいないようだね。」と、'shake off' を「手放す」と訳すことで、'shake hands,' 「握手する/手を握る」と対をなすようにしておきました。

*3:S. トゥールミン、A. ジャニク、『ウィトゲンシュタインのウィーン』、藤村龍雄訳、平凡社ライブラリー 386, 平凡社、2001年、335-336ページ。